第8話
王が行動を決めるまでの間、アペイロン石は保管庫の中に収められていた。その場所を知っているのは、ごく一握りの人間に限られる。王城のセキュリティは強固で、保管庫には終日、番兵が詰めている。鍵がなければ、二重の扉も開かない。それにもかかわらず、紛失するようなことがあれば、一大スキャンダルに発展したであろう。
一連の任務が完了して、しばらくの日が経った。
ケントは、草花の咲いた山の上に佇んでいた。ただ一人、蒼古たる空気を吸い込んでいたのである。
アリシアは、そばにいなかった。その「そばにいない」ということが、かえってケントの感情を湧き立たせた。
思えば、暁の大塔で、再会した時からだったかもしれない。ケントにとって、その髪や、双眸や、胸が重要な意味を持ち始めたのは。
アリシアは二六歳で、ケントは二八歳だった。いずれも、魔術の才能のため、異例の栄達を遂げた点では共通だった。しかし、ケントの家柄は名門で、いくつかの縁談相手も示唆されていた。しかも、アリシア・グレイはせいぜい中堅の血統である。国家魔術師と騎士団の組み合わせは、悪くはないとはいえ、関係者たちに合意を取り付けるのは難儀であった。
そのため、強引に事を進めれば、ケントは立場を失ってしまうだろう。そのことは容易に想像がついた。
そして、もっとも重要なことに、アリシア自身の意向は未知数であった。完全な、五分五分の勝負である。
ケントが眠られぬ夜を過ごしてきたのは、それゆえである。
しかし、アペイロン石があれば——
ここまで考えが及び、ケントは思わず、辺りを見渡した。雲海の向こうには、いくつもの山影があり、足元には荒削りな岩が植物の緑を侵している。寂寥たる風景である。地平線の彼方も、ケント自身の心を読むことは出来なかったのである。
そして、ケントは終わらぬ自問自答を繰り返した。
往古の賢者は、「栄光を極めた全世界といえども、野に咲くたった一輪の花にも及ばない」という言葉を残した。しかし、現在のケントは、たった一輪の花を選び取ることが明らかに出来なかった。
それは、アペイロン石の力に魅入られているからであった。
石がありさえすれば、感情操作の魔法を使えるから、アリシアと結ばれるのは言うまでもない。ケントの脳裏には、アリシアの幻が浮かび上がった。しかも、その幻にさらに促されて、大きな野望が生まれてきた。
天下平定の野望である。そのためには、ギルバート王には消え去ってもらうしかない。また、光明教団の権威を屈服させるしかない。そして、自分自身が新たな王として戴冠し、全世界に君臨するのである。
ケントは、そのように考えると、全身に震えが走った。
天下に、王は一人しか存在し得ない。そうである以上、アペイロン石の主人は一人であった。共同所有はナンセンスであった。
また、ケントは騎士団の一人として、王の統治に一つの限界を見た。そして、力があれば、より平和な世を作りたいと考えたのである。
ギルバート王の統治は、一つの国を船に例えた上で、これを運命共同体として、総合的な繁栄を追求するものであった。客観的に見て、その計画は大幅に成功したと言えよう。港や資源、そして南方の気候など、地の利にも助けられたのは、明らかな幸運であった。
にもかかわらず、その唯一の欠点は、強権的な統治方式が王都の実情と合っていなかったことであろう。
たとえば、「国家社会の分裂をもたらす行為」は、死罪または無期、または十五年以上の徒刑が科される罪であった。しかし、そのような行為の規定は非常に抽象的だったので、そのような法典の文言が、宮廷の政争の道具とされたのは言うまでもない。
また、そのような条文を根拠として、王の監視は行われた。場末の市場にも、監視人の目が付いており、体制批判は許されなかった。
人口の増加に伴い、エルノール国の統治難易度は明らかに上昇していたのである。
また、その領土内には山岳民、遊牧民、森の民といった少数派が存在していた。しかし、ギルバート王はむしろ、言語、信仰、慣習法、生活様式の統一を望んだ。光明教団もそのような「一致」を推進した。そして、一部の勢力の陰謀を契機に、王は彼らを鎮圧した。
ケントは、そのような社会問題の存在を理解していた。そして、より平和な内政のあり方がないかと思っていた。ケントは何よりも、自由を求めていたからである。
しかし、そのような強権的な方式が、三年戦争の持久戦に適していたのは皮肉である。ここから先の趨勢は、アペイロン石の行方によって決まるのであった。
王を誅することは、言うまでもなく大罪である。国家秩序の停止である。にもかかわらず、ケントは石に魅入られ、しかもアリシアへの感情に促されて、野望を抱いているのであった。
思いは、千々に乱れて、やがてケントは茫然とした。
雲海は、彼方の巌を包み込み、その格闘を和らげている。
太陽は、もはや見えない。したがって、生死と同様に、それを正視することはできなかった。
ケントは、これからやるべきことを決め、山を降りた。




