第6話 離婚を、想像した夜
火曜日のパートの帰り道、かおりと並んで商店街を歩いていた。
秋の夕方は、暗くなるのが早い。
五時を過ぎると空の端が橙色になって、商店街のアーケードのライトがぽつぽつと灯り始める。
肉屋のおじさんが店頭でコロッケを揚げている。
魚屋の前を通ると酢の匂いがした。
美由紀は毎週この道を帰るが、この時間の商店街が一番好きだ。
一日の終わりの、少しほっとした空気が漂っている。
「ねえ美由紀さん、うちの旦那の話、聞く?」
かおりが唐突に言った。
「聞く」
「役職定年になってさ、もう二年経つんだけど——逆に元気になったのよ、あの人」
「逆に?」
「そう。役職ついてたころって、帰りが遅いし口数少ないし、休日も疲れた顔してるし。それが——肩書きなくなったら、なんか軽くなったみたいで。今は料理とかするし、週末は散歩行くし」
「へえ」
「最初はイライラしたよ。急に家にいられても、ってさ。でも慣れたら——なんか、初めてちゃんと話せるようになった気がして。仕事してたころよりずっと」
かおりは少し照れたような顔で笑った。
左耳の輪っかのピアスが揺れた。
今日は四つだ。
先週より一つ増えた。
「いいじゃないですか」と美由紀は言った。
「うん。だから美由紀さんのとこも、あと十年くらいしたら変わるかもよ」
「十年」
「長いけどね」
「長いですよ」
二人で笑った。
笑いながら美由紀は、「あと十年」という言葉を頭の中で転がした。
パートの帰り道でかおりに会ったのは、偶然ではなく同じシフトだからだ。
週に三日は一緒に上がる。
かおりは今日、別れ際にもう一つ言っていた。
「美由紀さんのとこ、旦那さん、外ではちゃんとやってるよ絶対」
「なんでそう思うの」
「弁当毎日持ってくる人は、ちゃんとしてる。帰る場所を大切にしてる証拠だと思う。持っていかない人は——家に帰りたくない人か、誰も作ってくれる人がいない人かのどっちかだもん」
美由紀はその言葉を、道を歩きながら何度か反芻した。
帰る場所を大切にしている。
達也が毎日弁当を持っていくのは——美由紀が作るから、というだけじゃなくて、それを持って帰る場所があるから、なのかもしれない。
そう考えると——嫌がらせ弁当を毎日持っていく達也は、なんだか少し、かわいいような気もしてきた。
気がしてきた、と思ったことが悔しくて、美由紀は少し早足になった。
かおりと別れて、一人で歩いた。
スーパーに寄って、今夜の夕飯の足りない分を買う。
もやし、豆腐、卵。
レジを通って、袋に詰めて、外に出る。
外はもう暗かった。
駅からの帰り道、美由紀はふと足を止めた。
公園の前だった。
小さな公園で、ブランコが二台と滑り台がひとつあるだけの、どこにでもある公園。
大輔と結衣が小さいころ、よく連れてきた。
大輔はブランコが好きで、結衣は滑り台から飛び降りるのが好きだった。
今はもう誰も来ない。
美由紀はベンチに座った。
荷物を足元に置いて、しばらく暗い公園を見た。
あと十年。
かおりは「変わるかも」と言った。
でも十年は長い。
十年後、大輔は二十七歳で、結衣は二十四歳。
たぶん二人とも家を出ている。
達也は五十六歳。
美由紀も五十六歳。
二人きりの家。
美由紀は、そこから先を想像した。
意識して想像したのではなく——するりと、想像が来た。
一人暮らし。
その二文字が、頭の中に浮かんだ。
達也のいない部屋。
朝、起きる。
台所に立つ。
自分一人分の朝ごはんを作る。
誰かのシャツのボタンを確認しなくていい。
誰かの分の麦茶を作らなくていい。
弁当箱を洗わなくていい。
「また唐揚げか」と言う声を聞かなくていい。
静か。
広い。
自分だけの台所。
自分だけのペース。
美由紀はその想像の中で、少し——息がしやすかった。
それに気づいた瞬間、胸の奥がざわっとした。
息がしやすい、と思った。
達也のいない朝を想像して、息がしやすいと感じた。
これは——どういうことだろう。
美由紀はベンチの上で少し背筋を伸ばした。
冷静に考えよう。
離婚を——考えたことは、ある。
正確には「考えた」というより「頭をよぎったことがある」程度。
「また唐揚げか」と言われた朝も、少しだけよぎった。
でも今日のこれは、その程度ではなかった。
想像がくっきりしすぎていた。
一人暮らしの台所の、光の入り方まで見えた気がした。
十七年、一緒にいた。
嫌いになったわけじゃない。
嫌いになったわけじゃないが——好きかどうかと聞かれると、今すぐは答えられない。
好きという感情の賞味期限は、十七年で切れることもある。
それはおかしいことじゃないかもしれない。
「嫌がらせ弁当、続けてる間は、あなたまだ旦那さんのことを諦めてないってことよ」
かおりがそう言ったのは、先週。
諦めてない、か。
じゃあ今は?
