第4話 同僚・佐藤の、鋭すぎる分析
桐島達也には、長年の経験から導き出した「昼休みの鉄則」がある。
それは——弁当は一人で食べろ、だ。
外のベンチ。
空の下。
自分のペースで。
誰にも邪魔されず、誰の話も聞かず、ただ黙って食べる。
それが達也にとっての昼休みの理想形だった。
一人で食べることで午前中のノイズをリセットして、午後に備える。
これを会社員生活二十三年間、ほぼ守り通してきた。
今日は、守れなかった。
原因は佐藤洋介、三十二歳だ。
「桐島さん、一緒にいいですか。コンビニ行く途中で通り道なんで」
断る理由がなかった。
「通り道」という理由がずるい。
「一緒に食べましょう」だったら「俺は一人で」と言えるが、「通り道なんで」には反論の余地がない。
達也は「ああ」と返して、いつものベンチに向かいながら、少し敗北感を覚えた。
佐藤はコンビニのサンドイッチと缶のカフェラテを持ってきた。
最近の若い人はよくこれを昼飯にする。
達也には少し物足りない気がするが、それぞれの好みだ。
二人並んでベンチに座った。
公園の木が風に揺れている。
今日は雲が少ない。
空がやたらと広い。
達也は鞄から弁当箱を取り出して、蓋を開けた。
真っ赤だった。
今日もミニトマトが、びっしりと並んでいる。
昨日と全く同じ。赤、赤、赤、赤、赤——ご飯の上を埋め尽くす十二個の赤い玉。
血の池地獄、と達也が内心で名づけたのは三日前だ。
いや、待て。
達也は自分の命名センスに驚いた。
「血の池地獄」なんて物騒な名前をつけておいて、「情熱の赤」と読み替えて食べていた自分は、相当おめでたいかもしれない。
「……桐島さん」
隣で佐藤が、静かな声を出した。
「その弁当」
「ん?」
「ミニトマトだけ、ですね」
「そうなんだよ。最近こういうの多くて」
達也はトマトを一個箸でつまみながら、さらりと言った。
佐藤は少し間を置いた。
サンドイッチを持ったまま、達也の弁当箱を見ている。
「先週は、✕でしたよね。海苔の」
「そう。あれ抜群って読むんだと——」
「奥さん、相当怒ってますよね」
達也の箸が、止まった。
「……え?」
「怒ってます。完全に」
佐藤は断言した。
眼鏡の奥の目が、まっすぐ達也を見ている。
いつもの「困ったような顔」ではなく、今日は少し真剣な顔をしている。
佐藤がこの顔をするとき、その後に出てくる言葉はだいたい正しい。
達也はそれを経験上知っていた。
「✕は、バツです。抜群じゃないです」
「……」
「ミニトマトだけの弁当は、栄養を考えた愛情弁当じゃないです。これは——」
佐藤はもう一度、弁当箱を見た。
「視覚的な圧力です」
沈黙が、公園に落ちた。
木の葉が風に揺れる音がした。
遠くで子どもが笑う声がした。
それ以外は静かだった。
達也は弁当箱を持ったまま、ミニトマト十二個と向き合った。
視覚的な圧力。
……そうか。
そういうことか。
「✕」はバツで、ミニトマトだけの弁当は圧力で、「また唐揚げか」と言った翌日から始まったこの弁当の変化は、美由紀からのメッセージだったのか。
それも、かなりはっきりとした。
達也はゆっくりと、一週間分の記憶を巻き戻した。
「また唐揚げか」と言った朝。美由紀が何も言わなかった。
「いってきます」に「いってらっしゃい」が返ってこなかった。
翌朝の弁当に海苔の✕。
その次はミニトマトだけ。
付箋に「今日は赤かった。明日は何色ですか」。
順番に並べると、これはもう、かなりわかりやすい。
「俺……怒らせてたのか」
独り言のように言った。
「怒らせてたんだと思います」と佐藤が静かに返した。
「なんで」
「『また唐揚げか』じゃないですか」
達也はその言葉を、もう一度頭の中で再生した。
また、唐揚げか。
……たしかに言った。
朝刊を広げながら、顔も見ずに。
「それだけで?」
「それだけで、だと思います。というか、『それだけ』が積み重なるんだと思います。毎朝作ってる人からすると」
佐藤はサンドイッチを袋から出しながら、続けた。
「僕は結婚してないんで詳しくはないんですけど、毎朝弁当を作るって、相当なことだと思うんですよ。十何年間、毎朝。それに対して最初に出てくる言葉が『また唐揚げか』だとしたら——そりゃ、✕も入りますよ」
