第二章/第八話
「悲しいわ、大事な大事な模試をサボるなんて」
彼女は造花の如くきっちり飾り立てられた睫毛を伏せながら、この世の終わりかのような声を僕に投げつけた。それは昔国語の授業で習った羅生門のSentimentalismeを思い起こさせたが、まだ朦朧とした頭ではよくその意味を考え得られない。
「他の塾が主催している模試を埋め合わせて置いたわ。貴方の通っている塾よりレベルは低いし、満点取れるわよね?」
「……ごめんなさい」
「良いのよ謝らなくても、母さん怒ってないから」
喉の奥が空洞なのかと思うほどその言葉は風によく通った。やって来た看護師と医師を見て自分が今いる場所が病室だと気づいた。
「すみませんお母様、早坂くんが目を覚ましたと」
「そうです。本当に良かった…倒れたと聞いて駆けつけて来たんです。どうなることかと…」
彩られた眦をそっと指で擦る仕草をした。第一関節の腹が皺一つない肌をくしゃりと歪め、目元がコンマ一秒にも満たない速度で悲しみの表情に切り替わる。看護師はそんな母の様子を見て自身も眉を下げていた。
「十分です、目覚めてくれればそれで。ところで先生?海澄の状態はどうなんですか?一週間以内に退院できそうですか?」
「熱中症による水分不足ですね。朝夕の点滴と、三日程安静にすれば退院可能ですよ」
医者は手元のカルテをぱらぱらめくりながらそう言った。母は等間隔に頷いて、僕の方に向き直る。その目は慈愛に満ちた母親そのものだった。宗教の聖書にでも出て来そうな、模範的な愛情の笑顔。
「良かったわね海澄。さ、意識が戻ったならもう勉強できるわよね。それじゃ私は予定があるから、退院までに対策用のテキストは終わらせること」
それだけ吐き捨てて彼女は女王様のような足取りで病室を出て行った。ベッド下を見下ろすと思った通り参考書が十冊程度紙袋に入っている。ご丁寧に解かずに飛ばした問題のあるページ全てに付箋を貼って。愚行がバレたという失態の重さを改めて感じ取って、僕は気づかぬうちに大きく息を吐ついていた。
正直なところ、ここ数日全く勉強が手についていなかったのは事実だ。一学期期末の反省として烈火の勢いで課題を終わらせ、燃え尽きていたのかもしれない。手と指が動けるようになったのを視認して、紙袋から筆箱と一番付箋の多い現代文の参考書を取り出す。付箋には細めのものと太めの真四角のものがあって、真四角の方には
「『〜かと思われる。』は自論。本文から抜粋して書かないと減点」
「作者の気持ちは本文から読み取れる範囲で答える。想像は不要」
色々書かれていた。彼女、僕の母にとって満点以外は所詮普通の価値しかない。「普通の人間にならないでね」、母の口癖だった。幼いころから普通を知らずに育った僕は、満点を取る他に選択肢が元から無かった。シャーペンで途中まで書き直した記述問題の回答を消す。「傍線部から読み取れる作者のこの作品に込めた意図を百字以内で記入せよ」ペンが一向に進まず、紙の上でとんとんとダンスを踊っている。
こうやって固まってても仕方ないから得意な数学からやることにした。数Ⅱの三角関数。
「sinx = 3/5, cosy = 12/13、ただし x, y はともに鋭角とする。このとき sin(x + y) の値を求めよ。」
「まずcosx = 4/5, siny = 5/13(三平方で補完)
加法定理より
sin(x + y) = sinx cos y + cosx sin y
= (3/5)(12/13) + (4/5)(5/13)
= (36 + 20)/65 = 16/65」
36+20が引き算になっている。倒れた後で冴えた頭だ。少しだけ自分のミスに呆れながら、淡々と問題を解いていく。回答と丸々一致しているか確認して、赤ペンで丸をつけて次の問題。昨日の夜疲れた体を叩き起こして解いたそれらは徒労に終わっていた。細かな計算ミスが見れば見るほど出てくる。全てをこまめに直したら十分としないうちに終わった。今度は数Bの参考書を手に取る。数Bはテストの成績も理系教科で最も低かったし、付箋の量も尋常ではない。一枚ずつ横に貼り直して問題に取り掛かる。
「海澄ーーー!!!来たぞ!」
病室に一番来てはいけない類の存在が笑顔を咲かせてこちらに歩いてきた。
「一希いつきだ」
「一希だ…。じゃねぇよ俺心配したんやからな!」
サングラスを掛けていたにもかかわらずその目が瞼まで日焼けしているのは、大方いろんなところでサングラスを外して景色を眺め、きゃっきゃと騒いでいたからだろう。長身と筋肉質な体付きは二十四歳の大人に違わないのに、無垢な顔つきのおかげかどことなく未成年に見える。
「奈良からわざわざ来たの?なんで?」
「俺こっちで個展やんねん。だから新幹線でバーッて向かってたら母ちゃんから海澄が倒れた聞いて飛んできた」
「叔母さんが…」
「そうそう。それはもうすんごい剣幕で。あ、せや母ちゃんに写真送るわピースして」
言われた通りにピースと最大限の笑顔を返す。京都の芸術大学に入学し、卒業後もこっちに帰らず奈良で過ごしている一希の口調は関西弁と標準語が混じっていた。
「もう母ちゃんから返信きた。泣いとる泣いとる」
「え、見して」
「顔文字だって」
人工的な緑色の吹き出しに大量の泣いている絵文字と笑顔の絵文字が並んでいた。思わずふっと顔が綻ぶ。
「で、さ!」
「声でかいって」
「お前結局なんで倒れたん?熱中症」
「まあ大方は…そう」
僕の歯切れの悪い返答が引っかかったのか、一希は眉を顰め、口を尖らせる。頬がピクリと一度痙攣した。寄せた眉頭が目に深く影を作っている。
「具体的には?」
「それは…ただ、倒れただけ」
嘘だろ、と珍しく怒気を含んだ声でそう言われた。聞いた耳の内側がびりびり震えるような。狭い病室のベッドに落ちていったその言葉が、空気をゆっくり持ち上げている。
「嘘なんだろ」
僕は黙った。引き絞られたように声が出ない。一希の自分を心配するあの顔を見るのは嫌だった。その表情はいつも、得体の知れない何かに哀れみを覚えていたから。真っ直ぐ見下ろしたこの手が突然自分の物ではない風に見えて、僕は右手を、左手でそっと握った。暖かい。
「まあいいや。話したくないならいい。ところでな海澄」
一希がそう切り出したと同時に、目の前に紙切れ二枚が差し出された。見覚えのある一希の絵で装飾されている。油絵、多分水彩画、アクリル画。自然のものを描くのは一貫しているが、それぞれの作品で異なる画材を使っているから統一性はない。ないけれど、海山空、虫。それらを色鮮やかに、かつオリジナリティー溢れる大胆な構図と色使いで描く彼の絵は彼女を想起させた。
「なにこれ」
「個展のチケット。夏休みだしちょっとくらい息抜きに?」
「え、いやおれは…」
言いかけてはっとする。これを利用したいわけではないがある策が燦然と自分の頭の中に湧いてきた。眼前でエアコンの風にふらふらする紙切れを見つめる。夕方だ、暑くもないだろう。「無駄なことを」と咎める母の姿が浮かんで消え、腕が自然と伸びている。
「…それちょうだい」
「あれ、乗り気やん」
「うん」
気づけば深呼吸と共に、二枚のチケットを受け取っていた。
少し文法の間違いがありましたので再度投稿させていただきました。




