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第9話 スーパーの男、あるいは主夫の背中

 木曜日の午後、美由紀は買い物に出た。


 パートのない日の夕方は、たいていこの時間に近所のフレッシュマート桜ヶ丘に寄る。

 勤め先と買い物先が同じというのは少し妙な感じがするが、家から一番近いスーパーがここだから仕方ない。

 勤務のない日でも、惣菜コーナーの前を通るとつい揚げ物の並びを確認してしまう。

 職業病だ。


 今日の夕飯は何にしようか。

 カゴを手に持ちながら、野菜コーナーを歩いた。

 大根が安かった。

 豚バラと合わせれば一品になる。

 ほうれん草も買っておこう。

 卵は昨日買ったばかりだからいらない。

 頭の中でメニューを組み立てながら、豆腐コーナーの角を曲がったとき——

 見覚えのある後ろ姿が、惣菜コーナーの前に立っていた。

 グレーのスーツ。

 少し丸まった肩。

 白髪が増えた頭。

 達也だ。


 平日の夕方四時に、なぜ達也がスーパーにいるのか。

 美由紀は思わず足を止めた。

 達也は気づいていない。

 惣菜コーナーのショーケースの前に立って、割引シールのついたパックを手に取ったり戻したりしている。

 半額シールのついたものを丁寧に選んでいる。

 真剣な顔。

 有給か、それとも早退か。

 いずれにしても、美由紀は何も聞いていない。

 声をかけようとして、できなかった。

 声をかけられなかった理由は、うまく言葉にできない。

 邪魔したくなかったのか、見ていたかったのか、それとも——見ていたら泣きそうだと気づいたからか。

 達也の背中が、思ったより小さかった。

 小さい、というのは体の大きさの話ではない。

 肩の落ち方の話だ。

 家にいるときの達也も決して威張っているわけではないが、スーツを着て外にいる達也のあの肩の落ち方は——家では見ない。

 重いものを、長い時間かけて肩に乗せてきた人の背中のよう。


 達也が割引シールのついた惣菜を一つ、カゴに入れた。

 ほうれん草のごまあえだった。

 美由紀は少し息を飲んだ。

 ほうれん草のごまあえは、美由紀の好きなものだ。

 達也はほとんど食べない。

 好き嫌いはないが、積極的に選ぶものではない。

 それを——半額コーナーでわざわざ選んでいる。

 気のせいかもしれない。たまたまかもしれない。

 でも美由紀は、その一つの惣菜パックを見て、鼻の奥がじわりとした。

 泣くな、と思った。

 スーパーで泣くな。

 ここは職場でもある。

 美由紀は野菜コーナーの棚に少し身を寄せて、達也が気づかないよう視線を外した。


 達也がスーパーに来るのは珍しいことではないかもしれない。

 美由紀が知らないだけで、たまには買い物をすることもあるかもしれない。

 でも今日の達也の背中は、美由紀の中で何かを動かした。

 二十年以上前のことを、思い出した。


 プロポーズのとき、達也はあの字で紙に「一緒に生きていこう」と書いて渡してきた。 

 自信満々な顔だった。

「絶対に幸せにする」とは言わなかったが、言わなくてもそういう顔だった。

 まだ若くて、背筋が伸びていて、世界をまだ信じている顔だった。

 あの顔と、今日の背中が——同じ人間。

 二十年で、人はこんなに変わる。

 変わったのは達也だけじゃない。

 美由紀も変わった。

 台所で黙って怒りをこらえる人間に、いつの間にかなっていた。

 嫌がらせ弁当を作ることでしか感情を伝えられない人間に。


 この人をここまですり減らせてしまったのは——私の冷たい態度も、あったかもしれない。

 達也はプロポーズのとき、緊張していなかった。

 それが少し腹立たしかったのを覚えている。

 美由紀は緊張していたのに、達也はまるで当然のことを言うように、あのミミズ字の紙を差し出してきた。

「一緒に生きていこう」。

「なんでこんな字で渡すの」と美由紀は言った。

「字は関係ないだろ」と達也は言った。

「関係あるよ」

「内容で判断してくれ」

 そのやりとりが、なんかこの人らしいな、と思ったのを覚えている。

 不格好で、言葉が足りなくて、でも真剣だった。


 あのころの達也は、もう少し真剣な顔をしていた。

 今の達也も真剣ではある。

 でも何かが違う。

 あのころは前を向いていたが、今の達也はどこか重さを堪えるような顔をしている。

 二十年で、積み重なるものがある。

 仕事のこと。

 家族のこと。

 役職のこと。

 胃薬のこと。

 美由紀はそれを全部、知らないふりをしてきた。

 聞かなかったし、達也も話さなかった。

 二人でそれをずっと、「普通の夫婦」の顔をして続けてきた。