正論だった。
反論の余地が、どこにもなかった。
達也はミニトマトを一個口に入れた。
甘かった。今日も、ちゃんと甘かった。
「俺、何年もそうだったのかな」
気がついたら、声に出していた。
佐藤は少し考えてから、「どうでしょう」と言った。
断言しない、佐藤らしい返し方だ。
「わからないですけど、桐島さんのこと、奥さんはまだ怒れる距離にいるってことだと思います」
「怒れる距離?」
「諦めてたら、弁当に✕は入れないじゃないですか。入れるのは、まだ届くと思ってるからだと思うんですよ。面倒でも、怒るのは」
達也はそれを聞いて、少し黙った。
怒れる距離。
弁当に毎朝メッセージを仕込んでいる妻の姿を、達也は初めてそういう角度から考えた。
嫌がらせかもしれない。
でもその嫌がらせには、確かに手間がかかっている。
海苔をハサミで切って、ミニトマトを十二個並べて、付箋に字を書いて——それだけのことを、毎朝やっている。
弁当を作ることをやめれば、もっと楽になれるはずだ。
それでも作り続けている。
「……佐藤、お前、三十二だよな」
「そうですけど」
「なんでそんなことわかるの」
「姉が離婚してるんで」
短い一言で、それ以上は言わなかった。
達也も聞かなかった。
二人並んで、しばらくそれぞれの弁当を食べた。
風が通り過ぎた。
弁当箱の蓋を閉めながら、達也はぼんやりと思った。
この弁当箱、もう何年使っているんだろう。
縁に傷がついている。
蓋の角が少し白っぽい。
新婚のころに買ったものだ。
そろそろ新しいのにしてもいいかもしれない、と何度か思ったことがある。
でも美由紀に言ったことはない。
言えば美由紀が「じゃあ買う」と言って、次の日には新しいのが出てくる。
それが何となく、申し訳ない気がしていた。
申し訳ない、か。
達也は少し驚いた。自分がそう思っていたことに。
「また唐揚げか」と言っておいて、弁当箱には申し訳なさを感じている。つまり感謝はある。あるのに、言葉にならなかった。
言葉にしようとすら、していなかった。
「桐島さんって、奥さんにお礼とか言います?」
佐藤が聞いた。
「……言ってる、と思うけど」
「最後に言ったのいつですか」
「……」
「美味しかった、でもいいんですよ。それだけで全然違うと思います。僕の母が言ってましたけど、『ありがとう』より『美味かった』の方が嬉しいって。作ったものを美味しいって言われる方が、直接届く感じがするって」
達也はサンドイッチを食べる佐藤を横目で見た。
「お前、結婚してないのに詳しいな」
「実家が厳しかったんで。父が一切言わない人で、母が毎晩不満そうにしてたんです。反面教師ですね」
さらりと言った。
佐藤がこういう話を自分からするのは珍しかった。
「……そうか」
「桐島さん、今日帰ったら言えますよ。一言だけでも」
「急に言ったら変だろ」
「変でいいじゃないですか。変な方が伝わることもありますよ」
達也は空を見上げた。
雲が一つ、ゆっくり動いていた。
昼休みに後輩に人生を諭される四十六歳。
情けないような、でも少し気持ちが軽くなるような、奇妙な感覚だった。
午後の仕事は、珍しく集中できた。
鬼塚の「それで?」が今日は一回だけだった。
達也の報告がいつもより整理されていたからだ。
午前中のノイズが少なかった——いや、違う。
午前中のノイズが整理されて、頭がすっきりしていた。
佐藤との昼が、案外リセットになった気がする。
定時を少し過ぎたころ、資料を印刷しに席を立った。
コピー機の前で、後輩の新入社員・ミライとすれ違った。
「あ、桐島部長!お疲れ様です」
田中ミライ、二十二歳。
今年の春に入ってきた新卒だ。
目がくりっとしていて、いつも少し大きめの声で話す。
営業部に配属されたが、用事があると達也のいる企画部にもよく来る。
達也には娘の結衣と同い年に見える。
「お疲れ」
「今日もお弁当持ってきてたんですよね? いつも美味しそうで」
達也は印刷ボタンを押しながら、少し手が止まった。
「……見てたのか」
「だって毎日持ってくるじゃないですか。しかも手作りっぽいし。あたし、コンビニ飯ばっかりなんで、羨ましいなって」
