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第5話 高3の沈黙と、中2の正論

 桐島家の週末の朝は、平日より一時間遅い。

 達也が起きるのは七時半。

 美由紀は七時。

 子供たちは——大輔は気づいたら起きていて、結衣は十時まで起きてこない。

 これが桐島家の週末の標準的な朝だ。


 今日は土曜日だった。

 達也は洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。

 昨日より少し顔色がいい気がする。

 佐藤に「三ミリ顔がやわらかい」と言われてから、なんとなく鏡を見るのが習慣になった。

 三ミリ変わったかどうかはわからないが、確認したくなる。

 これはこれで変化かもしれない。


 台所に行くと、美由紀が朝食の準備をしていた。

「おはよう」

「おはよう」

 週末はこれくらい交わせる。

 平日の朝より、少しだけ余白がある。

 食卓に座ると、大輔がすでにいた。

 高校三年生の大輔は、最近いつも少し早く起きている。

 参考書を開いているか、スマホを見ているか、あるいは何もせずにぼんやりしているか。

 今日は三つ目だった。

 トーストと目玉焼きの前に座って、ぼんやりと窓の外を見ている。

「大輔、食べないのか」

「食べる」

「食べる、って口の前に皿があるぞ」

 大輔は返事をしなかった。

 トーストを一口かじって、また窓の外に目を向けた。

 達也は味噌汁を飲みながら、大輔の横顔を見た。

 この頃の大輔は、どこかに考え事を抱えているような顔をしていることが多い。

 受験のプレッシャーか、友人関係か、それとも別の何かか。

 達也には、聞けていない。


 美由紀は台所の流しで食器を洗いながら、ちらりとリビングの達也を見た。

 達也は朝刊を広げている。

 いつも通りの土曜日の朝だ。

 昨日、達也が「美味かった」と言った。

 ミニトマトだけの弁当に向かって。

 美由紀はあのひとことをまだ少し引きずっている。

 引きずっている、というより——何度か思い出している。

 洗濯物を干しながら、スーパーで買い物リストを確認しながら、夕飯の仕込みをしながら。


 ミニトマトが美味かった、というのはどういう意味だ。

 ただの感想か。

 それとも何か別の意味があるのか。

 美由紀には判断がつかなかった。

 達也がそういうことを言う人間でないことは知っている。

 だからこそ、言ったことが引っかかる。

「ねえ、大輔最近ちゃんとご飯食べてる?」

 美由紀は達也に声をかけた。

「食べてるだろ」

「量が少ない気がして。夜も残すことあるし」

「受験生はそういうもんじゃないか」

「そういうもんかな」


 達也は朝刊から顔を上げなかった。

 美由紀はスポンジを絞りながら、大輔のことを考えた。

 このごろ大輔は、何かを言いたそうにして黙っていることが多い。

 話しかけると答えるが、自分から話してこない。

 中学のころはもう少しよく喋った。

 高校に入ってから、どこかに考え事を抱えて歩いているような、そんな雰囲気になった。

「今日の昼、うどんでいい?」

「ああ」

「ちゃんと答えて」

「いい、って言ってる」

「顔を見て言ってくれると嬉しいんだけど」

 達也が少し間を置いてから、朝刊を下ろした。

 美由紀と目が合った。

「うどん、いいと思います」

「……急にそれも変だけど、まあいいか」

 美由紀はスポンジを置いて、タオルで手を拭いた。

 小さなことだが、顔を見て返事をされると、少し気分が違った。


 昼になった。

 結衣がようやく起きてきて、「腹へった」と言いながら冷蔵庫を開けた。

 髪の毛がぼさぼさで、パジャマのまま。

 中学二年生というのはこういうものだ。

「ちゃんと顔洗ってきなさい」と美由紀が言った。

「洗ってきたし」と結衣が言った。

「洗った顔がそれ?」

「お母さんうるさーい」

 このやりとりも、桐島家の週末の標準装備だ。

 結衣の「お母さんうるさーい」は一日に最低三回は発動する。


 昼食は、美由紀が作ったきつねうどんだった。

 四人で食卓を囲む。

 達也、美由紀、大輔、結衣。

 週末の昼食に四人が揃うのは、最近では珍しくなかった。

 大輔の塾は土曜の午後からで、結衣の部活は午前中だけだ。

 最初の五分は、うどんをすする音だけがした。

 美由紀が「今日ちょっと出汁が薄かったかも」と言った。

 達也は「そうか? 俺はちょうどいいと思うけど」と返した。

