第8話 中2女子の、ナイショの宿題
家庭科の宿題は、十月の最終週に出た。
課題名は「大切な人へのお弁当」。
先生の説明によると、誰か大切な人を一人選んで、その人のためにお弁当を作る。
作ったら写真を撮って、「誰のために、どんな気持ちで作ったか」を用紙に記入して提出する——以上、それだけだ。
クラスの女子たちはさっそくにぎやかになった。
「彼氏に作る〜」
「お母さんにしよっかな」
「推しのイメージカラーでデコる」。
桐島結衣は、その輪から少し外れたところで話を聞いていた。
誰に、か。
結衣には、すぐに答えが出なかった。
家に帰ると、台所から夕飯の匂いがした。
「ただいまー」
「おかえり」
お母さんの声。いつも通り。
結衣はカバンを置いて、台所を覗いた。
お母さんが夕飯を作っている。
炒め物か何かだ。
フライパンの音がしている。
お父さんはまだ帰っていない。
大輔のお兄ちゃんは自分の部屋にいる気配がする。
結衣は台所の入り口に立って、お母さんの背中を見た。
エプロン。
少し疲れた背中。
でも手は止まらずに動いている。
こういう背中を、結衣は毎日見ている。
毎日見ているのに、あまりちゃんと見ていなかった気がした。
夜、部屋でスマホをいじりながら、結衣は課題のことを考えた。
「大切な人」。
お母さん、というのは一番わかりやすい。毎日ご飯を作ってくれるし、洗濯してくれるし、「お母さんうるさーい」とは言うけれど、大切じゃないかといったらそんなことはない。
お父さん、というのは——少し難しい。
難しい理由は、うまく言えないけれど。
お父さんとお母さんが、最近なんかぎくしゃくしているのは、結衣にもわかっていた。
ちゃんと話していない。
夕飯のときも、必要最低限のことしか言わない。
お父さんがお弁当の話を出したとき、お母さんの顔が少し固くなったのを、結衣は見ていた。
でも——最近、少し変わってきた気もする。
お父さんが「美味かった」と言うようになった。
お母さんが「いってらっしゃい」を言うようになった。
小さいことだけど、結衣には見えていた。
大切な人、か。
「ふたりとも最近なんかへんだよね」
結衣は独り言を言った。
誰にも聞こえない声で。
へん、というのは悪い意味じゃない。
ぎくしゃくしていたころと比べると、最近は少しだけ空気が違う。
お父さんが「美味かった」と言う。
お母さんが笑う回数が少し増えた。
大輔のお兄ちゃんは相変わらず自分の世界にいるけど、それはまあいつものことだ。
大人って、変わるのに時間がかかるんだな、と結衣は思った。
中2にはよくわからない時間の流れで、大人はゆっくり変わる。
でも変わってる。
ちゃんと変わってる。
結衣はスマホを置いて、天井を見た。
「お父さんとお母さんへ」——そう書いてもいいかな、と思った。
二人まとめて、というのはずるいかもしれない。
でも今の結衣には、どちらか一人を選べなかった。
土曜日の午前中、お父さんとお母さんが出かけた隙に、結衣は台所に立った。
お父さんは珍しく外出していて、お母さんはパートだ。大輔のお兄ちゃんは部屋で勉強している。
結衣は一人で、冷蔵庫を開けた。
ご飯を炊くのは面倒だから、昨夜の残りご飯をレンジで温めた。
弁当箱は——お父さんの古い方じゃない、自分の弁当箱を使った。
ピンクのやつ。
少し子供っぽいけど、仕方ない。
さて、何を入れるか。
結衣は冷蔵庫を眺めながら考えた。
ミニトマトがある。
そういえばお母さん、一時期ミニトマトだけの弁当を作っていた。
あれなんだったんだろう、とずっと思っていたけど、聞けていない。
でも——あの弁当を見たお父さんが「情熱の赤だと思った」と言っていたのを、結衣はこっそり聞いていた。
情熱の赤。
お父さん、ちょっとおもしろい。
