第一章/第六話
いつも来るのが遅い数学教師を待ちながら、私は勿論、サボろうという野望を抱えていた。
実質「サボろう」ではなく、「サボれる」のだ。他の補習と違い数Ⅱは定期テストの内容をまとめた中テストに合格さえすれば解放してもらえる。だからそれだけ解いてささっと帰ろうと思ったんだけど、来ない。件の帰る条件が来なければサボるという手立てを押し付けられているようなものじゃないか。
画集でも観ようとリュックサックを漁ると、とある違和感に気づいた。水筒がない。恐らく教室に忘れて来たのだ。僅かな望みにかけて他の場所も探ってみるがやはりない。ため息と舌打ちを同時にしたせいで変な音が出てしまった。のっそり立ち上がって、リュックサック片手に少人数教室を出る。
学校の設備には特別金をかけていると、二年前の体験入学では言っていたが正直他の高校とあまり変わらない。特に旧校舎の方は壁がところどころひび割れているし、黒ずんでいるし。けれどこの方が年季というか、人の通った歴史が感じられて私には好印象だった。窓の日差しが当たらず温い床を歩く。下からの熱で温いという感覚を抱いているから実際触ると冷たいんだろう。新校舎への渡り廊下を歩く途中、中庭で赤一色のTシャツを着た生徒達が何か踊っていた。文化祭の発表練習だ。去年、とりあえず食べ物全制覇しようなどと意気込んでいた私にとっては知らない世界でしかない。ラジカセから聞こえてくる華やかな音楽が異国の国家みたいでなんだか居心地悪かった。
子綺麗な新校舎の階段を登って、二年七組の教室が見える廊下までやって来た。のらりくらり散歩でもするように。
教室の扉に近づくと、中から何か話す声が聞こえた。びっくりして背筋が凍ると同時に半歩後ろへ下がった。怖いもの見たさなのか、まさが幽霊ではあるまいが恐る恐る、廊下側に一斉に取り付けられた小窓の空いた一つから中を覗いた。
小窓はちょうど彼らの死角になっていて、彼らには私の姿が見えていない。ホワイトボードを背にして腕を広げる男性は声色的に担任だ。その向かい側、いわば私に背を向ける形で、女性と男子生徒が隣り合って座っていた。女性は背筋を伸ばしてじゃらじゃらとブランド物を貼っつけていかにもな金持ちの風貌をしており、その横で男子生徒が大人しく座っている。目を見開いた。その座り方をまさに今朝、見ていたからだ。
「ですから先生、海澄の成績が最近著しく下がっているのは、教室で余計な人間関係を作っているからじゃないんですか?先生の方から、この子に誰も関わらないように言っていただけません?」
は?と小さく声が出た。猫撫で声とは正に彼女のことだと思う。こんな短いセリフで「この人やばい」と思わせてくれる人間なかなかいない。
「あの、お母様。早坂君確かに前回のテストより順位は落ちましたけど、その原因は交友関係だけではないと思います。それにクラスメイトと関わりを持つことを制限することは、一学生の人生を尊重する立場として看過できませんし…」
担任もいいことを言うもんだな、と感心した。ただ声が明らかに弱々しく、母とみた女性の機嫌を損ねぬよう慎重になっているのがわかる。らしくないな。
「一学生ねぇ。先生は学生の本分をお忘れですか。勉強でしょう?」
「ですが、人間関係の構築も重要な要素で」
「交友関係を築くことは確かに大事ですね、そう。けど先生、それでうちの子が大学受からなかったら彼らのせいですよ?どうにかできるんですか?」
「失礼ですがお母様…」
「私この子に失敗してほしくないんですよ、人生の恥になってしまいますから。そのためにも今勉強して、あとでいくらでも人脈なんて作れるでしょう?」
それからもやれ模試以外の学校行事は全部時間と学費の無駄遣いだのどうしてそんな遊びに金を払わなければならないだの、進学校では文化祭も修学旅行も取っ払って勉強の時間を一秒でも多く確保できるように勤めているんだ。挙げ句の果てにはこの高校も進学校を語るならそれくらいして当然だろう、酷い言いようだった。
女性は一通りまくし立てた後、「行きましょ」と満足したように早坂君の腕を掴んで教室を出ていく。縮こまった担任の肩が一層弱々しく感じられるのを、黙って私は見ていた。
ただ最悪の失態を招いたのはそのすぐ後だ。ちょうど廊下にしゃがんでいた私は担任にばかり気を取られて、廊下に出れば彼女と鉢合わせてしまうことをすっかり忘れていたのだ。案の定彼女は私を視界に認めた瞬間吐瀉物でも見るかのように顔を歪ませ、軽蔑した態度を隠しもしない。
「…人の会話を盗み聞きするなんて。ねぇ海澄。やっぱりもう少し頭の良い高校に行くべきだったのよ、こういう非常識な育ちの悪い子が居ないから」
心底辟易した。確かに私だって悪いけど、育ちの悪い子要らなかっただろ謝れよ、そう言い返してやろうとも思ったが、それより担任のことが気になったので最大限の侮蔑を込めて睨んだ後頭を下げて教室に入った。「まあ、まともにごめんなさいの一言も言えないのねぇ。家がそういう環境なのねきっと」黙れ。
「先生」
私の声に担任はびくっと肩を震わせ、私を見て心配になりそうな笑みを浮かべた。葬式で、人が死んだのを理解してない幼子に向ける笑顔みたいだ。私は最大限顔持ちを優しくしたつもりで、項垂れたまま首だけ上げた担任のもとに歩み寄る。
「すみません、水筒。忘れてて。取りに来たら、ちょうど」
「え?あぁ、水筒な。そこに…」
元気がない。誰の目から見ても明らかだけど。でも私は生徒という立場で偉そうなことを言うわけにもいかず、ましてや不登校で一生徒の事情など詳しく知っているはずもなく。ここに来て初めて自分が不登校であることを恨んだ。水筒を取っている間も、いつもなら「明野!」と元気に駆け寄ってくるはずの担任はじっと考え込んだまま、ついに良心の限界が来て、潤った喉から声を張った。
「あの、さっきのあれ。聞いた…っていうか聞いちゃったんですけど、先生が責任を感じることでもないんじゃないですか?」
「……そう思うか?」
「思います。だってあんなのもう母親の問題じゃないですか。専門機関でしか解決できないレベルですよ」
「…そうか、でもなぁ、駄目なんだよそれじゃ」
駄目ってなんだ。不審そうな私を見て担任はふっと笑った。豪快なこの人にもこんな哀愁が存在したのか。
「生徒…ひいて、子供を守るのは俺たち大人の義務だから」
「そんなの、だって。それなら専門機関だって一緒じゃないですか」
「だな、でも。そういう雰囲気じゃ出てこない言葉もある。だからこそ、日常の延長線上にいる俺たちが、生徒を一番に導き寄り添う立場で居なければならない」
終始首を捻っていると、「明野が理解するにはまだ早いよ」と笑われた。
「子供だからですか?」
「そうだよ、子供だから」
暑くなるし早く帰れよ、と言い残して担任は教室を去って行った。絶頂期の青空が小さな小さな、教室という箱には痛い。映し出すのは影だけじゃなく、私のバツの悪そうな顔もだった。




