第3話 ママ友の知恵、あるいはデス・弁当
「抜群でした」。
その付箋が、冷蔵庫の扉に貼られて三日が経つ。
美由紀は毎朝、麦茶を出すたびにその五文字と目が合う。
「みずかけ禁止!!」と「抜群でした」と「別府温泉」の温泉マーク。
この三つが横一列に並んでいる光景が、今の桐島家の冷蔵庫の現在地だ。
「……なんなんだろ、あの人」
誰もいない台所でつぶやいた。
美由紀が「✕」を入れたのは、怒りのしるしだ。
バツだ。アウトだ。
この弁当に込めた感情を一文字で表すならバツ以外にない。
それが「抜群でした」になって帰ってきた。
どういう変換だ。
頭の中に変換表でも埋め込んであるのか。
「妻の怒り→愛のメッセージ」という、世界で一番都合のいい翻訳機が。
美由紀は麦茶を一口飲んで、パート用のエプロンを鞄に突っ込んだ。
今日は午前のシフトだ。
十時から三時まで。
惣菜コーナーの揚げ物担当。
フレッシュマート桜ヶ丘の惣菜コーナーは、朝の仕込みから始まる。
唐揚げ、コロッケ、白身魚のフライ。
油の温度を確認して、衣をつけて、揚げる。
この繰り返し。
美由紀はこの作業が嫌いではない。
手を動かしていると頭が空っぽになるし、揚げ物の音——ジュワジュワという、あの景気のいい音——は、不思議と気持ちを前向きにする。
「美由紀さん、今日また唐揚げ大盛りにしといたよ〜」
声をかけてきたのは、加藤かおりだ。
四十六歳。美由紀と同い年。
惣菜コーナーの先輩パートで、ピアスがいつも少し派手だ。
今日はゴールドの輪っかが左耳に三つ連なっている。
初めて見たとき「山手線みたいだな」と思ったが、口には出さなかった。
「あ、そうだかおりさん——」
美由紀は揚げ網をトレーに置いて、声を低めた。
「例の話、続きがあって」
「例の話って、旦那さんの弁当?」
「そう。✕を入れたら『抜群でした』って付箋が帰ってきた」
かおりは三秒ほど固まった後、おなかを抱えて笑い始めた。
揚げ物コーナーで腹を抱えて笑う四十六歳。
売り場のBGMに混ざって、かおりの笑い声だけが浮いている。
「抜群!? 抜群でした!? あの✕をそう読むの!?」
「そう読むんだって」
「やだ最高。旦那さん、天才じゃない」
「天才じゃなくて鈍感なんだけど」
「その紙一重が愛しいのよ美由紀さん」
かおりはそう言って、エプロンのポケットからスマホを取り出した。
何かを確認する仕草をしながら、ふふふ、とまだ笑っている。
美由紀はトングを持ち直して、揚げ上がった唐揚げをパックに並べながら、少し口元が緩んでいる自分に気づいた。
緩んでいるのに気づいて、引き締めた。
いや、笑ってる場合じゃない。
「でも美由紀さん、やるならもっとエグいのよ」
昼休み、二人は控室でお弁当を広げながら話していた。
かおりのお弁当は今日も彩り豊かで、卵焼きの黄色とブロッコリーの緑が美しい。
見るたびに少し悔しい。
「エグいの?」
「✕くらいじゃ、抜群って読む人には効かないじゃない。もっとビジュアルで攻めないと」
かおりは箸を持ったまま、真剣な顔をした。
こういう顔のときのかおりは本気だ。
美由紀は経験上それを知っている。
「ビジュアルで攻める」
「そう。お弁当ってね、開けた瞬間の『絵』が大事なの。どんなメッセージより、視覚情報が一番脳に刺さる」
「……かおりさん、何者?」
「主婦よ。主婦が十年研究した結果よ」
かおりは卵焼きを口に入れて、ゆっくり噛みながら続けた。
「ミニトマトって、何個ある? 家に」
「え? 何個か……パックで一袋あるけど」
「全部入れなさい」
「は?」
「全部。他のおかずは一切なし。ご飯の上にミニトマトをびっしり並べる。それだけ。弁当箱を開けた瞬間、視界が真っ赤になる」
美由紀は箸を止めた。
頭の中で、映像が浮かんだ。
弁当箱を開ける達也の手。ぱかっと蓋が開く。そこに広がる、赤、赤、赤、赤、赤——
「……血の池地獄だ」
「そう! そういうこと!」
