第2話 バツ印の向こう側
桐島達也の朝は、たいてい敗北から始まる。
目覚ましが六時に鳴る。
五分後にもう一度鳴る。
その五分後にもう一度。
つまり三回鳴らして、ようやく体を起こす。
これを達也は「人間の本能に従ったスヌーズ活用術」と呼んでいるが、美由紀に言わせると「だったら最初から六時十分にセットしろ」ということになる。
正論だ。
正論すぎて反論できない。
今朝も三回目のアラームで起きた。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。
四十六歳。
白髪が増えた。
目の下にうっすらクマがある。
「疲れた中間管理職」という言葉が顔に書いてある。
達也は水で顔を洗い、タオルで拭きながら、鏡の自分に向かって「今日もがんばろう」とは思わなかった。
そういう元気は、どこかの引き出しにしまったまま鍵をなくしてしまった気がする。
食卓に座ると、朝刊がある。
味噌汁がある。
白米がある。
それと、弁当箱が。
「……また唐揚げか」
達也は朝刊を広げながら言った。
美由紀は何も言わなかった。
返事がないのはいつものことだ、と達也は思った。
いつものことすぎて、今朝がいつもより二十度くらい気温が低い、ということに気づかなかった。
会社に着いたのは八時三十五分だった。
エレベーターを降りてすぐ、鬼塚部長とばったり会った。
鬼塚龍一、五十八歳。
達也の直属の上司。
身長百八十センチ、体重は見た感じ百キロ近い。
低い声で、眉間に常にシワがある。
新人のミライは「熊みたい」と言ったが、達也にしてみれば熊の方がまだ愛嬌がある。
「桐島。例のプロジェクト提案、明後日までに叩き台持ってこい」
「は、はい。わかりました」
「クライアントが急いでる。使えないものを持ってくるな」
「もちろんです。しっかり仕上げます」
鬼塚はそれだけ言って、さっさと自分のデスクに歩いて行った。
達也はその背中を見ながら、スーツの内ポケットに手を入れた。
胃薬。
朝から二錠。
明後日まで、か。
達也は自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げながら、額の汗を手の甲でぬぐった。
エアコンは効いている。
汗をかくような気温ではない。
午前中は会議が二本。
一本目は部署全体の進捗確認で、達也が報告する番になったとき、鬼塚が腕を組んで「それで?」を三回繰り返した。
「それで?」
「それで?」
「それで?」
——この三段攻撃を喰らうと、どんなに準備していても頭が真っ白になる。
達也は経験上それを知っているので、報告の前に必ずメモ用紙を手に持つ。
手元に紙があると、少し落ち着く。
二本目は取引先との電話会議で、先方の担当者の声が小さすぎて半分くらい聞き取れなかった。
「えー、少し音声が……」と言うたびに相手が「聞こえていますか?」と言い、達也が「聞こえています、すみません」と謝る謎のループが三回発生した。
十二時になった。
「桐島さん、お昼どうします?」
後輩の佐藤が声をかけてきた。
佐藤洋介、三十二歳。
細面で眼鏡をかけていて、いつも少し困ったような顔をしている。
見た目はおとなしいが、観察眼が鋭い。
達也が「あいつは侮れない」と思っている数少ない後輩の一人だ。
「俺は弁当だから、公園行ってくる」
「あ、今日天気いいですね。いいなあ」
「お前も外出たら?」
「コンビニ行ってきます」
佐藤は軽く手を振って出て行った。
会社から徒歩三分の公園には、ベンチが三脚ある。
一番右端のベンチが、達也の定位置だ。
理由は特にない。
最初に座ったのがそこだっただけで、なんとなくそこが「自分の席」になった。
人間は不思議なもので、外のベンチにも「自分の席」を作る。
達也はネクタイを少し緩めて、弁当箱を取り出した。
鞄から出したとき、弁当箱が少し重く感じた。
毎日持ち歩いているのに、なぜか今日は少し重い。
気のせいかもしれない。
蓋を開けた。
唐揚げ。ブロッコリー。プチトマト。
そして白いご飯の上に、真っ黒な。
「✕」。
達也は三秒ほど、それを見た。
海苔だ。
ハサミで切った海苔を、ご飯の上に置いてある。
