第1話 また唐揚げか、の朝
朝の台所というのは、その家庭の「現在地」がもっとも正直に出る場所だと、桐島美由紀は長年の経験から知っていた。
夫婦仲が良いときは、なんとなく鼻歌なんか出てくる。
出汁の香りがふわっと漂って、「あ、今日いい感じだな」と自分でわかる。
子どもたちが小さかった頃はもっとにぎやかで、大輔が「おかあさん、今日のお弁当なに?」と毎朝聞いてきた。
結衣はまだ離乳食で、離乳食をすりつぶしながら同時に達也の弁当を詰めるという、今思えばよく正気でやっていたと思う。
今は静かだ。
静かすぎるくらい静かな、平日の朝六時四十分。
美由紀はまな板の前に立ち、昨夜揚げておいた唐揚げを弁当箱に並べながら、奥歯の奥あたりで何かをじっと噛みしめていた。
「また唐揚げか」
今朝、達也はそう言った。
正確には、食卓に座るなり、朝刊を広げながら、ほとんど独り言のように、だ。
美由紀の方を見もせずに。
たった六文字。
されど六文字。
美由紀の中で何かが、ぷつ、と切れた。
ゴムがちぎれるような音がした。
いや、実際には音なんてしていないのだが、確かに切れた感触があった。
それはもう間違いなく切れた。
言っておくが、昨日の夕食も唐揚げだったのは本当のことだ。
美由紀だってわかっている。
でも昨日は大輔が「唐揚げ食べたい」と言ったからで、しかも夜に作るなら翌朝の弁当に回せばいいという主婦の合理的判断であり、つまりは家族のために一石二鳥を狙った結果であって、それの何が問題なのか。
「また唐揚げか」の何が問題かって? 全部だ。
まず「また」という言葉の選択が問題だ。
「また」は積み重ねを否定するときに使う言葉だ。
「また遅刻したの?」
「またお酒飲んだの?」——否定形と親和性が高い。
唐揚げをそんな文脈に置かないでほしい。
唐揚げは何も悪いことをしていない。
次に、朝刊を読みながら言ったことが問題だ。
食卓に運ばれた皿をちゃんと見てから言え。
せめて一秒くらい。
そして何より——昨日も唐揚げだったことに朝になってから気づいているということが、つまり昨夜の夕食のときにまったく美由紀の顔を見ていなかったということであり、つまり達也は夕食中も別のことを考えていたか、スマホを見ていたか、とにかく同じ食卓に座りながら美由紀の作った唐揚げをただ胃袋に押し込んでいただけだということで——
まあ、要するに、腹が立った。
美由紀はしばらく唐揚げを弁当箱に並べる手を止め、冷蔵庫のドアをぼんやり見つめた。
冷蔵庫の扉には、結衣が小学三年生のときに貼った「みずかけ禁止!!」というマグネットがいまだに残っている。
意味がよくわからないが、娘が真剣な顔をして書いたので誰も剥がせないまま七年が経過した。
その隣には、大輔が旅行先の修学旅行で買ってきた「別府温泉」の温泉マークのマグネット。
そしてその下には、スーパーのパート先のシフト表が挟んである。
ふつうの家の、ふつうの冷蔵庫の扉だ。
美由紀は一つため息をついて、また唐揚げを並べ始めた。
弁当箱はずいぶん使い込んでいる。
縁のあたりに細かい傷が入って、蓋の色も心なしか褪せてきた。
新婚のころに買ったやつ。
そろそろ新しいのにしてもいいんだけど、と思いながら何年も経っている。
唐揚げ。
ブロッコリーの塩茹で。
プチトマト二個。
ご飯。
完成したお弁当を見て、美由紀はもう一度考えた。
「また唐揚げか」。
うん、そうだね。また唐揚げだよ。で?