かおりが嬉しそうに箸を振った。
揚げ物コーナーのパートの昼休みに、二人の主婦が弁当の嫌がらせ作戦を真剣に練っている。
傍から見れば相当にシュールな光景だが、当事者には何の違和感もなかった。
「効くと思う?」
「効く効かないじゃなくて、やってみる価値はある。それに美由紀さん——」
かおりは少しだけ声のトーンを落とした。
「嫌がらせ弁当、続けてる間は、あなたまだ旦那さんのことを諦めてないってことよ」
美由紀は、そのセリフをすぐには飲み込めなかった。
「諦めてないって……そういう話じゃないけど」
「そういう話よ」
かおりは微笑んで、お弁当の蓋を閉めた。
お昼休憩、あと十分。
午後のシフトが終わって控室に戻ったとき、かおりからLINEが来た。
「作戦、絶対やってみて。反応が楽しみすぎる」
美由紀はスマホを見ながら、少し考えてから返信した。
「楽しみって感覚じゃないんだけど」
「なってるじゃない、絶対」
「なってない」
「顔に書いてあるよ」
かおりのメッセージに、ニヤニヤ顔の絵文字がついていた。
美由紀はスマホを鞄に突っ込んで、着替えながら天井を見た。
なってない。
楽しみになんか、なってない。
……少し、なってる。
それが一番腹立たしかった。
嫌がらせをしている側が、その反応を楽しみにしてどうする。
主導権はこっちが持っているはずなのに、なぜかあの人のペースで動いている気がしてならない。
「抜群でした」の付箋一枚で、こんなに引っかかってしまっている自分が悔しい。
かおりはいつだったか、こんなことを言っていた。
「うちの旦那がリストラされそうで参ってたとき、私、初めてちゃんとお弁当を作ったの。何も言わずに。それだけで、なんか変わった気がするんだよね。私も、あの人も」
美由紀はそのときのかおりの顔を思い出した。
少し遠くを見るような、でも穏やかな顔。
弁当を作り続けているかぎり、何かが続いている。
それが何なのかは、まだわからなかった。
その夜、美由紀はスーパーでミニトマトを二パック買った。
いつもは一パック。
今日は二パック。
レジの前に立ちながら、「これは明日の弁当用です、ご飯の上に全部乗せます、嫌がらせです」と心の中で説明した。
誰にも聞かれていないが。
帰宅すると、達也はまだ帰っていなかった。
大輔はリビングで参考書を広げ、結衣は自分の部屋にいる。
「おかえり」と大輔が言った。
「ただいま」と美由紀が返した。
それだけの会話だが、大輔が顔を上げずに言えたことが、今日は少し嬉しかった。
最近、参考書から目を離さなくなった。
受験が近い、というより、何か別の重さを背負っているような雰囲気がある。
美由紀はそれが少し気になっているが、聞けていない。
台所に立って、夕飯の準備をしながら、美由紀はミニトマトのパックを冷蔵庫に入れた。
「明日使うから触らないで」
誰にも聞こえないくらいの声で、冷蔵庫に言い聞かせた。
翌朝。
美由紀は六時十五分に台所に立った。
ご飯は昨夜のうちに炊いてある。
弁当箱を出す。
達也の弁当箱——縁に小さな傷がいくつもついた、使い込んだやつ。
新婚のころに買ったものだ。
美由紀は弁当箱を見た。
この弁当箱、何年使ってるんだろう、とふと思った。
十五年か、十六年か。
蓋の角が少し白っぽくなっているのは、使い込んだ証拠だ。
新しいのを買おうと思ったことは何度もある。
でもそのたびに「今度でいいか」になって、今日まで来た。
……今度でいいか、か。
美由紀はそれ以上考えるのをやめて、冷蔵庫を開けた。
ミニトマト、二パック。
視界に赤が広がった。
「よし」
美由紀は静かに、でも確実に、作戦を実行することにした。
ご飯をふんわりと弁当箱に詰める。
唐揚げは——入れない。
ブロッコリーは——入れない。
プチトマトは——
パックを開けた。ひとつ、ふたつ、みっつ——ミニトマトをご飯の上に並べていく。
四つ、五つ、六つ。
隙間なく、びっしりと。
七つ、八つ、九つ。
