第49話 エマ・ローデル、倒れる
エマが倒れた。
朝の会議中だった。
収支表を読み上げている途中で、声が止まった。
次の瞬間、紙が床に落ちた。
「エマ!」
俺は椅子を蹴って立ち上がった。
ガルドが支える方が早かった。
顔が白い。
手が冷たい。
意識はある。
だが目の焦点が合っていない。
「寝不足ですね」
呼ばれた薬師が言った。
「食事も足りていません。働きすぎです」
胸が冷えた。
分かっていた。
分かっていたのに、止めきれなかった。
「私なら大丈夫です」
寝台の上で、エマが言った。
その言葉が一番大丈夫ではない。
前世でも何度も聞いた。
優秀な人間ほど、自分が抜けると回らないと思い込む。
そして周囲も、その便利さに甘える。
俺も甘えた。
「今日から三日、休んで」
「無理です」
即答だった。
「北の市の収支確認が」
「ネルがやる」
「黒鷲商会の価格記録が」
「俺が見る」
「グレアム伯への報告書が」
「後回し」
エマは起き上がろうとした。
俺はそれを止める。
「命令です」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「私は、役に立ちたいんです」
「もう立ってる」
「もっと」
その言葉で、俺は何も言えなくなった。
無能な侍女と呼ばれていた少女。
初めて数字で評価され、仕事を任され、必要だと言われた。
だから止まれない。
仕事を失えば、また無能に戻る気がしている。
「エマ」
俺は静かに言った。
「君の価値は、倒れるまで働くことじゃない」
彼女の目が揺れる。
「でも」
「君が倒れたら、組織が止まる。それは俺の失敗だ」
「レオン様のせいでは」
「俺のせいだ」
ここは譲らない。
人を見る目があるのに、負荷を見誤った。
これは俺の責任だ。
◇
その日の午後、緊急で役割を分け直した。
ネルに記録整理。
ダリオに在庫表。
サラに保存食工房の材料管理。
ミラに修繕収支。
ロウに通行札と巡回報告。
セイルに不正調査。
俺が最終確認。
エマ一人に集まっていた仕事を、分解する。
すると、驚くほど穴が見えた。
誰も収支表の書き方を知らない。
在庫と配給の数字が別々に管理されている。
修繕代の未回収がある。
エマが優秀だったから、表面上は回っていた。
だがそれは、組織ではなく個人技だ。
「これは駄目だ」
俺は呟いた。
ガルドが言う。
「エマが悪いのか」
「違う。俺が悪い」
仕組みを作ったつもりで、実はエマに寄せていた。
それでは、前世で見たブラック企業と同じだ。
優秀な人間を称賛しながら、静かに潰す。
絶対にやってはいけないことだった。
夜。
エマの部屋へ行くと、彼女はまだ悔しそうだった。
「仕事は」
「回ってる」
「本当ですか」
「少し混乱してるけど、回ってる」
エマは複雑そうな顔をした。
自分がいなくても回る。
それは安心でもあり、寂しさでもある。
「君が戻る場所はある」
俺は言った。
「でも、君だけが支える場所にはしない」
エマは布団を握った。
「それは、少し寂しいです」
「うん」
「でも、少し安心しました」
その言葉で、俺も少しだけ救われた。
翌朝。
ネルが初めて、エマの机に座った。
手は震えていた。
だが、彼女は逃げなかった。
組織は、一人の天才で強くなる。
だが、一人の天才に頼りきった瞬間、弱くなる。
俺はその当たり前を、ようやく痛みで思い出した。