丁寧に、わりときれいに、確かに「✕」の形に。
「……」
達也はもう三秒見た。
なんだこれは。
いや、待て。
落ち着いて考えよう。
美由紀はなぜ、ご飯の上に✕を置いたのか。
……。
あ。
わかった。
「バ、バツグン……!?」
達也は一人でつぶやいた。
公園のベンチで、ネクタイを緩めた四十六歳のおじさんが、一人で「バツグン……!?」とつぶやいた。
傍から見れば完全に挙動不審だが、達也は今それを気にしている余裕がない。
そうか。
そういうことか。
✕——バツ——バツグン(抜群)。
美由紀は、今日の弁当が「抜群に美味い」と言いたかったのだ。
ダジャレだ。
ちょっとしたユーモアだ。
あの人なりのウィットに富んだコミュニケーションだ。
なるほど。
そういうことか。
達也は一人で深く納得して、唐揚げを口に入れた。
——美味い。
いや、本当に美味い。
昨日の夕飯の唐揚げと同じはずなのに、なんか今日は特別に美味い気がする。
「抜群」のバイアスがかかっているせいかもしれないが、まあ美味いものは美味い。
しかし美由紀め、なかなかやる。
海苔で「✕=抜群」とは。
達也は口の端をちょっとだけ上げて、次の唐揚げを箸でつまんだ。
午前中の「それで?」三段攻撃も、電話会議の聞こえないループも、明後日の締め切りも、弁当の「抜群」の前ではちょっとだけ小さく見えた。
昼休みの後半、達也は珍しくぼーっと空を見上げた。
曇っていた朝と違って、昼は少し日が出ていた。
雲の切れ間から光が差している。
美由紀と結婚して、もう十七年になる。
最初の頃は、弁当なんて持ってこなかった。
共働きで二人とも忙しかったし、美由紀も「私そういうの苦手だから」と言っていた。
弁当を作り始めたのは、大輔が生まれてしばらく経ってからだ。
子供の保育園の準備をしながら達也の弁当も作る、という流れになったらしい。
「らしい」というのは、達也がそのへんの経緯をよく把握していないからだ。
気づいたら毎朝弁当があった。
気づいたら、か。
達也は少し、それが引っかかった。
気づいたら毎朝あった、って——それは美由紀が毎朝作っていたわけで——自分はそれを当たり前みたいに持って出ていたわけで——
「抜群」か。
確かに、抜群だな。
達也は弁当箱の蓋を閉めて、付箋を一枚取り出した。
鞄に常備している小さいやつだ。
会議のメモ用に持っているのだが、今日は別の用途に使うことにした。
ペンを取り出して、書く。
午後の会議は、奇跡的に鬼塚の機嫌がよかった。
「今日のクライアント先の担当、前向きな反応だったぞ」と鬼塚が言い、部屋の空気が三度くらい上がった。
鬼塚の機嫌がいい日というのは、熱帯魚の水槽に適切な水温が保たれているような状態だ。
みんなが静かに、でも少しほっとしながら泳いでいる。
達也も今日はいつもより発言がスムーズだった。
「抜群」のパワーはあなどれない。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、達也はぼんやりと今日一日を振り返った。
鬼塚の「使えないものを持ってくるな」。
「それで?」の三段攻撃。
聞こえない電話会議。
明後日の締め切り。
積み重なると結構しんどい一日だったはずなのに、なぜか今日はそれほど引きずっていなかった。
弁当のせいだ、とわかっていた。
「抜群でした」と書いた付箋を、美由紀がどんな顔で読むか、少しだけ気になっていた。
笑うかな。
それとも「何これ」ってなるかな。
達也は美由紀の笑い顔を思い浮かべようとした。
最後に声を出して笑っているのを見たのは、いつだろう。
テレビのバラエティを見て笑っていた気がする。
あれはいつだったか。
先月か、先々月か。
ちゃんと覚えていない。
電車が来た。
達也はドアが開くと同時に乗り込んで、ドア横の隅に立った。
スマホを出そうとして、出さなかった。
吊り革を持ちながら、窓の外の夜景を眺めた。
明日の弁当に、何か返事が来るだろうか。
また「✕」かもしれない。
いや、今度は別の海苔文字かもしれない。
なぜかそれを、達也は少し楽しみにしていた。
自分でもよくわからない感覚だったが、楽しみにしていた。
五百円のランチより、海苔文字付きの弁当の方が、昼が待ち遠しい。
