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第7話 洗濯物から落ちた、見慣れない紙

 水曜日の午前中、美由紀は洗濯をした。


 洗濯は週に三回。

 月、水、金が基本。

 タオルと下着を先に回して、シャツ類をあとから回す。

 これは美由紀が結婚当初に決めたルールで、十七年間ほぼ守り続けている。

 達也はこのルールを知らない。

 知らないまま、十七年間きれいなシャツを着てきた。


 今日は達也のスーツのポケットを確認してから洗濯機に入れようとした。

 スーツのポケットには、ときどきレシートや名刺が入っている。

 そのまま洗うと紙がぐちゃぐちゃになる。

 達也は自分でポケットを確認しない。

 だから美由紀が毎回確認する。

 これも誰に頼まれたわけでもなく、気づいたらそうなっていた習慣。


 右のポケットに手を入れた。

 レシートが一枚。コンビニのもの。

 左のポケットに手を入れた。

 何かが、ぱらぱらと床に落ちた。

 美由紀はしゃがんで、それを拾った。

 小さなプラスチックのシート。

 胃薬だった。


 胃薬の空き殻が、三枚。

 一枚のシートに十二錠入っていて、三枚全部空だった。

 三十六錠。

 美由紀はそれを手のひらに乗せて、しばらく見た。

 達也が胃薬を飲んでいることは知っていた。

 以前から、調子が悪いときに飲んでいるのは見ていた。

 でも三枚分の空き殻がポケットにまとめて入っているのは、初めて見た。

 三枚ということは、少なくとも三十六回分飲んでいる。

 それをポケットに入れたまま持ち歩いていたということは——捨てる余裕もなかったということか。

 美由紀は立ち上がって、スーツの上着を洗濯機の脇に置いた。

 もう一度ポケットを確認した。

 内ポケットに、折り畳まれた紙が入っていた。

 取り出した。

 A4の紙を三つ折りにしたものだ。

 会社の書類らしい。社内資料、と書いてある。

 見るつもりはなかった。

 でも折り目の隙間から、いくつかの文字が見えた。

「役職定年」「配置転換」「対象者リスト」。

 美由紀は、その紙をそっとテーブルの上に置いた。


 洗濯機を回しながら、美由紀は台所に立った。

 お湯を沸かして、インスタントコーヒーを入れる。

 パートのない日の午前中は、たいていこうしてコーヒーを飲みながら家事をする。

 いつも通りの水曜日の朝。

 でも今日は、コーヒーの味がよくわからなかった。

 テーブルの上の紙が、視界の端に入る。

 役職定年。

 美由紀は、その言葉の意味をちゃんと知っている。

 一定の年齢になると役職を外れて、給与も下がる制度。

 達也は今年四十六歳。

 会社によって年齢は違うが、五十歳前後で該当する会社が多いと聞く。

 まだ早いかも。

 でも「対象者リスト」という言葉が引っかかる。

 達也の名前が、そのリストに入っているのか——美由紀には確認できない。

 紙を広げて読む気にはなれなかった。

 でも、ポケットに入っていたことは確か。

 家に持ち帰るほど気になっていた、ということも。


 達也が今の会社に入ったのは、二十三歳のとき。

 美由紀と出会ったのはその二年後で、結婚したのが二十八歳。

 つまり達也は、美由紀が知っている間ずっと、同じ会社にいる。

 二十三年間。

 会社員として二十三年間、同じ場所に通い続けるというのは——美由紀にはそれがどんなことなのか、正直よくわからない。

 美由紀はパートを変えたことが三回ある。

 合わなければ辞めて、別のところに行けばいい。

 でも達也はそういう選択をしてこなかった。

 したくなかったのか、できなかったのか、それとも家族のためにしなかったのか。

 美由紀は聞いたことがなかった。

 コーヒーが冷めていた。

 一口飲んで、ぬるいな、と思った。

 達也は家でそのことを一言も話していない。

 美由紀も、聞いていない。

 夕飯のとき、弁当の話をするようになった最近でさえ、仕事の話は出てこない。

 達也が話さないのか、美由紀が聞かないのか——たぶん両方かも。


 洗濯物を干しながら、美由紀はここ最近の達也のことを思い返した。

 帰りが遅い日が続いている。

 夜の九時を過ぎることが増えた。

 食欲も、以前より少し落ちている気がする。

 夕飯を残すことはないが、昔ほど勢いがない。

