第22話
教主領には、巡礼向けの宿泊施設が多かった。そのグレードは特上から並まで、いくらでも運営されている。宗教都市という性質上、さすがに商売気は差し控えられていたので、貧困の人間が訪れたとしても、廉価で清潔な宿を得られた。
二人については、教主の配慮で、高い格を持つ宿に泊まることができていた。もっとも、最高価格の部屋は持て余すほど広いだけなので、それぞれ快適な個室を取った上で、昼夜を過ごしていたのである。
その部屋は、バルコニーが共通であった。ここから分かるように、部屋同士がリビングを挟んで一対となっている。そのため、ケントとアリシアは今日やるべきことが終わり、それぞれ眠りに行くまで、心置きなく話をすることができたのである。
「眠れない?」
「眠くなるまで、もう少しという感じかな」とケントは言った。「思えば、幾日も経ったけれども、まるで夢のようだ」
そして、ケントはバルコニーの向こうを見渡した。
教主領の風景は暗い色に沈んでおり、目が慣れなければ、尖塔などのディテールが見えなかった。そして、並び立つ建築様式の上方は大空のドームで覆われており、そこには星々が輝かしい点を打っていた。あたかも、そこから向こうの世界が垣間見え、こちらとの道が築けるかのように思われた。そのシンボルが星座であり、天球の模様だったのである。
「変わらないね、こうしたものは」
「星のこと?」
「そうだ。過去から旅して来た光は、まだ地上のことなど知らない。もちろん、僕の呪いもだ」
「そんなに深刻がらないで、星に呪いを移してしまえばいいじゃない」
アリシアがこのように言うと、ケントは笑った。
「では、おまじないでも唱えるかな」
「痛いの飛んでいけ、って言えばどう?」
「そうだね。光の速さで飛んでいけばいい」
「だからといって、ケントの心臓まで飛んでいったらだめだよ」
「心臓に羽根でも生えていれば、そんな心配をしたらいいかもね」
このように取り留めもない会話をしながら、夜は過ぎていった。
それから、幾日が経過した。
ケントは旅に急ごうと思っていたが、アリシアは「こんな機会はもうないのだから」と言い、ゆっくりとするように引き留めた。
ある日、ケントは外を歩きながら、付いて来たアリシアへと言った。春の日差しの強い一日であった。
「アリシア、こんなことに巻き込んでしまって済まない。もしアペイロン石に関わらなければ、今ごろ国家魔術師として順当なキャリアを歩んでいただろうに」
「教主さんから一つの提案があるの。だから、そんなことは気にしなくて構わない」
「提案?」
「体を温めてみるのはどうかって」
アリシアはこう言って、ケントの手を取り、ゆっくりと握った。
このようにして、二人は「魔術の禁絶領域」に身を委ねたのである。
簡単に言えば、それは領土の一角にある温泉の一種であった。ただし、その温泉には一つの掟があり、そこでは一切の魔術の行使が禁じられている。大地と湯の霊力に身を委ねることで、心身の治療を行うだけではなく、互いに攻撃防御の意思がないと示すことで、特別な信頼関係を築くのである。なお、そのような温泉は大陸の何ヶ所かに散在していたが、「禁絶領域」に指定されているのはここだけである。
温泉までの道のりは、山道を歩く必要があった。さほど険しくはないとはいえ、高低差は少なくない。その坂道を進む中で、川のせせらぎの音も聞こえている。岩に砕けるほど白く泡立ちながら、下の方角へと淀みなく流れていく。それを傍らにしながら、二人は源流に向かって、一定の整備がなされた道のりを進んでいた。ケントが振り向くと、長方形の岩が苔生しながら、鋭く空間を切って聳えている。それはあたかも、立ち上がって旅路を指さしているかのように見えたのである。
おまけに、山中には野生の鹿の姿も見え隠れしていた。道を歩いてきたケントたちに気づいたのか、鹿たちは斜面際で首をもたげ、耳をぴんと立てたまま、落ち着きのない様子であった。ケントがよく見ると、その獣の尾は白い房のようであった。もちろん、鹿たちもケントとアリシアのことを見定めているのである。
しばらく行くと、湯気が見え、皮膚の上の空気感が変わってきた。匂いが来る、と二人は共に感じた。それは薬草の匂いにも似ていたが、その正体は形のない事柄ゆえに、うまく定めきれなかった。ケントは、もし冒険が終わって時間が空いたら、温泉学の調査にでも来ようかと思った。
「注意 聖伝により、入湯者は一切の攻撃防御の方法を厳重に禁ずる」
との看板があった。むろん、事前に教団の入湯許可は取っていたので、検査ゲートを通ることはすぐにできた。教主のペンダントについても、ケントは肌身離さないのが基本であるが、この際は外すことにした。
ケントとアリシアは、建物の中で一切の武器や魔道具を置いた。そして、それぞれ体の全体を覆う水着を着用した上で、広々とした湯の中に身体を沈めた。深い底であった。
ケントは湯の中に入った瞬間、自分がここまで生きて来たことを含めて、全てのことが無駄ではなかったと感じた。一般的な湯治と異なり、刀傷こそないが、見えない心の傷は黒々と寸断されていた。アペイロン石に接した時の野心、契約、そして投獄。神明裁判、国外追放。そして古代樹の森の冒険と、教主領での見聞。とりわけ、イール国の王の演説は、どす黒いほどに覇権主義的であった。そのような一切のものに触れたことによる、隠れた疲れは否が応でも蓄積していたのである。むろん、契約の副作用である「存在剥離症候群」は、不吉な感覚を慢性化させていた。
しかし、ケントは満ち満ちた湯に肉体を浸すことで、己れの心労を溶かし込み、そして存在の錆を流し去ったのである。
アリシアも、非常に気分が良さそうにしていた。その頬は上気し、目の表情には輝きがあった。
「すごいね。この湯は」
「ええ」
「前にも言ったように、瓶の中にも詰めておこう」
そう言って、二人は幸福な時間を過ごしていた。
むろん、アリシア自身にも湯に浸かるメリットが存在していた。国家魔術師として、単にアリシアはアペイロン石の鑑定を行っただけではない。元来、国家試験の得意科目が「攻撃術式」や「戦略魔術論」だったこともあり、アリシアのパラメーターは主に攻撃力に振られていた。他方、「結界術」や「治癒実技」といった防御面は、必ずしも得意とは言えなかった。それが、この湯に浸かることで、尖ったバランスが上手く調和するようになったのである。そのような変化は、ケントと共にする冒険では特に重要であった。
他方、ケントは休息の時を過ごしていた中で、真昼の空を見上げた。
身体全体を熱せられながら見る空は、格別に深く、至るところ継ぎ目のない青を示していた。視界の中の高みには、あるいは神話の獣たちがうごめいているのに、その姿は透明であるため、杳として見定められないのかもしれなかった。過去の光から降り注ぐ紺碧の空、大海のような時空の広がり……
ケントは胸に手を当てた。あるいは心臓に刻まれた存在剥離症候群も、案外大地の力で簡単に退治され、消えて無くなるかもしれない。そのような期待が芽生えるのを止めることはできなかった。
しかしながら、一晩経つと、あくまでも呪いは呪いのまま残っていることが分かり、アリシアが慰めたにもかかわらず、ケントは露骨にがっかりしたのである。