美由紀は答えを出そうとして、出せなかった。
公園のブランコが、風もないのに少しだけ揺れた。
結婚を決めたのは、二十八歳のときだった。
達也に「一緒に生きていこう」と紙に書いて渡されたとき、美由紀は正直なところ、「この人でいいのかな」とまだ少し思っていた。
好きだったし、一緒にいると安心だったし、悪い人じゃないのはわかっていた。
でも「この人じゃないといけない」という確信は、あったかどうか怪しい。
それでも結婚したのは——別の誰かを探す気力より、この人との生活を始める方が、なんとなくしっくりきたから。
なんとなく、という理由は、今思うと少し心もとないが、当時の美由紀には十分な理由だった。
十七年経って、「なんとなく」は何になったのだろう。
習慣になったのか。
情になったのか。
それとも別の何かになったのか。
美由紀にはまだ、答えが出ていなかった。
帰宅すると、家の中が暗かった。
大輔はまだ塾から帰っていない。
結衣は部活の振り替えで遅いと言っていた。
達也は——いつも通り、帰りが読めない。
一人の家。
玄関の鍵を閉めながら、美由紀はさっきの想像を思い出した。
一人の台所。一人の朝。
今夜は、練習みたいなものだな、とぼんやり思った。
台所に立って、電気をつけた。
冷蔵庫を開ける。
もやしと豆腐と卵。
鶏肉が少し残っている。
炒め物にしよう。
手を動かしながら、頭はまだぐるぐるしていた。
離婚した自分。
一人で生きる自分。
大輔と結衣は、どちらについていくだろう。
もう二人とも大きいから、自分で決めるだろう。
そうしたら、本当に一人になる。
一人になった自分が——怖いのか、楽しみなのか、美由紀にはわからなかった。
それが一番怖かった。
「楽しみかもしれない」と思っている自分が。
炒め物ができるまでの間、美由紀は台所の椅子に座った。
こうして一人で台所にいると、確かに静かだ。
テレビの音もない。
達也の足音もない。
結衣の「お母さんうるさーい」もない。
大輔がぼんやり窓の外を見ている気配もない。
静か。
広い。
でも——なんだろう。
さっきの公園で想像した「一人の台所」と、今目の前にある「一人の台所」は、同じはずなのに少し違う感じがした。
想像の中の台所は明るくて解放的で、自分だけの空間だった。
でも今夜の台所は、ただ静かなだけ。
広いというより——がらんとしている。
これは、待っているからかもしれない。
大輔が帰ってくるのを。
結衣が帰ってくるのを。
達也が帰ってくるのを——待っているから、この静かさはただの「まだ誰もいない」であって、「誰もいない」とは違う。
美由紀は立ち上がって、フライパンの火を弱めた。
炒め物を作り終えて、美由紀は麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。
麦茶パックが——空だった。
空。
ゼロ。
一口も残っていない。
美由紀はしばらく、その空のパックを見た。
達也はいつも、一口残して戻す。
それが習慣。
十七年間、変わったことがない。
「次に開けたときにゼロだとがっかりするから」という、誰も頼んでいない理由で。
それが今日は、ゼロ。
つまり——達也が、ちゃんと空にして戻した。
美由紀は冷蔵庫の扉を持ったまま、動けなかった。
なぜ今日に限って。
こんな夜に限って。
ただそれだけのことだ。
麦茶パックを空にして捨てた。
新しいのを入れなかっただけかもしれない。
特別な意図はないかもしれない。
でも。
十七年間守り続けた「一口残す」習慣を、今日だけ破った人が——同じ家にいる。
美由紀は冷蔵庫を閉めた。
空のパックを流しの下のゴミ袋に入れて、麦茶の新しいパックを出して、ポットのお湯を注いだ。
手が、少し震えていた。
震えている理由が、自分でもよくわからなかった。
