第30話
三時間後、ケントとアリシアはハサルの民の天幕で手当を受けていた。セレナの急襲の中で、アインハルもそこここに怪我をしていたが、まだしもこちらは軽傷にとどまった。
ケントは特に傷が深かった。それは、単にセレナの剣の一撃を受けたからだけではない。アペイロンの欠片そのものは持ち帰ったものの、それまでの間に複数回、存在剥離の呪いを発動し、時を超えて心臓に負荷を掛けたからである。教主に与えられたペンダントがあるからといって、何でも思い通りにできるわけではなかった。
アリシアは手当をされながら、民たちに「ケントに水を飲ませるように」と言った。それはただの水ではなく、教主領の温泉からビンに汲んでおいたものである。もしそれがなければ、ケントの傷はより致命的なものとなっていただろう。
傷と熱病でうなされている中で、ケントは一つの想念を抱いていた。いや、それはケント自身を超えた「執念」と言えるものだったかもしれない。
その念おもいこそは、全世界に広がる存在剥離の予感であった。仮に剥離がケントに留まるものではなく、全世界的なものであるならば、速やかにアペイロンの欠片を集め、これを完成させなければならない。一つ一つの欠片は虚無を治癒する効果があるとはいえ、それは完全なものではない。石の完成と世界の救済は同義なのである。一度目の契約には失敗したが、今度こそはこの永久機関と世界秩序の平仄を合わせて、世界制覇と権力闘争の邪さが何一つない、本当の意味で平和な世界を築かなければならない……
しかし、そのような想念は永く続かなかった。ケントは、自分自身の即物的な痛みに立ち戻った。そして、ベッドの上でうめきながら、弱々しく普通の水を求めるのであった。あるいは、それが王や英雄とは一際異なる、平和の使徒の証であるのかもしれなかった。
幾つもの昼があり、また夜があった。ケントはどうにかこうにか、ベッドの上から少しずつ、動けるようになった。とはいえ、回復の時に特有の高揚感からは遠く、動きすぎると熱が出るので、ベッドの上で過ごす時間がまだ長かった。
客観的に見て、ハサルの民は、ケントたち一行を相当手厚く介抱したと言えよう。アインハルの怪我はすぐに治ったので、その役目は彼が担うのが常であった。
「アインハル君。こんなことに巻き込んでしまって、本当に何と言ったらいいのか……」
「でも、目的は達したのでしょう?」
「何とか達した。しかしもう、隠していても仕方ないね」
「説明してくれるのですね」
「薄々察しているのだろう?」
「まあ」
そう言って、ケントは冒険の目的を説明した。アペイロンと、石が欠片となって四散したことまで、ことごとく説明したのである。
「ケントさんに、そんな過去があったのですね」
「その通り。しかし、こうしたことは決して誰にも言いふらしてはいけないよ」
「仮に言いふらしたとして、それを信じてくれる人は誰もいませんよ。特に、アペイロンのことなんて」
「それもそうだ」
「それで、ケントとアリシアさんは最終的には何をしたいのですか? 格別、悪いことをするつもりではないと分かりますが」
「アペイロンは、恐るべき石だ。それは分かるだろう?」
「はい」
「だからといって、すでに発見されて知られてしまったものを、なかったことにすることはできない。また、それを完全に破壊することができれば上出来だが、その方法は見当たらない。だとすると、やはり誰かがそれを持つしかない」
「それがケントさんなのですか?」
「少なくとも、イール国の王や、あのセレナなどに持たせるわけにはいかないだろう? そんなことになったら、世界は暗黒に満たされてしまう」
「おっしゃる通りです」
「そして、エルノールの王は僕をあくまでもアペイロン集めに利用している。一度はクーデターを画策した僕をだ。その底意は計り知れない。もちろん、ギルバート王がきちんとアペイロン石を処理してくれるなら、それはそれで問題はない。しかし、果たしてそうだろうか? 僕は、ギルバート王の統治方式を見ると、騎士団の一員として疑問を覚えるのだ」
ケントがそう言うと、アインハルは少し曇った顔をした。
「どうしたの?」
「いや。言いにくいことですが……」
アインハルが言うに、ハサルの民は必ずしも、エルノール国の王を快く思ってはいないという。なぜなら、民が住むイシュ・カラドの大地に対して、支配の手を伸ばしたからである。しかも、王はそれだけではなく、一律の生活様式や言語を強いることを画策した。その計画は結局、途中で放棄されたが、そのためにハサルの民は己れの伝統をあくまでも守り抜くことを決意したのである。
「だから、エルノールから来た人間を迎え入れるのは良くない、と言う反対論もあったのですよ」
そうアインハルが言うと、ケントは複雑な感懐を覚えた。
「本当に、いろいろと済まない。ご迷惑をおかけしたね」
「まあ、それでも目の前の人間と王は別だ、と言う意見が勝ったからですね」
「なるほど」
「話を戻すと、ギルバート王の統治方式は、やはり良くないのですか?」
「良くないとはまでは言えない。それどころか、かなり善戦しているくらいだ」
「そうなのですね」
「その理由は、国土が広く、気候や資源に恵まれているからだ。にもかかわらず、『全ての人々を幸せにする』という統治の理想は、道が遠かったのだ。人口が増えることは、国力の源になる反面、統治の難易度も上昇するからね」
「どうしても、現状が面白くない人がいて、その人が集まると画策を始めるのですね」
「そうだ。そのために、王は緻密な監視社会を構築し、『国家分裂を扇動する罪』をも設けた。しかし、それによって全ての人々が幸せになるのだろうか? まして、エルノール国以外の全ての人々も幸せにできるのだろうか? 僕は疑問に思う」
「だから、ケントさんが代わりに王になるのですね?」
「……分からない。現時点で、石を完成させた時、石の側で再びどんなことを要求してくるのか、それが未知数だからだ。それが何かによって状況が変わる。だから、一つ一つ、僕はやるべきことをやるしかない。そして、少なくとも邪悪な勢力には石を持たせないようにするのだ」
そう言って、ケントは天幕を見上げた。
「ところで、今晩は星がよく見えるかな」
「見えると思いますよ」
長話も終わり、二人は天幕の外で空を見渡した。冷涼な外気の中に、星々が満天であった。
「すごいね、こういうものは」
「ええ」
幾星霜を経て、この世界に届いた光であった。その光は痛いほど沈黙の中に輝いていた。ケントの思いは、天球の極を超えて、この第四紀の世界地図に広がろうとしていた。アペイロンとの契約に失敗し、再起のチャンスを与えられた今、この夜空のように遍く世界に行き渡る真理を体現しなければならない。ケントはそのように思った。




