第二章/第十話
やはりいくつになっても童心というものは存在しているようで、僕は少しの罪悪感をリュックサックに詰め込んで家を出た。その道中が何だか一度も行ったことはないけれど、遠足みたいで、きっと林間学校もこんな雰囲気だったのだろうなと胸が弾む。
すっかり回復した足で歩一歩ゆっくりと進んでいく。楽しい、純粋にそう思った。この道を楽しいという感情手持ちに歩いたのはいつぶりだっけ。
夏の掻き毟られるような暑さで無容赦に肌が焦がれていく。気づけば随分足取りが軽くなっていた。待ち合わせ場所にと凪の指定した場所は随分荒廃した文具屋だった。倉庫のような四角い、建物とも呼ぶべきかわからない建築物。入り口付近に窓ガラスが一枚だけあって、そこから薄暗い内装が覗いていた。業務用の箱を組み替えて作った商品ケースにありふれた文房具が並んでいる。
「早坂君だー」
彼女が走ってきた瞬間、僕は様々な意味で返事に困った。「あ、うん…」と返すが空返事でしかない。
個人的に僕の童心の中には、勝手ながら少しだけ、休日に誰かとどこかに行く凪への期待があったのだ。休日だし、普通にTシャツなのかとか。そもそも彼女がそんな服装に頓着するように見えないなとか。色々ダメだと分かっていながらも妄想してしまっていた。それが勝手であることくらいわかっている。分かっているけど。
「なに?」
「いや…てっきりもっとラフな格好してくるかと思ったから…」
「公共の場はきっちりしないとでしょ」
「…うん、なんだけどね?なんで…制服?」
「へ?」
学校指定のシャツにご丁寧にネクタイまでして、下半身には彼女の口にした通りきっちとスカートを履いていた。クラスで大声で笑っているような女子と違って律儀裾は膝下で履いている。ジャケットは流石に着ていなかったが、それでもただのリネンのシャツにスキニーパンツを履いただけの僕とは豪い違いだった。
「そういうとこちゃんとしてんだ」
「たまに思うんだけどね君、遠慮がないよね」
「なにが?」
「色々」
「おれ?」
「うん」
「心外だなぁ」
凪も大概ズバズバとした物言いをしている。相殺されて僕らの間に流れる空気は心地よかった。
アスファルトの上を隣立って歩く。バス停に着いて、無人に近い市営のバスに乗り込んだ。冷蔵庫なみに冷えている車内で、何をするでもなく座る。
寂れた空気が二人の腕の間に滲んでいる。それを埋め合わせようとは思わなかったが、そこらじゅうから話題を拾ってきてはどちらかともなく語り出す瞬間が楽しいと思った。凪の天然な発言に正論を返し、「そうじゃない」と呆れられて「ごめん」と口だけの謝罪を試みる。こんな不利益な会話をしたことが今まであっただろうか。
「だからね、漬物の汁絵の具にさせてって言ったら塩臭くなるからだめって言われて」
「当たり前じゃない?」
「違うの私すぐお腹すいちゃうから、絵の具の匂い美味しくすれば作業に集中できると思ったわけ」
「白米欲しくなってダメだったに一票」
「なんでわかんの…」
結末を端折られて肩を落とす彼女の肩が少しだけ上下していた。唇を薄く開いて、息を吸って閉じている。
「疲れた?」
「非常に」
「もう着くよ」
到着したのは自分たちが普段最寄りで使っている駅よりかなり大きいそれの麓だった。駅と繁華街、幼く言うならショッピングモールが一体化したような造りの駅は居酒屋に本屋、スーパー、レストランが揃っていて駅としての役割の方が小さそうだ。平日の夏の昼間。それでも人が多く右を見ると凪がふらついている。
「早坂君よく人酔いしないね」
「鍛えてますから」
鍛えてるって何さ、と彼女がぼやいた。
電車の中で一番端の席に座り、僕はスマホを凪の方に見せた。華やかに飾られた画面がカバーもストラップも付けていない機器に浮いている。
「で、今から駅でここまでいって、この駅で一回乗り換えるのね。で、駅着きました」