 日曜日の昼、ソファで寝落ちしていた。

 昼食のあと、テレビをつけたまま眠っていた。

 達也が昼間に居間で寝るのは珍しい。

 声をかけようとして、やめた。

 寝かせておいた方がいいと思った。


 胃薬を三枚分、ポケットに入れて通勤していた。

 役職定年の書類を、家に持ち帰っていた。

 家では何も言わない夫が、外ではボロボロになっているのかもしれない。

 美由紀はハンガーを持ったまま、少し手が止まった。

 ボロボロ。

 その言葉が、思ったより重かった。

 嫌いじゃない人が、外でボロボロになっている。

 家に帰ってきても、妻には嫌がらせ弁当を渡される。

 子どもたちには「課題の分離ができてない」と言われる。


 ……達也、しんどいな。

 それは同情ではなく、ただの事実として、美由紀の胸の中に静かに落ちた。

 かおりが言っていた。

「帰る場所を大切にしている証拠だよ」と。

 達也は毎日弁当を持っていく。

 嫌がらせ弁当でも、ミニトマトだけでも、黙って持っていく。

 付箋を貼って返してくる。

「抜群でした」「今日は赤かった」——あれは達也なりの、何かだったのかもしれない。

 ただの鈍感ではなかったのかもしれない。

 そう思うと、✕を入れた弁当をニコニコと「抜群だ」と読んで食べていた達也が、急に違う輪郭で見えてきた。

 あの人は——ボロボロになりながら、それでも笑って付箋を貼っていたのかもしれない。

「達也、しんどかったんだな」

 独り言が出た。

 洗濯物が風に揺れた。

 達也のワイシャツが、空の前で白く翻った。


 午後、美由紀はテーブルの上の紙を元通りに折り畳んで、達也のスーツの内ポケットに戻した。

 見た、とは言えなかった。

 見たけど読まなかった、とも言えなかった。

 この紙のことは、達也が自分で話す気になったときに話せばいい。

 美由紀が先に知っている顔をして聞き出すのは、なんか違う気がする。

 ただ、胃薬の空き殻は三枚とも、ゴミ袋に入れた。

 新しい胃薬のシートを一枚、引き出しから出して、スーツの右ポケットに入れておいた。

 それだけだった。

 それだけしか、今の美由紀にはできなかった。


 引き出しを閉めながら、美由紀は少しの間立ったままでいた。

 胃薬を補充することが「何かをした」のかどうか、自分でもよくわからない。

 達也は気づくかもしれないし、気づかないかもしれない。

 気づいても何も言わないかもしれない。

 でも美由紀はした。

 見ていないふりをして、でもひとつだけした。

 それが今の自分にできることの、ぎりぎりの境界線だった。

 嫌がらせを続けているのか、やめているのか——自分でもよくわからなくなってきた。

 でもどちらでもいいかもしれない、とも思い始めた。

 嫌がらせかどうかより、弁当を作り続けることの方が、今の美由紀には大事な気がしていた。


 夜、美由紀は翌日の弁当の仕込みをした。

 鶏の塩麹漬けは昨日から仕込んである。

 明日はそれを焼いて入れる予定だ。

 冷蔵庫を開けて、卵を取り出した。

 だし巻き卵を作ろうと思った。

 卵を溶いて、出汁を入れる。

 いつもの配合。

 フライパンを温めて、油をひく。

 卵液を流し込む。端からくるくると巻いていく。

 巻きながら、美由紀は少し考えた。

 甘い卵焼きにしようか。

 達也は甘い卵焼きが好きだ。

 新婚のころ、「お前の卵焼き、甘いのが好きだ」と言っていた。

 美由紀はあのころ、弁当に必ず甘い卵焼きを入れていた。

 いつから入れなくなったかは、覚えていない。

 気づいたら「だし巻き卵(甘くない)」になっていた。

 砂糖入れを見ながら、美由紀はあのころのことを思い出した。

 新婚のころ、達也は弁当箱を開けるたびに「卵焼き入ってる」と嬉しそうな顔をした。

 今思えば単純だな、と思うが、あのころはその顔を見るのが美由紀も嫌いじゃなかった。

 甘い卵焼きを入れると達也が喜ぶ、というそれだけのことが、朝の台所を少し明るくしていた。


 いつから入れなくなったんだろう。

 子どもたちの好みに合わせて「だし巻き卵」にしたのが最初だったか。

 それとも達也が何も言わなくなったからか。

 原因はもう思い出せない。

 気づいたら変わっていた。

 十七年間で、気づかないまま変わったことが、いくつある。

