第32話
次の瞬間、敵の軍団の中に異変が起こった。兵士たちの表情は、事態を察したのか、次第に恐慌状態へと変化し、明らかに剣を持つ手に震えが走っていた。そして、しきりに後ろの方向を見ていた。
やがて、一人の兵士が剣を取り落として、その場で呻き声を上げ、戦場から背を向けた。しかも、その数はますます増えていったのである。
すると、ケントとアリシアを取り巻いていた最前線は総崩れになり、敵前逃亡を行った。
むろん、生命の覚悟ができていたケントが、この状況の一変に戸惑ったのは言うまでもない。
「とはいえ、命拾いをした。何が起こっているのだろうか」
そう言って、追撃はせずに様子をうかがったのである。
すると、逃亡中の軍団の中からこのような叫び声が聞こえた。
「穴だ! 広がっている穴に落ちるな!」
しかし、ケントが何のことか分からなかったのは、一時のことであった。
次の瞬間、大地が裂け、轟音が響いた。そして、その中に軍団が押し合いながら、一斉に雪崩れ落ちたのである。あたかもそれは、投げられた石が暗い谷底へと吸い込まれる様子にも似ていた。もし、その裂け方がもっと酷ければ、ケントやアリシアごと呑み込まれてしまっていたに違いない。
ケントは、呆然としながら、目の前から二メートルも離れていない穴の淵を見つめていた。穴の底は闇であり、兵士たちの気配は少しもなかった。
「アリシア、ここは危険だ。退避しよう」
そう言って、ケントは手負いのアリシアと共に、穴から距離を取った。
すると、こちらの方にハサルの民たちが寄り集まってきた。
「ご無事で何よりです。生き残られたのですね」
「いや、僕たちが敵の軍団を討ったわけではない。あの穴を見れば分かるように、あそこに何から何まで、呑み込まれたのだ」
民たちは、全ての事態を察したようであった。
その翌日——ハサルの民は、略奪行為の巻き添えになって死んだ者たちの葬いを行なっていた。その中には、アインハルの従兄弟も含まれていたのである。
したがって、アインハルの心痛と言ったら、ことさらに述べるまでもなかった。
そして、アインハルはケントたちに言った。
「仲間にして下さい。これからも一緒に冒険したいんです」
「一応聞くが、なぜだ?」
「僕たちは、力がないためにこんな目に遭ってしまった。だから、力が欲しいのです」
「しかし、それは何に使うつもりなのか」
「今以上に強くなって、民たちを守れるようになりたいのです」
「それなら、ここに留まって剣の稽古をした方がよい。僕たちの目的は、あくまでもアペイロンの探索だ。いつ帰って来られるかは分からない」
「しかし、ハサルの民たちはこのままでは、再び戦乱に巻き込まれてしまいます。エルノール国からもイール国からも、まるで虫けらのように踏みにじられてしまうのです。だから、ケントさんたちと行動を共にして、何かのヒントをつかみたいのです」
「過酷な旅が予想され、途中で命を落とすかもしれない。だから、非戦闘員は足手まといだ」
「では、今から練習して強くなります。だから、どうかお願いです」
ここまで食い下がられると、ケントも門前払いにするのはためらいを覚えた。
「いいんじゃないかしら」とアリシアは言った。「アインハル君は素質がありそうだし。魔法を学んだことは?」
「簡単なものなら既にやっています。私たちの文献に、その種のものもありますから」
「独学で?」
「はい」
「魔力を出してみて」
そして、アインハルは身体全体に魔力を帯びた。
「誰からも教えられないにしては、なかなか練れているわね。では、剣を振ってみて」
アインハルは腰の剣を抜き、正面で一振りした。
「これなら、魔法剣で戦えそう。遺跡の中ではそうしなかったけれど、こんな力を秘めていたのね。どう思う、ケント?」
「確かに、悪くはない。ただ、最前線で戦うとなると……」
「そこは今後の伸びに期待するとして、少なくとも足手まといにはならないのでは?」
そのようにして、ケントはアリシアに説得されたのである。
◇
ケントが、あの闇の穴を見た時に感じていたことは、日時が経つほどに一層強くなった。世界の剥離——それが進んでいるからこそ、あのような穴が空いたのである。そもそも、遺跡の中でセレナと戦ったとき、その剥離の予感があったが、それはまさに当たっていた。
そうなると、アペイロンの収集を急がなければならないし、またそこに不確定要素が生じる可能性もあった。剥離の種類によっては、それを上手く逆用して、欠片の位置が分かることになるかもしれないが、そう上手く行くかどうか——ケントはさまざまなことを案じていた。そして、出立のための準備をアリシアと共に行っていた。
「教主領からイシュ・カラドの土地に来て、アペイロンの欠片を探すことには成功した。しかし、ハサルの民たちには大きな迷惑をかけてしまった。やはり、一筋縄ではいかないね」
「重要なことだけど」とアリシアは、荷物をまとめながら言った。「その欠片は、あといくつあるの?」
「さほど膨大な数ではない。ただ、これは僕の予感なんだが、この冒険はただの『数集め』に終わるものではないよ。どこかで思いもかけぬ急所に触れて、冒険の軌道は変化する可能性が大だ」
「急所?」
「そうだ。第一、アペイロンのような無限エネルギー、超常の石がただ『集めるだけ』で済むとは思えない。まあ、そうしたことも、冒険を進めていくうちに理解できるだろう」
「なるほど。ところで、荷物は大丈夫?」
「ああ。大方まとめた。いつでも出られるから、ご挨拶が済み次第ということになるだろう」
「ここまで長かったわね」
「うん。ところで、アインハルは?」
「別の天幕にいると思うけど」
「よし、様子を見てみよう」
そう言って、ケントとアリシアはアインハルがいつもいる天幕の中を覗いた。すると、そこではアインハルを父母など親族が囲んでいた。どうやら、冒険に出るとの決意をすでに披露したため、いろいろな懸念を投げかけられているらしい。むろん、アインハルの決意は堅かったが、さすがに「いつ帰って来られるか分からない」旅に対しては、とりわけ母親の心配が大きかったのである。
二人は天幕の中に入って、そうした親族に対してご挨拶をしようとした。
すると、その姿を見るや、アインハルの母はこちらに寄ってきて、長々と言葉を述べた。
「ケントさん。アリシアさん。この度は私たちの息子だけではなく、ハサルの民全体を救ってくださり、本当にありがとうございます。このご恩は、生涯忘れることはできません。仮にあなたがいなかったとしたら、私たちはあの邪悪な軍団に踏みにじられ、今ごろ奴隷として売り飛ばされていたに違いありません。しかしまあ、もっと私たちの下にゆっくりと居てくれればいいものを、出立なさるとはとても残念です。しかも、私たちのかわいい息子を連れていくとは! むろん、不肖の息子アインハルも、既に成人ですから、自分のことは自分で決めることでしょう。しかし、息子はちゃんと旅先でやっていけるでしょうか? そのことだけが、心配でならないのです」
「やっていけますよ」とアリシアが言った。「少なくとも、足手まといなどには決してならないかと。私はエルノール国の国家魔術師ですが、その目で見ても、息子さんの魔力の練度は悪くないですよ」
「悪くないのですか?」
「はい。こうしたことに、私はお世辞を言いたくはないので」
そう言っている時、アインハルは満更ではない表情をしていた。