「着きました?」
「歩きます」
「えー………」
「たかが七分だから」
「しょうがないよね、絵のためだ」
凪はよし、と気合いを入れ直して電車の座席で背筋を伸ばした。今更制服着てこなきゃ良かった、などと言っている。
電車の中で彼女はひたすら絵を描いていた。絵を。スケッチブックを広げ、見えては過ぎる景色を一心不乱にその白紙の世界の上に描き出していた。加筆ばかりで修正を加えない。段々と濃くなっていく画面に、動きと世界が創り出されていく。一筆一筆、心が籠っているのかすらわからない速度で。鳴り止まないボールペンの走る音が左耳に刺さった。スケッチブックの方は見られなかった。見ると、彼女の世界を邪魔するようで悪かった。ただ到着したとき「見て」と向けられた世界は緞帳が上がった劇場のように、躍動感を持って連続するコンマの集合体で溢れかえっていて、自然と息を呑んでしまった。そんな僕を見て得意げに笑っていた彼女は、今ビルの中に溺れている。
「ビルの匂いがする…」
「何その機械的な匂い」
石油の匂いがしそうだ。あるいは混ぜ物をしたコンクリートか。彼女を半ば引っ張って本物の劇場へ連れ出す。
「着いたよ」
「着いたよ…?」
僕の言葉を無力に反芻していた彼女だが、立ち昇る芸術の嵐を目にした途端疲れは興奮に変わった。一度だけ母が幼少期に連れてきてくれた美術館。美術館と言っても劇に音楽に絵に、割と芸術の密集した場所、という表現の方がわかりやすいだろう。
「うわすっごい…現代アートが大量だ」
「現代アートなのあれ」
壁に取り付けられたよくわからない化け物を凪が指している。僕には飾りにしか見えないが、凪はあれが多分この動物とこの動物のキメラで、こっちの動物にはこういう性質があって逆にそっちの動物はこういう特性があるからこの作品は…と。
「わかった?」
「ごめん半分以上何言ってるかわからなかった」
「ちょっと?」
明らかに不機嫌な凪を宥めて中に入る。至る所で彼女は立ち止まってあれやこれや説明をしてくれた。僕もわからないなりにきちんと聞いておくことにした。
「待って。うそ、やばいよ早坂君」
僕が受付でチケットを渡しているのを無視して会場に入るや、凪が目を瞬かせてまた戻ってきた。
「何、どうしたの」
「見てあれ。この前言ったカビ生えた林檎だよ」
財布をしまった腕をくいくいと引かれる。力のままに進むと言葉通りカビの生えた林檎の絵が飾られていた。
「なぜわざわざカビを生やすのか」
「それが良いんじゃん、現代風刺としても捉えられるよ、ほら見た目綺麗だけどいざ裏向けてみたらカビだらけで腐ってました的な」
「ほぇー…」
本当に、中央にどんと描かれた林檎にはあの薄翠と薄灰色の苔のようなものが生えており、中心部が食欲を失う泥の茶色で埋め尽くされている。写実的ではないが荒っぽい一面の中でそこだけ描き込みが多くリアルで、それがなんとも言えない気持ち悪さを出していた。
「この絵の具多分モスグリーンにダークブラウン混ぜてるね、ここはあえて赤の隣にグレー置いてる…天才だな」
「影が緑いよね」
「そうそう、陰性残像って言うんだけどね」
「あ、あれか。人の目って疲れると反対の色感じやすくなるって現象」
「よく知ってるね」
「理系ですから」
「一希先生はただ補色入れれば良いやーじゃなくて、環境光とか人の目から見てどうとか、そういうのも考えてるから影にも大量に色の種類使うんだよね。影の中にもちゃんと段階がこう…あってさ。全部込みで考えて描けるの本当凄すぎる」
絵をそこまで楽しめるだけの感性は持っていないが、身内がここまで絶賛されているのを見るとやはり悪い気はしなかった。何より、隣で幼稚園児のごとく目をキラキラされている彼女が見られて良かったと思う。
「あれ?海澄じゃん!何してんの?…って、え!?凪ちゃん!?」




