第二章/第九話
母が模試の予定があるからと退院を早めた所為で、しばらくまともに家から出られなかった。久しぶりの窓から見る青空がじりじり目に染みて痛い。
朝から父と母は居なかった。僕を置いて東京へ観光に行ったらしい。「体調管理も出来ないような子は連れて行くわけにはいかないわ」と。その予定があったことすら初耳だったのが。一週間は帰ってこないようで、いってきますの一言もなかったのに一週間のノルマはしっかり僕の自室の勉強机に貼り付けられている。
気づいたら当たり前を教えられなくなっていた。自分の目の前には常に光り輝く特別な品、例えば成績であったり、賞であったり、学歴だったりする。それらをもう 目が眩まなくなるほどに見覚え、手に入れることを強いられるようになった。初めのうちは僕も輝きに魅せられて、手に収めようと奮闘した。気が遠くなるほど勉強を続けた、体が動かなくなるほど練習を重ねた、常に愛想良く接し、人に好かれることを何より心がけた。
しかしダイヤの美しさも塗れればわからなくなり、母はダイヤだの、ルビーだの、ウランだのを持て余した僕にさらなる稀有な存在であることを課した。稀有で特別。誰にも負けない、唯一無二の才能。才能という言葉は所詮後付けのタグに過ぎない。昔焦がれたその光はどんどん僕の首を絞めて、人生の崖っぷちに追いやっていく。
でも誰も悪くない。僕もいつからか、ダイヤの希少たるやを客観的に見れなくなっていたから。一番僕の首を絞めているのは、求めてばかりで普通を教えてくれなかった母ではない。さらなる特別を課される僕を主観視しなかった父ではない。他でもない、僕が悪い。あの時からそう思うことにした。
鏡に立つといつもこれを思い浮かべる。
きっと傷の仕業だ。僕の顎の左横から、唇の左下にかけて斜めに裂かれた抉れ傷。肌色で覆い隠されてはいるものの、ずっと中心の谷底にはぴんく色の筋がつうっと通っている。深くまで断絶が食い込んでいて、触るとざらざらとした指から伝わる触感だけが伝わってきた。傷自体の感覚はほとんどない。母はこれを「汚い」と言った。その時、珍しく父が母を怒鳴ったのを覚えている。
母の目もないし今日は傷を隠さないまま洗面所を離れた。着替えをし、荷物をまとめ、家を出る。食欲がなかったので朝食は食べなかった。
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彼女に近づく口実ができて正直安堵と不安がごちゃ混ぜになっている。脳内で彼女の顔が浮かんでは消えてを続けている。彩り豊かな顔だ。そう思いながらいくらなんでも家の近くをほっつき歩いて偶然会える機会を狙うというのは、ストーカーのそれ過ぎる。
彼女の家は一度行ったことがあるから道筋は大体わかったし、家の場所も理解している。茶色の屋根、白い壁に入り組んだ中庭。玄関扉の前には少し庇があって、隣に柵。柵の奥には中庭へ続く道が入り組んでいる。
ここまで詳しく思い出せる自分に寒気を覚えながら、僕は彼女の家に一番近い曲がり角辺りを右往左往している。脳の傍に「え…」とドン引きする彼女を抱えながら。口実はあるのに、そうして会った後の彼女の反応に保証がないから余計怖い。
「…早坂…君…??なの…??」
「はい!?」
ここ半年で一番大きい声が出た。対する凪も肩をびくっと震わせている。当たり前だ。しどろもどろになりながら弁明を試みる。
「いや、その、ごめん。さっきのは、えぇ…うん。驚いただけでね。ごめんなさい本当に…」
「あの、それはいいんだけどさ」
「良いんだ?」
少し色素の薄い髪が光を乱反射して水面のように輝いていた。髪と同じ色の瞳が首合わせてこてんと傾く。薄い唇がほんの一端尖って、ここまで完璧な見た目をしているのに服装はTシャツと短パンだった。背中に黒の四角いリュックサックを抱えている。中にはあの日と同じ画材とキャンバスが丸々入っているのだろう。制作途中の絵を描いていたが絵の具が足りなくなり購入しようと外出した、大方そんな感じか。自由で羨ましい。