美由紀は弁当箱のご飯の上を見た。
白いご飯が、きれいに詰めてある。
十五年間、毎朝こうして詰めてきた。
三百六十五日かける十五年——計算するとおそろしい数字になるので途中でやめた。
美由紀は冷蔵庫を開けて、海苔のパックを取り出した。
料理用のはさみを引き出しから出す。
これは海苔専用のはさみで、美由紀が一人で決めた専用はさみだ。
別に特別なはさみというわけではないが、このはさみで海苔を切るのが美由紀の中で一つのルールになっている。
人間、くだらないこだわりが一つくらいあった方がいい。
海苔を折って、丁寧にはさみを入れる。
チョキ。
チョキ。
チョキチョキチョキ。
できあがったものを、白いご飯の上にそっと置いた。
真っ黒な「✕」。
美由紀はしばらく弁当箱を見つめた。
悪くない。
いや、かなりいい。
これで「また唐揚げか」と言った人間の昼飯は完成した。
「いってきます」
玄関でそう言う声が聞こえた。
美由紀は台所に立ったまま、何も言わなかった。
普段なら「いってらっしゃい」くらいは言う。
言わないこともあるが、まあ言う。
でも今日は言わなかった。
言いたくなかった、というよりは、言葉を一切使わずにこの感情を表明したかった。
達也の方を向きもせず、台所でフライパンを洗いながら黙っているのが、今の美由紀の精一杯の抵抗だ。
ドアが閉まる音。
静かになった。
美由紀はフライパンを洗い終えて、スポンジを洗い場に置いた。
窓の外は曇り空だった。
今日は雨が降るかもしれない、と思いながら、台所のシンクの縁を指でなぞった。
弁当はちゃんと持って出た。
当たり前だ。
作ったんだから持って出てもらわないと困る。
作ったものを持っていかれない怒りというのは、また別の種類の怒りを生む。
そこについては問題ない。
ただ。
中身を見たとき、达也は何を思うのだろう。
美由紀はふと、それが気になった。
気になったけど、気になったということ自体が少し悔しかったので、すぐに洗い物に戻った。
冷蔵庫を閉めようとしたとき、気づいた。
麦茶のパックが、ぽつんと残っている。
「あと一口」だ。
ちょうど一口か二口くらい残して、また冷蔵庫に戻してある。
美由紀の知る限り、これはずっとそうだ。
達也は麦茶を飲むとき、必ず最後の一口を残す。
なぜかは聞いたことがある。「次に開けたときにゼロだとがっかりするから」と達也は言った。
意味がわからない。
ゼロなら新しいのを作ればいいだけだ。
でも達也にとっては「ゼロだとがっかりする」らしい。
美由紀はそのパックをじっと見た。
十五年間、ずっとこうだ。
「また唐揚げか」と言う人間が、麦茶だけは一口残す。
なんか、めんどくさい人だな、とつくづく思った。
美由紀は冷蔵庫を閉めて、エプロンで手を拭いた。
今日はパートが午後からだ。
午前中に洗濯を回して、掃除機をかけて、買い物リストを作らないといけない。
大輔の塾の送迎が夜にある。結衣が「明日の体育でバドミントンやるから体育着出して」と昨夜言っていた気がする。
出したかどうか覚えていない。
あとで確認しよう。
やることは山ほどある。
怒っている暇なんて、本当はどこにもない。
それでも怒っているのだから、これはもう怒ることにしたのだ、と美由紀は思った。
自分で決めた。
誰に頼まれたわけでもなく。
せめて、弁当箱を開けたとき、少しびっくりしてくれたらそれでいい。
「✕」の意味を、ちゃんと考えてくれたらそれでいい。
あの人はきっと、何も考えない。
でも、考えてほしい。
朝の台所に、洗い物をする水音だけが響いていた。
外はまだ曇っている。
雨、降りそうだな、と美由紀はまた思った。
折り畳み傘、達也に持たせればよかった。
そう思って、すぐに「知らない」と思い直した。
「また唐揚げか」と言った人間の傘まで心配する義理はない。
——とはいえ、傘持ってないと帰りにびしょ濡れになるんだよな。
美由紀は三秒ほど悩んで、玄関の傘立てをそっと確認しに行った。
折り畳み傘が、ちゃんとなかった。
達也が持っていった。
なんだ、持ってたんじゃないか。
美由紀は台所に戻りながら、口をへの字にして、それでも少しだけ息をついた。
怒っているのは、本当のことだ。
でも、濡れてほしいわけじゃない。
それが、十五年続いた夫婦というものの、どうにもならない厄介さだった。
午前中、美由紀は洗濯機を二回まわした。
一回目はタオル類。
二回目はシャツと下着類。
達也のワイシャツが三枚あって、そのうち一枚の襟元に薄く汚れが残っていた。