そういうことに、今日初めて気づいた。
四十六歳の中間管理職が、妻の海苔文字を楽しみにしている。
われながら、なかなかかわいいもんだな、と達也は思った。
電車は夜の街をすり抜けて、家のある駅へ向かっていた。
帰宅したのは、夜の八時過ぎだった。
玄関のドアを開けると、台所から夕飯の匂いがした。
煮物か何かの、醤油と出汁が混ざった匂い。
一日働いてクタクタになって帰ってきたとき、この匂いがある家というのは、なんだかんだありがたいな、と達也は思った。
口に出したことはないが。
「ただいま」
「おかえり」
短い。
でも返ってきた。
達也は鞄を置いて、スーツの上着を脱ぎながら、ダイニングテーブルに弁当箱をそっと置いた。
蓋の上に、昼に書いた付箋が貼ってある。
美由紀が台所から出てきて、テーブルの上の弁当箱を無言で取り上げた。
付箋を見た。
付箋には、こう書いてある。
「抜群でした」
美由紀は一秒、二秒、三秒——付箋を見つめた。
「……は?」
低い声が出た。
達也は既にソファに座ってテレビをつけていたので、その「は?」は聞こえなかった。
聞こえていたとしても、意味を把握できたかどうかは怪しいが。
美由紀は付箋を持ったまま、台所に戻った。
「抜群でした」。
弁当箱を流しに置いて、付箋をもう一度見た。
字は達也のものだ。
ミミズがのたくったような、昔から変わらない字。
これは何の意味だ。
嫌がらせに「✕」を入れたのに、「抜群でした」と返ってくるとは。
美由紀の頭の中で、何かの計算式が完成しそうになって、でも最後の一桁が合わなかった。
ゴミ箱に捨てればいい。
捨てればいいのに、なんか捨てられなかった。
美由紀はため息をついて、付箋を冷蔵庫の扉の「みずかけ禁止!!」の隣に貼った。
なぜそこに貼ったのかは、自分でもよくわからなかった。
その夜、達也は布団の中でぼんやりと天井を見た。
明後日の締め切り。
鬼塚の「使えないものを持ってくるな」。
プロジェクトの資料は半分しか揃っていない。
でも今日、弁当が抜群だった。
それだけは確かだ。
達也は目を閉じた。
明日の弁当は何色だろう、とぼんやり思った。
何色か、という感覚で弁当のことを考えたのは、多分初めてだった。
気づいたら眠っていた。
翌朝、達也はいつもより五分早く起きた。
理由は自分でもよくわからない。
目が覚めたら五分早かった。
それだけのことだ。
でも結果として、洗面台に立つ時間に少しゆとりができた。
鏡を見た。
昨日と同じ疲れた顔。
白髪も昨日と同じ。
でも今日はなんとなく、「まあいいか」という気持ちになった。
食卓に行くと、美由紀はもう台所に立っていた。
「おはよう」と言った。
美由紀は少し間を置いて、「おはよう」と返した。
短いが、返ってきた。
昨日の朝より、確かに一度だけ多く言葉が交わされた。
達也は食卓に座って、弁当箱を見た。
今日の弁当箱はもう紙袋に入れてある。
中身はまだわからない。
わからないまま鞄に入れて、達也は「いってきます」と言った。
「いってらっしゃい」
今日は、返事があった。
達也は少しだけ足を止めて、それからドアを開けた。
返事があったことについて何かを言う言葉を持っていなかったし、言わなくていいとも思った。
ただ、鞄の中の弁当箱が、昨日より少し軽く感じた。
今日の海苔文字は、何だろう。
外はまだ少し寒かったが、空は晴れていた。
会社に着いて、デスクに鞄を置いたとき、佐藤が「おはようございます、桐島さん」と声をかけてきた。
「おう。おはよう」
「なんか今日、顔色いいですね」
「そうか?」
「いつもより三ミリくらい表情がやわらかいです」
三ミリ、という単位が妙にリアルで、達也は少し笑った。
佐藤は「あ、笑った。今日いい日になりますよ」と言って、自分のデスクに戻っていった。
三ミリか。
弁当一個で、人間は三ミリ変わるらしい。
達也はパソコンを立ち上げながら、「抜群」という言葉を胸の中で一度だけ反芻した。
今日も、弁当が楽しみだった。
ちなみに、佐藤が「三ミリ表情がやわらかい」と言った日の午後、鬼塚は「それで?」を二回しか言わなかった。
一回減った。
弁当の力は、思ったより広範囲に及ぶようだった。