赤い玉がどんどん増えていく。
十個、十一個、十二個——
「完成」
美由紀は弁当箱を見た。
赤かった。完全に、どこまでも、赤かった。
ご飯の白がほぼ見えない。
弁当箱を開けた瞬間、視界を埋め尽くす赤の海。
かおりが言った通り——血の池地獄だ。
これ以上の表現が見当たらない。
美由紀は蓋を閉めて、弁当箱をそっとテーブルに置いた。
達也がこれを開ける顔を想像した。
三秒ほど固まって、それから何か言う。
何を言うんだろう。
「真っ赤だ」って言うかな。それとも——
「また『情熱の赤!元気が出る!』とか言うんだろうな」
美由紀は小声でそうつぶやいて、自分でそのセリフを言いながら、少し笑ってしまった。
笑ってしまったことが悔しくて、すぐに真顔に戻した。
真顔に戻したが、口の端が少し上がったままなのはどうしようもなかった。
達也が玄関を出て行くのを確認してから、美由紀は台所の流しで洗い物をした。
「いってきます」という声に、今日は「いってらっしゃい」と返した。
三日前は返せなかったのに、今日は返せた。
それが自分でも少し不思議だった。
付箋のせいかもしれない。
「抜群でした」という、あの脱力する五文字のせいかもしれない。
水を止めて、タオルで手を拭く。
冷蔵庫の扉に目が行った。
「みずかけ禁止!!」「抜群でした」「別府温泉」。
三日間、毎朝この並びを見ている。
「抜群でした」を剥がそうと思ったことは何度かある。
でも剥がせなかった。
ゴミ箱に捨てればいいのに、なぜか捨てられない。
美由紀はしばらくその付箋を見つめた。
ミミズがのたくったような、達也の字。
昔から変わらない、読めそうで読めない字。
プロポーズのとき、こんな字で「一緒に生きていこう」と紙に書いて渡してきた。
美由紀は受け取りながら「こんな字で渡してくるな」と思ったが、口には出さなかった。
あの紙は、今も引き出しの奥にある。
捨てられなかった紙の一枚目が、あれだ。
「……馬鹿みたい」
美由紀は独り言を言って、窓の外を見た。
今日は天気がいい。
洗濯物がよく乾きそうだ。
夜、達也が帰ってきた。
いつもより少し早かった。八時前。
「ただいま」
「おかえり」
短い交換。
でも今日は続きがあった。
達也が鞄を置きながら、珍しく台所の方に顔を向けた。
「今日の弁当」
「うん」
「真っ赤だった」
「知ってる」
「あれ、何?」
「ミニトマト」
「ミニトマトだけ?」
「そう」
達也は三秒ほど何かを考える顔をした。
美由紀は背中を向けたまま、味噌汁をよそいながら、その三秒を数えた。
「……情熱の赤だと思ったんだけど」
お玉を落としそうになった。
本当に言った。
「情熱の赤」と。朝に予想したセリフそのままを。
美由紀は口の中で「ほらね」と言って、深呼吸して、振り返った。
「……夕飯、食べる?」
「食べる」
それだけだった。でも、いつもより少し言葉が多かった夜だった。
食器を洗いながら、美由紀は弁当箱を確認した。
空だった。完食。
ミニトマト十二個、全部食べていた。
蓋の裏に付箋が貼ってある。
美由紀はそれを剥がした。
こう書いてある。
「今日は赤かった。明日は何色ですか」
美由紀は付箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
怒りとも笑いともつかない、奇妙な感情が胸の奥をじわじわと押してくる。
「明日は何色ですか」。
この人は——嫌がらせをされていると気づいていないのか。気づいた上でとぼけているのか。 それともこれが、この人なりのコミュニケーションなのか。
十七年一緒にいて、まだわからない。
美由紀はため息をついて、付箋を冷蔵庫の方に向かって歩いた。
「みずかけ禁止!!」「抜群でした」「別府温泉」
——その列に、もう一枚加わった。
「今日は赤かった。明日は何色ですか」。
冷蔵庫の扉が、少し賑やかになった。
ゴミ箱に捨てなかった理由は、今日もわからなかった。




