第9話
アリシアは、柔らかい土を踏みしめ、林立する梢を通り抜ける。正午である。そして、小高い丘を上ると、そこには温室がある。そしてたった一人、王立の庭園で憩いの時を過ごしている。この庭園は、色とりどりの花々に限らず、種々の薬草が栽培されている点で、美と実用を兼ねていた。温室の中の草花は、どれも触れるだけで壊れてしまいそうであった。
アリシアは、目についた花があったら、じょうろで水を注いでいた。もっとも、庭園はきわめて広大であったので、温室に限っても、たった一人の手ですべて注ぐことは到底、できなかったであろう。
外の空気とは違い、温室の中は匂いで満ちていた。密度ある葉や、透明な水や、甘い花々や、腐葉土の重い匂いが、ここでは混ざり合う。そして、それらの匂いは層になって漂い、アリシアの胸の中に入ってきた。
通路を進むにつれて、植生は変わる。温室の奥では、薔薇の花が咲いていた。純潔の白である。アリシアはじょうろを置き、その薔薇を思わず、見つめた。
その薔薇には言語にありがちな、内も外もなかった。ただ、世界に向かって己れのイデアを咲かせていたのである。その花弁の一枚一枚が、母なる大地から得た存在を物語っていた。光陰を問わず、絶え間なく咲き誇るその定め、その刹那の持続……
アリシアは、その薔薇の花を手折った。棘が指を傷つけることはなかった。
そして、大空を見上げた。天井を透き通った陽光は、そのまま鮮やかに降り注ぎ、葉の群れに砕かれている。
しかしながら、アリシアは祈ろうとしても、祈れないのであった。
ケント・アーヴィングの顔が、いつからか、視界の中に想い浮かんだのである。
思えば、暁の大塔で再会した時から、アリシアはケントのことを目で追っていた。それはなぜだろうか? アリシアは自問自答した。しかし、澄み切った理性を持っているのに、その理由が不思議とよく分からなかった。その「分からなさ」は、アリシアにとって、どんな魔術教育よりも難しかった。
それは迷宮であり、その内部に包まれているのは暖かさゆえであった。また、そこには涙もあった。しかし、その涙は春の芽吹きのように、快かった。
男の人と結ばれることは、人生を分かち合うことである。そして、愛を代々に伝えたあかつきには、いくつかの胎の実りも得られるであろう。アリシアは乙女であり、無性生殖を行う生き物ではなかった。
ここまで考えが及ぶと、アリシアは混沌とした感情が沸き立った。
先ほどの薔薇をいくつか手折り、テーブルのあるベンチへ近づいた。そして、テーブルの上に薔薇を組み合わせた。
その置き方をいろいろと工夫するのが、アリシアは楽しかったのである。
愛は、歴とした大人を幼子の心に変えてしまう。
アリシアは、そのような夢想に一時間を過ごした。
テーブルに、置き残された薔薇は、次に引き離されるまでの間、互いに交わっていたのである。