 その考えが浮かんだとき、美由紀は少し驚いた。自分からそう思ったことに。

 達也だけのせいじゃなかった。

 二人でここまで来た。


 見ていて、おかしかった。

 おかしい、というのは笑えるという意味ではなく——胸が締まる、という意味だ。

 達也はこういうことをする人だったか。

 美由紀の記憶の中の達也は、スーパーに来ない。

 家事に関わらない。

 弁当箱を持っていくだけで、それを洗うのは美由紀。

 買い物リストを考えるのも美由紀で、何が切れているかを把握しているのも美由紀。

 達也は食べる係で、美由紀は作る係——いつの間にかそういう分担になっていた。

 それなのに、今日は来ている。

 割引シールを丁寧に見比べながら、一人で惣菜を選んでいる。

 家族のために買っているのか、自分のために買っているのか、美由紀にはわからない。

 でも——スーツを着たまま、夕方のスーパーの惣菜コーナーに立っているその背中は、なんとなく、「誰かのため」のような気がした。


 達也がレジの方に向かって歩き始めた。

 美由紀はしばらく、その背中が見えなくなるまで動けなかった。

 人が行き交うスーパーの中で、美由紀は一人、野菜コーナーの棚の前に立っていた。

 カゴの中には大根とほうれん草。来たときと変わらない。

 でも中身は、少し変わっていた。

 美由紀はひとつ深呼吸をして、惣菜コーナーに向かった。

 達也がさっきまで見ていたコーナー。

 ほうれん草のごまあえの隣に、筑前煮があった。

 達也の好きなものだ。

 新婚のころ、「これが好きだ」と言っていた。

 最近は作っていない。

 美由紀はそれを一つ、カゴに入れた。

 惣菜に頼るのは少し悔しい気がしたが、今日はそれでいいことにした。

 今日は、それだけでいい。


 レジを通って外に出ると、空が少しだけ赤かった。

 達也の姿はもうなかった。

 先に帰ったか、別の方向に行ったか。

 美由紀は袋を持ちながら帰り道を歩いた。

 甘い卵焼きのことを、また考えた。

 明日か、明後日か——そう遠くない日に、入れようと思った。

 まだ「今日じゃない」という感覚はあるが、「もうすぐ」という感覚も確かにある。

 あと少し。

 自分でもわかった。

 弁当箱を開けたとき達也がどんな顔をするか——甘い卵焼きを見て、一瞬だけ止まる顔——それを想像して、美由紀は少しだけ口の端が上がった。

 上がったことに気づいて、少し恥ずかしくなった。

 夕焼けの中を、早足で歩いた。


 商店街のアーケードに差し掛かったとき、肉屋のおじさんが「いらっしゃい」と声をかけてきた。

「今日はコロッケが美味いよ」

「じゃあ二個ください」

 揚げたてのコロッケを袋に入れてもらいながら、美由紀はふと思った。

 達也はコロッケが好きだ。

 新婚のころ、お弁当にコロッケを入れると「これがあると嬉しい」と言っていた。

 最近は入れていない。

 唐揚げかブロッコリーか、そういうラインナップになっていた。

「もう一個、ください」

 三個にした。

 理由は言葉にしなかった。

 でも自分でわかっていた。


 帰宅すると、台所が静かだった。

 大輔はまだ学校から帰っていない。

 結衣は部活。

 達也は——先に帰っているはずだが、気配がない。

「ただいま」と言ってみた。

 返事はなかった。

 寝室から、かすかに物音がした。着替えているのかもしれない。


 美由紀は台所に立って、買ってきたものを冷蔵庫に入れた。

 筑前煮を一度開けて、皿に移そうかと思ってやめた。

 パックのまま出してもいいかな、と思った。

 今日はそれでいいことにした。

 台所に立ちながら、美由紀はスーパーでの達也の背中を思い返した。

 肩の落ち方。

 半額シールを選ぶ真剣な顔。

 ほうれん草のごまあえ。

 あの人は——私の好きなものを覚えていたのか。

 それとも、たまたまだったのか。

 どちらでもいい気がした。

 どちらでも、あの人はスーパーに来て、惣菜を選んでいた。それだけで十分かもしれない。


 寝室から達也が出てきた。着替えて、部屋着になっている。

「おかえり」と美由紀は言った。

 達也が少し驚いた顔をした。

「ただいま」の順番が逆だったからだ。

「……ああ、ただいま」

「スーパー、行ったの?」

 一瞬、達也の動きが止まった。

「……なんで知ってるんだ」

「見かけた」

「見かけた」

「惣菜コーナーにいたから」

 達也は少し間を置いて、「半休」と言った。

「たまには買い物でもしようかと思って」

「そう」

「迷惑だったか」

「なんで迷惑なの」

「いや……なんか、美由紀の縄張りかと思って」

 美由紀は少し笑った。

 縄張り、という言葉が妙に正確だったので。

「別に縄張りじゃないよ。来てもいい」

「そうか」