夜の九時過ぎ、達也が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
いつも通りの二言。
達也は鞄を置いて、ネクタイを緩めながら台所に顔を出した。
「飯ある?」
「ある。温めてく」
「助かる」
助かる、と言った。
美由紀はレンジのスイッチを押しながら、その一言を聞いた。
いつもは言わない。
「ある?」「ある」の二言で終わることが多い。
今日は「助かる」があった。
たった三文字。
でも美由紀は、その三文字の重さを少しだけ確かめた。
麦茶パックと、「助かる」。
どちらも意図してやったことじゃないかもしれない。
でも今日に限ってそれが重なった。
「麦茶、空だったよ」
美由紀は言った。
責めているわけじゃなく、ただ確認するように。
達也は少し間を置いた。
「ああ、捨てた。最後まで飲みきったから」
「なんで今日は」
「……なんとなく。いつも残すのも変かと思って」
「十七年ぶりじゃない」
「そうだったか」
達也はそれだけ言って、ソファに座った。
テレビはつけなかった。
美由紀はレンジの前に立ちながら、達也の横顔を見た。
疲れた顔。
いつも疲れている。
でも今日は——何かが少し違う気がした。
うまく言葉にできないが、いつもより少し、ここにいる感じがした。
レンジが鳴った。
美由紀は炒め物を取り出して、テーブルに置いた。
美由紀はしばらく、達也が食べているのを見た。
背中が丸い。
昔より少し丸くなった。
新婚のころは、もう少し背筋が伸びていた気がする。
仕事の疲れが、そのまま背中に乗っている。
達也が弁当のことを「美味かった」と言い始めたのは、つい最近。
何年も言わなかったのに、急に言うようになった。
付箋で「抜群でした」と返してきたのも、「今日は赤かった」と書いてきたのも——何かが変わり始めている気配は、確かにある。
でも変わり始めているのと、変わったのは違う。
美由紀はそれをわかっていた。
変わり始めた人を待ち続けるのは、それはそれで疲れることもある。
「炒め物、味どう?」
美由紀は聞いた。
達也は一口食べて、「美味い」と言った。
「薄くない?」
「ちょうどいい」
「ほんとに?」
「ほんとに美味い」
達也が顔を上げて、美由紀を見た。
二秒くらい、目が合った。
美由紀は「そう」と言って、台所に戻った。
二秒。
たった二秒の目が合った時間が、今夜の美由紀には少し長かった。
「食べて」
「ありがとう」
今度は「ありがとう」が来た。
美由紀は台所に戻りながら、さっきの公園での想像を思い出した。
一人の台所。息がしやすい朝。
その想像が、今夜は少しだけ遠くなっていた。
遠くなったことが——安心なのか、悔しいのかは、まだわからなかった。
その夜、美由紀は布団の中でしばらく眠れなかった。
達也の寝息が聞こえる。
こういう人と十七年同じ布団で眠ってきた。
こういう人の弁当を、十七年作ってきた。
嫌いじゃない。
でも好きかどうか、今すぐには言えない。
ただ——麦茶パックが空だったことに、こんなに動いてしまう自分がいる。
「助かる」と「ありがとう」に、こんなに引っかかってしまう自分がいる。
引っかかるということは、まだ何かを期待している、ということかもしれない。
期待している、ということは——
美由紀はそこで考えるのをやめた。
明日の弁当を、どうしようか。
それだけを考えることにした。
嫌がらせを続けるのか。普通に戻すのか。
それとも——
「諦めてない」という言葉と「息がしやすい」という感覚が、今夜の美由紀の中に両方ある。
矛盾しているかもしれない。
でも人間はそういうものだと、美由紀はなんとなく思う。
全部が整合している人間なんて、どこにもいない。
矛盾したまま、それでも明日の朝が来る。
答えは出なかった。
でも弁当を作ること自体は、やめようとは思わなかった。
それだけは、確かだった。




