第一章/第七話
それから結局補習をすっぽかしてしまったことに、最寄駅へのバス内で私は気づいた。あの空気に乗せられて帰ろ、とリュックサックの紐を握ったのだが、それが見事に仇となった。夏休みの暇が一つ潰れて、バスの座席で私は頭を抱えていた。
でも今から戻るのもそれはそれで怠いし、というわけで家に帰っている。
あの母親の薄い愛嬌を貼り付けた、声がずっと頭で反響して五月蝿い。洋楽を大音量で流してなんとか消し去ってるけど、しつこい油汚れか。外部の音を遮断していたら階段から滑り落ちそうになるし。なんなんだよ。
暑空剥き出しのホームで電車を待つ。新手の拷問だ。スマホの時計を見ると十三時三十二分。デジタル時計の無機質な表示に人間の私は面食らった。
「ーい。おーい。凪?おーい」
聞き覚えのある声がヘッドホンを貫通して、びくっとなって振り向いたら早坂君だった。昨日玄関で会った時は段差があったし、今朝教室で話した時は座ってたからわからなかったけど、こうして普通に並ぶと私が少々首を痛めそうなくらい身長差がある。だいたい頭一個分とちょっと。
「あ…早坂君だ」
「明野さん補習行ったんじゃなかったの?」
なんであのことを言及してこないのかばかりに気を取られて返答がなあなあになっている。そんな支離滅裂な回答を聞いた早坂君は不思議そうに目を開いて、細めた。まつ毛が長い。光を反射して瞼と一緒に薄く輝いている。
「なんで盗み聞きしてたこと言わないのかって?」
ぶんぶん首を縦に振った。
「まあ、気にしてないし」
「君にプライバシーという概念はないの???」
「プライバシーか」
「うーん、まあないことはないけどさ。多分明野さん以外だったら口封じしてたし」
「なんで?」
「そこ聞く?単純に気使われるの嫌だからだよ」
「違くて、私がいいのはなんでって」
「え、まあ…なんだろ。明野さんそれ知っても態度変えなさそうじゃない?」
言葉を失った。信頼してくれてるのか?これは。
「じゃ、おれこっちだから。じゃあね」
早坂君は反対の電車に乗って、呆気なくいなくなった。電車の走行音が、鳴っているのにやけに遠く感じる。ヘッドホンから小さく、洋楽が空に響いていた。
陽炎ができる程の暑さと、私の体中のヒヤリと冷える感覚が、少しばかり、ほんの少しだけ、淋しさを呼び起こさせる。夏だ。蝉が生い茂り、海が燥ぎ、今年の私は日がな一日どう過ごそう。
騒々しい青のアトリエが、汗を纏ってそこにある。
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担任にはつくづく申し訳ないと思っている。思っているけど、この量の課題をこつこつ取り組めとは無理がある。ダンボール箱に侘しく放置されたワーク達は捨てられた子猫だ。残念だが私は猫アレルギーなのだ。
馬鹿なことを言ってないで、と自分を律しまだ線画だけのキャンバスに向かう。今夏は少し私も未来に向けて奮闘してみようかと思い、自分の絵をコンクールへ出そうと思ったのだ。なぜ今までやらなかったのか?答えは単純。苦い思い出が多過ぎるからだ。
私は覚えている限りのコンクール、大会、展覧会で自分の絵が入賞したり、展示された経験がこれっぽっちもない。小学校低学年の頃、腕を奮って描いた作品を見た友人の第一声は「海は赤じゃないよ」だった。色鉛筆で鼻刺してやろうかと思った。
海は素晴らしい絵画モチーフの一つだと思う。乱反射で色取り取りに輝く水面、白なように見えて赤、オレンジなように見えてバーミリオン、コバルトブルーの近くにサーモンピンク。気持ち悪い配色に見えても境界をはっきりさせれば鮮やかな虹の画面に変身する。
とりわけ色の名前を覚えるのが好きな私が、最も気に入っている色がある。それが活色だ。ややエメラルドグリーンに近く、されどそこまで透き通っているわけではなく、生命力を感じる色。翡翠の力強さに似ているかもしれない。例えば赤はレッド、菫色はヴァイオレット、乳白色はミルキーホワイトのような調子で大抵の日本語の色名には英語のそれが一対一で付くものだが、活色にはない。いわばサシで対応する英語がないのだ。
私は何度かこれに名前をつけてやろうとして、何度も失敗している。ミルキーエメラルドグリーン?乳の持つ優しさとは何か違う。ターコイズブルーグリーン?ターコイズの奥の深さはない気がする。
だからこそ私はこの活色が好きなのかもしれない。その名前しかない、その名だけを持つ色。活色なんて、直訳したらアクティブカラーじゃないか。全くこの色自体とは関係ない名前のはずなのに、なぜかしっくりくる。
キャンバスを置いて活色の絵の具チューブを、ぼうっと見ていた。かなり減っているから、新しく補充した方がいいかな。時計を見たら十一時過ぎ。最寄り駅から数駅先の画材屋まで行って、ファストフード店で昼食を買って帰るには十分な時間だろう。思い立ったが吉日。今だ。服を整えてキャンバスを入れる用のリュックサックを背負い、家を出た。