 結衣が「美味しいよ」と言って麺を勢いよくすすった。

 大輔は何も言わなかった。

 それだけだった。


 しばらく食べていると、達也は大輔のことが気になり始めた。

 何が気になるのかというと、大輔がずっと下を向いたままだということだ。

 うどんを食べているのだから下を向いていて当たり前だが、食べていないときも下を向いている。

 何か言いたいことがあるのか、と達也は思った。

 それとも、聞いてほしいことがあるのか。


「大輔」

 達也は声をかけた。

 大輔が顔を上げた。目が合った。

「……なに」

「最近、勉強はどうだ」

 一瞬、大輔の顔が微妙に動いた。

 何かを言いかけて、やめたような顔だった。

「……してる」

「志望校、決めたのか」

「……まだ」

「まだって、もう秋だぞ。ちゃんと考えてるのか」

「考えてる」

「考えてるって、具体的にどう考えてるんだ。担任には相談したのか。模試の結果はどうだった」

 大輔の箸が、止まった。

「……」

「返事しろよ。聞いてるのか」

「聞いてる」

「聞いてるなら答えろよ。志望校くらい言えるだろ。文系か理系かくらいは決まってるだろ。将来何になりたいのかくらい——」

「もういい」

 低い声だった。


 大輔は箸を置いて、椅子を引いた。

 立ち上がる。

 うどんはまだ半分残っている。

「大輔」

 返事はなかった。

 廊下を歩く音がして、階段を上る音がして、二階の部屋のドアが静かに閉まった。

 音を立てずに閉めたことが、余計に重かった。


 食卓に、沈黙が落ちた。

 達也はうどんの残りを見た。

 美由紀はお椀を両手で持ったまま、何も言わなかった。

 結衣だけが、スマホを見ながらうどんをすすっていた。

「……」

 達也が何か言いかけたとき、結衣が顔を上げずに言った。

「お父さん、それ課題の分離ができてないよ」

 達也は、聞き返した。

「どれよ」

「課題の分離。アドラーだよ」

「アドラーって何だ」

「心理学者。『嫌われる勇気』とかで有名な人。学校で習った」

 結衣はスマホを置かないまま続けた。

「大輔の進路は大輔の課題なの。お父さんの課題じゃない。お父さんの課題は、大輔が相談してきたときに応援することだけ」

「……」

「干渉しすぎると、相手が自分で考える力を奪うんだって。『ちゃんと勉強してるのか』とか『志望校決めたのか』とか、全部お父さんの不安をぶつけてるだけだよ、あれ」


 達也はしばらく、中学二年生の娘を見た。

 スマホを見ながらうどんを食べながら、ものすごく正確なことを言っている。

「……学校でそんなことを教えるのか」

「道徳の授業でちょっと。あと自分で本読んだ」

「本まで読んだのか」

「大輔が最近元気なさそうだったから」

 それだけ言って、結衣はまたうどんをすすった。

 美由紀が静かにお椀を置く音がした。


 達也は自分のうどんをもう一口食べた。

 出汁が染みた。

 美由紀が「薄かった」と言っていたが、達也にはちょうどいい。

 課題の分離。

 大輔の進路は大輔の課題で、達也の課題は応援することだけ。

 言葉として聞けばわかる。わかるが——それができないのはなぜだろう。

 達也は少し考えた。

 大輔が失敗したら、と思うからだ。

 志望校に落ちたら、後悔したら、方向を間違えたら——そう思うと、黙って見ていられない。

 それは心配であり、不安であり、もしかしたら——結衣の言う通り、自分の不安をぶつけているのかもしれない。


 課題の分離、か。

 達也は言葉を頭の中で繰り返した。

 考えてみれば、弁当のことも同じだったかもしれない。

「また唐揚げか」と言ったのは、美由紀の作ったものへの干渉だ。

「美味い」でも「ありがとう」でもなく、評価と不満を先に言った。

 美由紀の課題——毎朝弁当を作るという選択——に、達也は踏み込んでいた。

 それで美由紀が怒った。

 それで✕が入った。

 つながって見えてきた。


「お父さん」

 結衣がうどんを食べ終えて、お椀を置いた。

「大輔ね、進路のこと、ちゃんと考えてるよ。ただ、お父さんに言うタイミングを探してるだけだと思う」

「そうなのか」

「お父さんが圧かけるから、言いにくいんだよ」

「……そうか」

「応援してるって、言ったことある? 言葉で」

 達也は答えられなかった。

 結衣は「ま、いっか」と言って立ち上がった。

 お椀を流しに持っていって、「ごちそうさま」と言って、階段を上っていった。

 食卓に達也と美由紀が残った。

 美由紀は何も言わなかった。