洗濯前に部分洗いをしながら、美由紀はぼんやりと「この人のシャツの汚れ、何年落としてきたんだろう」と思った。
数えようとして、やめた。
数えると少し虚しくなる気がした。
洗濯物を干しながら、となりの家の庭が見えた。
三軒隣の川上さんのところは、犬を飼っている。
白い小型犬で、名前はポムといった。
ポムは今朝もウッドデッキの上に座って、鼻をひくひくさせていた。
「ポムちゃん、暇そうだね」
美由紀は独り言を言った。
ポムは何も答えなかった。
当たり前だ。
洗濯物を干し終えて台所に戻ると、冷蔵庫の扉に目が行った。
「みずかけ禁止!!」の隣に、今は何もない。
さっきまで麦茶パックのことを考えていたせいか、その空白がなんとなく目についた。
パートは午後一時からだ。
美由紀が勤めているのは、駅前のスーパー「フレッシュマート桜ヶ丘」。
週四日、主に惣菜コーナーを担当している。
揚げ物の油はねで腕が少し赤くなることもあるが、仕事自体は嫌いじゃない。
何より、家にいるより頭が空っぽになれる。
出勤前に、結衣の体育着を確認した。
洗濯済みのものが引き出しにちゃんとあった。
よかった。聞いておいて正解だった。
——正確には「聞いた気がする」だったが、まあ結果オーライだ。
玄関で靴を履きながら、美由紀はふと今朝の弁当箱を思い出した。
「✕」。
真っ黒な海苔の✕。
あれを見て、達也は今頃どう思っているだろう。
怒ったかな。
それとも無視したかな。
あるいは——何も気づかず全部食べたかな。
最後の可能性が一番ありそうで、一番腹が立った。
美由紀は玄関のドアを閉めて、鍵をかけた。
空は相変わらず曇っていたが、雨にはなっていなかった。
達也の折り畳み傘は、やっぱり持っていったんだな、とまた思った。
思いながら、自分の鞄に自分の折り畳み傘が入っているかどうかを確認した。
入っていた。
それだけで、少し気分がましになった。
怒っているのとは別のところで、今日も普通に生きている。
それが美由紀の、平日の午後の始まりだった。
パートから帰ってきたのは夕方の六時前だった。
玄関を入ると、子供たちはまだ帰っていなかった。
大輔は塾、結衣は部活か何かだろう。
夕方の家はしんとしている。
自分一人の足音だけが廊下に響く。
台所に立ち、夕飯の段取りを考えた。
冷蔵庫を開ける。
鶏肉、豆腐、ネギ、昨日の残りのほうれん草。
今日は鍋でも出すか、と思って、でも達也が帰るのが何時かわからないな、と気づいた。
ラインを送ろうか。
「今日何時に帰る?」
送ろうとして、やめた。
今日は送る気分じゃない。
今朝「また唐揚げか」と言った人間に、夕飯の時間を気にして連絡するのは、なんか悔しい。
理屈ではわかっている、こういう小さな意地の張り方が積み重なると後々めんどうなことになるということは。
でも今日だけは悔しかった。
美由紀は鶏肉を取り出しながら、今朝の弁当のことをまた少し考えた。
達也は弁当をちゃんと食べただろうか。「✕」を見て、何か思っただろうか。
……まあ、何も思わないだろうな。
そう結論づけて、まな板に鶏肉を置いた。
包丁を入れる。
トントン、トントン。
規則正しい音が台所に響く。
この音だけは、怒っていても変わらない。
鶏肉を切って、豆腐を切って、ネギを切る。
手が動く限り、台所は回る。
台所が回る限り、この家は動いている。
誰かに感謝されなくても、気づかれなくても、美由紀が台所に立っている限り、桐島家の夕飯は今日もできあがる。
それが誇りかどうかは、美由紀自身もよくわからない。
ただ、包丁の音だけは、今日も真っ直ぐだった。
七時を過ぎたころ、結衣が帰ってきた。
「ただいまー」とだけ言って、靴を脱ぐより先にスマホを見ながら自分の部屋に上がっていった。
中学二年生というのはそういうものだ、と美由紀はわかっている。
わかっているが、「手を洗ってから部屋に行きなさい」と声をかけずにはいられない。
「わかってるー」
「わかってるって言ってから部屋に入ってから洗ったためしがないけどね」
「お母さんうるさーい」
廊下の向こうで部屋のドアが閉まった。
美由紀は鍋をかき混ぜながら、小さく笑った。
笑ったことに自分で気づいて、少し驚いた。
今日は朝から怒っていたはずなのに、結衣の「お母さんうるさーい」で笑ってしまった。
怒りというのは、案外もろい。
どこかの隙間から、笑いが入り込んでくる。
それでも、明日の弁当のことは、もう決めていた。