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十メートル歩いてもいない所で私は折れかけていた。暑すぎる。
歩一歩踏み出すごとに額から首から汗が吹き出し、額を伝う塩水を舐めた舌が、気持ち悪さで肺ごとむせ返りそうだった。布地がさらついた衣類にしたのが間違いだったかもしれない。べたりと肌に張り付いて熱を逃がさず、その肌と布の境界線でまた新たな汗が滲み出る。それは外に伝うことなく服の内側に留まり、粘ついて私の皮膚を解こうとしないのだ。暑苦しくしょっぱい空気が周りに広がる。まつ毛から汗が垂れ、網膜に落ちて痛い。死ぬ。冗談じゃなく。
「…あれ?明野さん?」
認知症みたいに徘徊していた私の背中を、聞き覚えのある声が押し止まらせた。早坂君だ。どうしてここに居るのかという疑問の前に、自転車に乗って大量の荷物を背負うその有様を純粋に心配した。
「あの…大丈夫?その…それ…じてんしゃ…暑いでしょ…?」
「は?そこ?」
汗が目に染みた視界で視認した早坂君の顔は呆れていた。ため息をついて自転車のサドルをポンと叩く。
「慣れてるからご心配いりませんよ。ていうかそれより、明野さんの方が大丈夫って聞かれるべきだよ」
「これは…普段外に、出てないから…」
「でしょうね。今の時間帯なんか暑いに決まってんじゃん。日陰行こ」
そう言っていきなり私の腕をぐっと掴んで来たものだからびくっと背中が跳ねた。すでにずんずん歩き出そうとしていた早坂君が振り向いて、「ごめん、いきなり触って」と苦笑いしてまたずんずん進む。待って、とか。いきなり何、とか。言う隙はなかった。
「それで…十一時から外に出ようって?馬鹿?」
ストレートな物言いにゔ、と腹の奥を突かれた声が出る。
ガソリンスタンドの日陰で私は早坂君に水を買い与えられていた。よく冷えた命の源を喉に流し込むと、体だけでなく心まで潤いで満ちた気がする。
「あ、りがと」
「まさか一本飲んじゃうとは」
ペットボトルは私の手の中でいびつにひしゃげていた。中には寄せ集めの水滴が少し、ぽたぽたと一定の間隔で集積しているだけで、それ以外は空だった。それを見ていると相対的に内臓を辿る水が冷たく感じて、腹を押さえた。
「平気?」
「うん…」
「平気じゃないじゃん」
「早坂君は…すごいね。忙しいんでしょ、私のために割く時間勿体無い」
「まあそれは。そう、だけど」
「ねえ。昨日から思ってたけどさ、あのお母、さん?なんなの?なんなのとか私が言っていい立場じゃないのかもしれないけど、それにしたって酷くない?いくら早坂君が勉強勉強って…言ってたって、友人なんて要らないとかさ」
「………明野さ」
「変だよ」
歯切れが悪い返事を受け止めきれない脳が、募らせていた疑念のダムを崩壊させた。次から次へと言葉が溢れ出て、全部が語尾に疑問符を纏っている。なんで?どうして?言い繕う暇も与えないほど口が勝手に動く。
早坂君の顔を見なければよかった。彼は唇を噛んで、目を押し付けるように伏せている。悔しい、それでいて苦しそうな顔。こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
どうしよう。どうしたらいいんだろうか。こう言う場面に出くわしたことがない。わからない。
「…いや、でも。うん。そ、う。だよね。変だ。変だよ」
無理をしていると感じさせてしまった、そう彼は思っていそうだ。途切れた言葉のコンマが耳を傷める。
「じゃあ。うん…話すよ。おれ…おれのこと。黙って聞いてくれるなら、話す。明野さんが納得いくまで」
「へ」
何その声、言いたいのはこっちの方だ。距離を置かれる覚悟で今身構えていたのに。ビンタではなく抱擁が飛んで来た。どう対応していいのかわからなくて手が虚空を掻いている。
「その前に自転車こっち持ってきていい?」
早坂君の体が、立ち上がった瞬間ぐらっと揺れた。そのまま熱されたアスファルトに倒れる。
「え…早坂君!?」
私はさっきまでの徘徊具合など忘れたように駆け寄った。呼吸が荒い。見てみると顔が白く、額が冷たい。この猛暑で、冷え性という概念では片付けられなかった。
…あ、もしもし。あの、はい。救急です。はい。えっと…クラスメイトが倒れてしまって…あぁ学校じゃないです。え、家の近くで。急に出くわして、それで…場所ですか?ここの住所なんだっけ…
お知らせ
第一章終了となります。第二章の書き溜めをするため、また更新頻度が遅くなりますがご了承下さいませ。
【追記】
こちら側のミスで、本文途中までしか記載されていませんでした。完全版を再投稿いたします。誠に申し訳ございません。