 砂糖を足せばいいだけだ。

 スプーン一杯。

 それだけで、あのころの卵焼きになる。

 美由紀は砂糖入れに手を伸ばした。

 伸ばして——止まった。

 まだだ、と思った。

 まだ、これじゃない。

 理由はうまく言葉にできなかった。

 怒っているわけでもない。

 意地を張っているわけでもない。

 ただ——甘い卵焼きを入れる気持ちに、まだ、なれなかった。


 美由紀は砂糖入れから手を離した。

 だし巻き卵は、今日もだし巻き卵のまま完成した。

 きれいに巻けた。

 焼き色もちょうどよかった。

 美由紀はそれを小皿に乗せて、少し見た。

 おいしそうだ、と思った。

 甘くないけど、おいしそうだ。


 達也が帰ってきたのは、夜の十時近かった。

「ただいま」

「おかえり。遅かったね」

「ちょっと残業が」

「ご飯は?」

「食べてくる、と思ってたけど——結局食べてない」

「温めるよ」

「……助かる」


 達也はスーツのまま椅子に座った。

 ネクタイを緩めて、目を細めた。

 疲れている、というより、少し遠い目をしていた。

 何かを考えている目。

 美由紀はレンジの前に立ちながら、今日の午前中のことを思った。

 胃薬の空き殻。折り畳まれた紙。

「役職定年」「対象者リスト」。

 何か聞こうか。

「最近、仕事しんどい?」くらいなら聞けるかもしれない。

 でも聞いて、達也がうまく答えられなかったら——その沈黙がこわかった。


 レンジが鳴った。

 美由紀は皿を取り出して、テーブルに置いた。

「食べて」

「ありがとう」

 達也が箸を取る。

 一口食べる。

「……美味い」

 ぼそりと言った。

 テレビを見ながら、独り言みたいに。

 美由紀は台所に戻りながら、その「美味い」を聞いた。

 何が美味いのかも言わない。

 こっちを見て言うわけでもない。でも言った。

 それだけで、今夜の美由紀には十分だった。

 十分だ、と思っていることに、少し驚いた。


 達也はしばらく黙って食べていた。

 美由紀は流しで洗い物をしながら、背中でその気配を感じていた。

 箸の音。咀嚼の音。お茶を飲む音。

 どれも小さいが、確かに聞こえる。

 この人が家にいる、という音。

 うるさいわけじゃない。

 邪魔なわけじゃない。

 でもいつの間にか、「いる音」を聞き流す習慣がついていた。

 今日は、少しだけ聞いた。

「明日、早い?」

 美由紀は聞いた。

「普通」と達也は言った。

「八時半に一本会議があるだけだ」

「そう」

「なんで」

「弁当、明日も持つ?って思って」

「……ああ。持つ」

 達也は少し間を置いてから「ありがとう」と言った。

 夕飯に対してか、弁当に対してか、よくわからなかったが——どちらでも同じだ、と美由紀は思った。


 弁当箱を洗いながら、美由紀は明日の弁当のことを考えた。

 鶏の塩麹漬け。

 だし巻き卵。

 ブロッコリー。

 プチトマトを少し。

 ふつうの弁当。

 嫌がらせではない。

 でも——甘い卵焼きでもない。

 まだ、そこまでは行けない。

 それでいい、と美由紀は思った。

 一歩ずつ。

 十七年かかって今ここにいるんだから、一晩で全部戻ることもない。

 弁当箱を伏せて、水気を切った。

 明日も、この弁当箱を使う。

 縁の傷も、蓋の白っぽさも、全部そのままで。


 弁当箱を洗い終えてから、美由紀はコーヒーを一杯淹れた。

 夜遅くに飲むと眠れなくなる、と達也がいつか言っていたのを思い出して、達也の分は作らなかった。

 一人で台所の椅子に座って、少しだけ飲んだ。

 今日一日のことを、もう一度静かに思い返した。

 胃薬の空き殻。

 折り畳まれた紙。

 補充した一枚。

 甘くない卵焼き。

「美味い」という小さな声。

 全部、小さいこと。

 小さいことばかりだけど——今日の美由紀には、それで精一杯だった。


 窓の外は静かだった。

 遠くで犬が一度だけ吠えて、また静かになった。

 コーヒーが冷める前に飲み切って、美由紀はカップを流しに置いた。

 明日も、台所に立つ。

 弁当箱に何かを詰める。

 甘くない卵焼きを、もう少しだけ続ける。

 それだけのことが、今夜は少しだけ、重く感じた。

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