 それだけだった。

 でもそれだけで、十分だった。


 ゴミ箱に袋を捨てようとしたとき、足元に紙が一枚落ちていた。

 プリントアウトした紙だ。半分に折られている。

 拾い上げた。

 表に、手書きの字で「大切な人へのお弁当」と書いてある。

 結衣の字だ。


 美由紀は紙を開いた。

 家庭科の課題用紙らしかった。

「大切な人へのお弁当」という課題の提出用フォームで、「誰のために作ったか」「どんな気持ちを込めたか」を書く欄がある。

 その欄に、結衣の字で書いてあった。

「お父さんとお母さんへ」。

 美由紀はそこで少し止まった。

 誰にも渡さないまま。

 あの子は知っていた。

 お父さんとお母さんがうまくいっていないことを、ずっと前から気づいていた。

 でも何も言わなかった。

 言う代わりに——一人でこっそりお弁当を作った。

 結衣は——どちらか一人じゃなくて、二人に向けて作ったのか。

 美由紀は文字を読み返した。一度、二度。

 二人まとめて。

 お父さんとお母さんへ。

 用紙の裏に、スマホで撮った写真がプリントアウトして貼ってあった。

 弁当箱の写真。

 ミニトマトが、びっしりと並んでいる。

 美由紀が作ったのと同じ——血の池地獄弁当。

 でも一つだけ違うところがあった。

 ミニトマトの隙間に、海苔で文字が入っていた。

 誰にも渡さなかった。

 一人で台所に立って、一人で弁当を作って、一人で写真を撮って。

 美由紀が海苔専用にしているはさみで。

 台所の引き出しの、決まった場所にある、あのはさみで。

 あの子が——あのはさみで切った。

 九文字。

 小さく、でも丁寧に切り揃えられた海苔の文字。

 美由紀は声にならない声で、その文字を読んだ。

「ふたりともがんばれ」。

「ふたりともがんばれ」。


 美由紀は、しばらくその写真を見た。

 結衣がひとりで作って、ひとりで写真を撮って、誰にも渡さなかった弁当。

「お母さんうるさーい」と毎日言う、中学二年生の女の子が。

 十四歳の女の子が。

 お父さんとお母さんがぎくしゃくしていることも、美由紀が嫌がらせ弁当を作っていたことも——全部、見ていた。

 見ていて、何も言わずに、自分なりの方法で、それに応えようとした。

 あの子は知っていたんだ、とまた思った。

「ふたりともがんばれ」。

 お父さんとお母さんへ。

 スーパーで泣きそうになった目が、今度こそ限界だった。

 美由紀は用紙をそっと畳み直した。

 引き出しを開けて、一番奥にしまった。

 達也からのプロポーズの紙の、隣に。


 夕飯の準備をしながら、美由紀は心の中で少し笑った。

 うちの子は、どこでこんなに賢くなったんだろう。

「お父さんとお母さんへ」。

 二人が気づいていないところで、ちゃんと見ていた。

 ちゃんと心配していた。

 そして自分の方法で、誰にも渡さずに伝えようとしていた。

 伝わったよ、と美由紀は思った。

 ちゃんと届いたよ、結衣。

 大根を切りながら、目の端が少し熱かった。

 でも今度は泣かなかった。


 鍋に出汁を入れて、火にかける。

 明日の弁当は——甘い卵焼きを入れよう。

 ようやく、そう思えた。

 もうすぐ、だ。今夜じゃない。でも明日は、入れる。

 美由紀は出汁が沸くのを待ちながら、達也の足音に耳を澄ませた。


 夕飯を食べるとき、達也が「筑前煮、あるじゃないか」と言った。

「スーパーで買ってきた」

「惣菜か」

「悪い?」

「悪くない。好きだから」

 それだけだった。

 でも達也は筑前煮を全部食べた。

 一つも残さなかった。

 食後、達也がソファで少しうとうとしていた。

 今日は半休だったのに、疲れた顔をしている。

 どこかに行ったのか、家で休んでいたのか、美由紀には聞かなかった。

 聞かなかったけど、今日スーパーで買い物をしていた、ということは知っている。

 それだけで、今夜は十分だった。


 洗い物をしながら、美由紀はコロッケのことを思った。

 三個買ったうちの一個は、達也が食べた。

「コロッケあるじゃないか」と嬉しそうに言って。

 美由紀は「たまたまあった」と言った。

「たまたま」という言葉を使いながら、内心で少し引っかかっていた。

 たまたまじゃない。

 達也が好きだから、もう一個追加した。

 それを言えるかどうかは、まだわからない。

 でもいつか言える日が来るかもしれない。

 甘い卵焼きを入れる日が来るように、言える日も来るかもしれない。

 弁当箱を洗いながら、美由紀は明日の朝を思った。

 甘い卵焼き。

 砂糖ひとさじ。

 明日、入れる。

 もう、決めた。

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