 でも達也の方をちらりと見た。一秒くらい。

 それだけだったが、その一秒に、何かが入っていた気がした。


 午後、達也は一人でリビングにいた。

 テレビはつけていない。

 週刊誌を手に持っているが、読んでいない。

 二階から、音楽が聞こえてくる。

 大輔の部屋だ。ヘッドフォンを外しているのか、かすかにギターの音が漏れてくる。

 大輔が好きなバンドの曲らしいが、達也には曲名がわからない。聞いたことがない。

 達也は天井を見た。

 大輔が何を考えているか、達也は知らない。

 好きなバンドの名前も知らない。

 どんな友達がいるかも、最近よく笑う理由も、最近元気がない理由も——何も知らない。

「応援してるって、言ったことある? 言葉で」

 結衣の言葉が、頭の中で繰り返された。

 ない、と達也は思った。

 言ったことが、ない。

 弁当については、昨日ようやく「美味かった」と言えた。

 四千回目にして。大輔への「応援してる」も、きっと同じだ。

 何年も経ってから「言えばよかった」になる前に、言わないといけない。


 達也は立ち上がった。

 階段を上って、大輔の部屋の前に立った。

 ドアの向こうから、かすかに音楽が聞こえる。

 ノックしようとして、手が止まった。

 何を言えばいい。

「さっきは悪かった」か。

「応援してる」か。

「志望校、決まったら教えてくれ」か。

 どれも、少し違う気がした。

 でも何か言わないといけない、とは思った。

 達也はドアを三回ノックした。

 少し間があって、「なに」と声が返ってきた。

 さっきよりは、少し低くなかった。

「……飯、ちゃんと食えよ。昼、残してただろ」

「……わかった」

「それだけだ」

 達也は廊下を戻りながら、自分で「それだけかよ」と思った。

 言いたいことの十分の一も言えていない。

 でも、ドアの前に立ったことは確かだ。

 ノックしたことは確かだ。

 階段を下りると、台所から美由紀がこちらを見ていた。

 何も言わなかった。

 ただ、少しだけ目が合った。

 それで十分だった。


 夕食後、美由紀は台所で翌日の弁当のおかずを仕込んだ。

 鶏の塩麹漬け。

 一晩置くとやわらかくなる。

 明後日——月曜日のお弁当用だ。

 仕込みながら、今日の食卓を思い返した。

 大輔が席を立ったこと。

 結衣が「課題の分離」と言ったこと。

 達也が大輔の部屋の前に立ったこと。

 美由紀は二階から、ドアをノックする音を聞いていた。

 何を言ったかはわからない。

 でも、立ったことは確かだ。

 ノックしたことは、確かだ。


 美由紀はボウルにラップをかけながら、冷蔵庫を開けた。

 麦茶パック。

 また一口だけ残っている。

 達也の習慣は変わらない。

 でも今日は、少しだけ笑えた。

 冷蔵庫の扉の付箋たちが目に入った。

「みずかけ禁止!!」「抜群でした」「今日は赤かった。明日は何色ですか」。

 月曜の弁当は、何にしようか。

 嫌がらせを続けるべきか、普通に戻すべきか——でも、どちらでもない「何か」がある気がして、美由紀はまだ決めていなかった。


 夜、食卓に四人が揃った。

 大輔は夕飯をちゃんと食べた。

 昼より少し表情が柔らかかった。

 達也がノックしたせいかどうかはわからない。

 でも、少し柔らかかった。

 食事中、結衣が「家庭科の授業でお弁当作る課題が出た」と言った。

「大切な人へのお弁当、って題名でさ。誰に作るか考えてくるんだって」

「誰に作るの?」と美由紀が聞いた。

「まだ決めてない。誰がいいかな」

 達也は黙っていた。

「俺に作ってくれ」とは言えなかった。

 言えなかったが、少し思った。

「友達でもいいし、家族でもいいんだって」と結衣は言った。

「誰に作ったら一番喜ぶかな」

「誰でも喜ぶよ」と美由紀が言った。

「手作りのお弁当って、誰でも嬉しいもんだから」

 結衣は「そっかー」と言って、お茶を飲んだ。


 達也はその会話を聞きながら、美由紀の横顔を見た。

 今日の夕飯も、美由紀が作った。

 昼のうどんも美由紀が作った。

 明日の朝ごはんも、きっと美由紀が作る。

 弁当は月曜からまた始まる。

 誰でも喜ぶ、と美由紀は言った。

 当たり前のように言ったが——それを当たり前にやり続けてきた人が、今同じ食卓に座っている。


 達也は味噌汁を飲んだ。

 今日も美味かった。

 今日は、ちゃんとそう思いながら飲んだ。

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