結衣は口の端をちょっと上げて、ミニトマトを全部出した。
ミニトマトをご飯の上に並べながら、結衣は海苔を思い出した。
お母さんが、よく海苔をはさみで切っている。
お弁当用に。
専用のはさみがあって、それで切るのが決まりらしい。
引き出しを開けたら、あった。
小さいはさみ。
海苔のパックも出して、結衣はテーブルに広げた。
文字を入れようと思った。
何を書くか、少し考えた。
「がんばれ」。
——でもお父さんだけに言うみたいだ。
「ありがとう」。
——なんか恥ずかしい。
結衣はしばらく海苔とはさみを持ったまま、考えた。
「ふたりともがんばれ」。
それだ、と思った。
二人まとめて、でいい。
チョキ、チョキ、チョキ——。
九文字、思ったより難しかった。
「が」の濁点が小さくて、二回作り直した。
「れ」のカーブがうまく切れなくて、三回切った。
二十分かかって、ようやく完成した。
ミニトマトの隙間に、「ふたりともがんばれ」。
弁当箱の蓋を閉めて、結衣は少し満足した。
スマホで写真を撮った。
蓋を開けた状態で、真上から。
光の当たり具合が悪くて、三枚撮り直した。
四枚目がよかった。
ミニトマトの赤と、海苔の黒と、ご飯の白が、ちゃんと写っている。
文字も読める。
「ふたりともがんばれ」。
結衣はその写真をしばらく見た。
渡す、という選択肢が頭をよぎった。
お母さんに渡す。
「はい、お弁当作ったよ」って。
でも——なんか、違う気がした。
渡したら、お母さんが泣くかもしれない。
泣かれると困る。
結衣も泣きそうになる。
それはちょっと、面倒くさい。
お父さんに渡す、はもっと難しい。
お父さんに直接何かを渡すのは、小学校の低学年以来やっていない気がする。
結衣は写真を保存して、スマホを置いた。
課題の用紙に書いた。
「誰のために:お父さんとお母さんへ」
「どんな気持ちで:ふたりともがんばってほしいから」。
渡さなくていい。
作った。写真を撮った。
それだけで十分。
気持ちは、入れた。
課題の用紙と写真プリントをクリアファイルに入れて、鞄にしまった。
使い終わった弁当箱を洗って、乾かした。
台所をきれいに片付けた。
海苔の切りくずを全部ゴミ箱に捨てた。
作った弁当は——結衣が自分で食べた。
ミニトマト十二個と、ご飯。
「ふたりともがんばれ」の文字を崩しながら食べた。
美味しいかどうかで言うと、普通だった。
ミニトマトはミニトマトだし、ご飯はご飯だ。
でも——なんか、良かった。
作った、という感じが良かった。
結衣は食べ終えて、お茶を一口飲んだ。
台所が、静かだった。
お母さんがいつもここに立っているんだな、と思った。
毎朝、一人で、この台所に。
「お母さんうるさーい」って言ってるけど、うるさくて当然だな、とちょっと思った。
でもそれは、言わない。
結衣は弁当箱を流しに置いて、自分の部屋に戻った。
廊下を歩きながら、少しだけ、鼻の奥がつんとした。
泣かなかった。
中2女子が一人で弁当を作って泣くのは、さすがに恥ずかしい。
結衣はその写真を、しばらくスマホの画面で眺めた。
我ながら、なかなかうまく作れた。
海苔文字も、「が」の濁点以外はちゃんと読める。
ミニトマトの並びが少し雑だけど、それはまあいい。
お母さんのミニトマト弁当も、びっしり詰まっていたけど雑だったし。
あのミニトマト弁当——いったい何の意味だったんだろう、とまたちょっと考えた。
お父さんは「情熱の赤だと思った」と言っていた。
お母さんは何も言わなかった。
でもその後から少しずつ、二人の空気が変わり始めた気がする。
赤いミニトマトが、何かのきっかけになったのかもしれない。
弁当って、不思議だな、と結衣は思った。
食べたら終わりのものなのに、何かが残る。