ミライは少し遠い目をして言った。
「奥さんが作ってくれるんですか?」
「ああ」
「いいなあ。毎朝作ってくれる人がいるって、すごいことですよね」
達也は印刷された資料を取りながら、その言葉を聞いた。
すごいこと。
二十二歳の目には、そう見えるらしい。
毎朝弁当を作ってもらうことが、当たり前ではなく「すごいこと」として映っている。
「大事にしてあげてくださいね、奥さん」
ミライはそれだけ言って、「失礼します!」と元気よく去っていった。
達也は廊下に一人残って、資料を胸に抱えたまま、少しの間その場に立っていた。
帰り道、電車の中で達也はぼんやりと窓の外を見た。
今日は情報が多すぎた。
佐藤の「✕はバツです」。
佐藤の「怒れる距離にいる」。
ミライの「毎朝作ってくれる人がいるって、すごいことですよね」。
三つ並べると、全部同じことを言っている気がした。
達也は目を閉じた。
十七年間、美由紀が作り続けた弁当の数を、今度こそ計算してみようとした。
三百六十五日かける十七年——六千二百五日。
正確ではないが、大体そのくらいだ。
週末や休日を引いたとしても、四千回は超える。
四千回。
四千回、作ってもらった。
四千回のうち、何回ちゃんと「美味かった」と言えたか。
達也には、その答えがすぐに出なかった。
出ないこと自体が、答えかもしれなかった。
電車が駅に滑り込んだ。
乗り換えの駅だ。
達也はドアが開くと立ち上がって、ホームに降りた。
エスカレーターを上りながら、今夜は何か言おう、と思った。
何を言うかは決まっていない。
「ありがとう」は少し突然すぎる気がする。
「美味かった」は毎日言えばよかったやつだ。
「怒らせてごめん」は——たぶん照れて言えない。
とにかく、何か言おう。
それだけは決めた。
帰宅すると、台所から夕飯の匂いがした。
「ただいま」
「おかえり」
短い。いつも通り短い。
達也は鞄を置いて、弁当箱を取り出してテーブルに置いた。
今日も付箋が貼ってある。
昨日のやつが残っている——「今日は赤かった。明日は何色ですか」。
達也はそれを見て、少し笑いたくなった。
笑ってどうする、という話だが。
美由紀が台所から顔を出した。
エプロン姿で、手に菜箸を持っている。
「今日のお弁当、どうだった」
美由紀が聞いた。
いつもは聞かない。
達也もいつもは答えない。
でも今日は美由紀の方から聞いてきた。
達也は少し間を置いた。
「……美味かった」
「ミニトマトだけだけど?」
「ミニトマトが美味かった」
美由紀は一秒黙って、「ふうん」と言った。
それだけだった。
でも菜箸を持った手が、少しだけ止まったのを達也は見た。
夕飯の間、二人はあまり話さなかった。
でも達也は食べながら、「言えた」と思っていた。
四千回目にして、ようやく。
遅すぎる、と自分でも思った。
でも言えたことは確かだった。
夕飯を食べ終えて、達也はソファに座ってテレビをつけた。
ニュースが流れている。
経済の話をしているが、頭に入ってこない。
テーブルの上の弁当箱が、目に入った。
蓋の裏の付箋——「今日は赤かった。明日は何色ですか」——を、達也はもう一度読んだ。
この付箋を書いたとき、美由紀はどんな顔をしていたんだろう。
怒っていたかな。
それとも少し笑いながら書いたかな。
達也には、わからない。
朝の台所で美由紀が弁当を作っている時間、達也はたいてい朝刊を読んでいるかスマホを見ているかだ。
美由紀の「作っている顔」を、最近ちゃんと見た記憶がない。
明日は、少し見てみようか。そんなことを思いながら、テレビの音を聞いていた。
その夜、達也は布団の中で弁当箱のことを考えた。
明日は何色だろう。
また赤かもしれない。
別の色かもしれない。
あるいは、普通の弁当に戻るかもしれない。
どれでもいい、と達也は思った。
どれでもいいから、明日も弁当が来てほしかった。
「まだ届くと思ってるから怒る」と佐藤は言った。
だとしたら、達也もまだ届く場所にいたい。
目を閉じながら、そんなことを思った。
四十六歳の中間管理職が、妻の嫌がらせ弁当の続きを祈っている。
われながら、ずいぶん遠回りをしてきたものだな、と達也は思いながら、目を閉じた。