「どうし…っていうか何?」
「あぁあのね、お礼。言おうと思って」
「お礼?なんで?」
混じり気のない困惑を向けられて余計に自分のしていることの異常さが浮き彫りになっていく。目が泳いだ。行き場のない両手を置ける自転車はなく、背筋がぴんと伸びた。
「ほらこの前…病院までさ」
「あ」
「送って、もらったから」
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜」
凪が目を開いた。虚空を見て説得でもするように腕を組み、指を振っている。何度がうん、あれね、そっか、と記憶の照らし合わせっぽく頷いた。僕の方に向き直った時、疑いの視線が消えていて安心した。
「え、そんなことで」
「そんなことって。明野さんが放っておいたらおれ死んでたわけだし」
「置いてくなんて非人道的なことしないよ…体調大丈夫なの?」
「うん、そっちはね。もう」
実のところまだ頭が少し痛い。記憶の倒錯でふらふらする。しかしそんなことを告げて彼女を心配させたくなかった。何より、今こうして僕を心配する対象として見ていない状況が、率直に心地よかった。疑り深いはずの彼女は僕の言葉を丸々信じきっていて、目の前に映っているのは自分の行動が功を奏して健康に戻った僕なのだ。それに酔わないところが凪らしいし、深読みしてさらに心配しないのもらしいと思った。
「それだけのためにわざわざ…ご苦労様です」
「良いんだよ、あ。でさ」
自然な流れで話題を切り替えて、リュックサックの中を漁った。財布の中に丁重に入れておいたチケットを見せる。
「何これ?」
「従兄弟の兄から貰ったんだ。画家やっててさ。明野さん絵好きでしょ?個展やるのにチケットもらって。お礼と言ったらなんだけど行かない?」
勢いに任せて押し付けるような言い方になっていないだろうか。凪の瞳が何度かチケットを往復して、やがて信じられないという顔で僕を見た。
「…早坂一希先生…?従兄弟なの…?」
「せんせぇ?」
凪の首が何度も縦に振られている。頬が心なしか紅潮していた。唇を真一文字に引き結んではぱっと離して、また結んでいた。
「うん、現代の油絵画家の巨匠でね、私この人の絵が一番好きなの。特に毒林檎の、あのカビ生えた林檎の絵とか最高で。代表作だし展示されてるかな?この人の個展ずっと行って見たかったんだぁ…ありがとう…」
大喜びしている凪を見てこっちが面食らった。
「そんなに嬉しい…??」
「嬉しいよ!従兄弟なんだ早坂君、羨ましいなぁ」
「あぁ…まあ、嬉しいなら良いんだけどさ…」
「なに?」
「そんなに喜ぶと思わなくてびっくりしてる」
彼女がついと真顔になって、それからぎこちなく笑った。比喩はあまり得意ではない、行動と繋げることしか基本できないから、小説の授業なんかは苦手だったのだ。でも彼女の笑顔を見てはっきりと、朝顔を思い浮かべた。僕らが目を覚ます頃にはもう悄気ている朝顔。綺麗なはずの花弁を恥じらうように隠す、薄青と紫の透けた花。
「絵好きだもん、当たり前じゃん」
「……そっか」
ひどく安心したんだ。君がまだ絵を好きでいてくれて。僕のせいで絵を描けなくなっていたら、トラウマにでもなっていたらどうしようって。ずっとずっと心配だった。チケット片手にはしゃいでいる彼女をおぼろげに見つめる。華奢な腕がTシャツの裾からふわりと覗いて忙しなく騒いでいる。リュックサックの重さも気にせずただ目の前の紙切れ一枚に魅了される姿は幼い子供みたいで、大人っぽい外見と行動の差異がどちらにもしっくりこない。ただ君を食い入るように見ていることしかできなかった。もう僕の中にしかない日々を。
ひたすらに、悔しい。そしてどうしようもないほど嬉しく、苦しい。




