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第10話 親父がくれた、初めての肯定

 その週の木曜日、達也は廊下でミライとすれ違った。


「桐島部長、お疲れ様です」

「ああ、お疲れ」

 それだけで終わるはずだった。

 でもミライが少し足を止めた。

 何か言いたそうな顔で、でも言っていいか迷っているような顔で、達也を見た。

「どうした」

「あの……失礼かもしれないんですけど」

「いいから言え」

 ミライは少し背筋を伸ばした。

「部長、最近なんか変わりましたよね」

 達也は足を止めた。

「変わった?」

「なんか……怖くなくなった、というか。

 前は廊下で会うと緊張してたんですけど、最近はなんか話しかけやすいというか。同じ部長なのに、なんか違う気がして」

 ミライは言いながら「やっぱり失礼でしたか」と小さくなった。

「失礼じゃない」と達也は言った。

「前は怖かった、ということか」

「……はい。すみません」

「謝らなくていい。そういう上司だったんだろう」


 ミライはちょっと困った顔をした。

 否定するべきか肯定するべきかわからない顔。

「怖くなくなった、か」

 達也はその言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。

 自分では気づいていなかった変化を、二十二歳の後輩が見ていた。

「教えてくれてありがとう」

「え、あ、はい……」

 ミライが少し慌てながらお辞儀をして、廊下を戻っていった。

 達也はその背中を見送りながら、少し立ち止まった。

 変わった、と言われた。

 弁当箱の底の「ムリすんな」が、甘い卵焼きが、「美味かった」と言えるようになった朝々が——外から見ると、こういう形になっているらしい。

 達也は窓の外を見た。晴れていた。

 悪くないな、と思った。


 大輔が何かを言いたそうにしていることに、達也はずっと気づいていた。

 十月の終わりごろから、夕飯のときの大輔の様子が変だった。

 食べながら何度か口を開きかけて、閉じる。

 達也と目が合うと、少し逸らす。

 話しかけると答えるが、自分からは話さない。

 受験の話か、と思っていた。

 志望校がまだ決まっていないのか、あるいは決まっているけれど言いにくいのか。


 先日、土曜日に大輔の部屋をノックして「飯ちゃんと食えよ」と言ったあの日から、達也は意識的に待つようにしていた。

 結衣に「課題の分離」と言われた日から。

 大輔の話を聞く準備はできている。

 あとは大輔が口を開くのを待つだけ。

 でも、待つのは——苦手だった。

 何かをしてやりたくて、干渉したくて、正解を示してやりたくて——でもそれが達也の悪い癖だと、今はわかっている。

 だから待った。

 十一月の第二土曜日まで、待った。


 十月の中旬のある夜、達也は大輔が食卓でぼんやりしているのを見て、声をかけようとして、やめた。

 代わりに「お茶飲むか?」と聞いた。

 大輔は少し驚いた顔をして「……いい」と言った。

 それだけだった。

 でも達也は、それでよかったと思った。

 声をかけた、ということだけが大事だった。

 佐藤が言っていた。

「まだ届くと思ってるから怒る」。

 達也は今、逆のことをしている。

「まだ届くと思っているから、待っている」。

 黙って待つのは、干渉するより難しい。

 でも今の達也には、それができた。


 その夜は、家族四人で夕飯を食べた。

 美由紀が作ったのは、肉じゃがと白いご飯と味噌汁。

 シンプルな夕飯だが、肉じゃがの甘辛い匂いが食卓に広がっている。

 達也は昔からこの匂いが好きだ。

 家に帰ってきた、という匂いがする。

 結衣がいつも通り「お母さんうるさーい」と言ったのは夕飯前で、理由は「手洗いなんてした」だった。

 達也と美由紀の間で、一瞬だけ視線が交わった。

 笑うな、という視線ではなく、笑いをこらえた視線。

 ふたりでこらえた。


 夕飯中、大輔はいつもよりさらに口数が少なかった。

 肉じゃがを食べながら、どこか遠くを見ている。

 達也は黙って食べた。

 美由紀も、何も言わなかった。

 結衣だけが「肉じゃがの肉、多めじゃない? 嬉しい」と言って、場の空気を和らげていた。

 あの子はいつも、こういう役割を自然とやっている。


 食べ終えて、達也が「ごちそうさま」と言った。

 美由紀が皿を下げようとした。

 結衣が席を立った。

 そのとき、大輔が言った。

「ちょっと、待って」

 静かな声だった。

 全員が、止まった。


 大輔は正面を向いたまま、テーブルの木目を見ていた。

「……話したいことがある」

 誰も返事をしなかった。 

 聞いている、という沈黙だった。

 達也は箸をそっと置いた。

 美由紀は皿を持ったまま、そっと座り直した。

 結衣は立ちかけた体を戻して、椅子に座った。

 大輔は一度、深く息を吸った。


「俺、大学じゃなくて——料理の専門学校に行きたい」

 食卓に、静寂が落ちた。

 達也は大輔の横顔を見た。

 テーブルを見つめたまま、少し肩に力が入っている。

 言い切った、という緊張と、言えた、という解放が混ざっているような顔。

「ずっと言えなかった。お父さんが大学行けって言うと思って。それが怖くて」

 大輔は続けた。

「でも——料理が好きなのは本当で。調理師の免許も取りたくて。専門学校を調べたら、ちゃんとしたところがあって。授業料も、奨学金で……」

「大輔」

 達也は、大輔の言葉を遮った。

 大輔が顔を上げた。

 初めてこちらを見た。

 目が合った。


 達也は大輔の目を、まっすぐ見た。

 逃げずに、見た。

 どんな言葉が出てくるか、自分でも一秒前までわからなかった。

「大学の方が選択肢が広い」と言いそうな自分がいる。

「まだ高校生だから慎重に」と言いそうな自分もいる。

 でもその言葉たちを、達也は全部飲み込んだ。

 飲み込んで、代わりに出てきたのは——

「お前が自分で決めた道なら、俺は全力で応援する」

 大輔の目が、少し揺れた。

「失敗してもいい」

 達也は続けた。

 声は静かだった。

 でもぶれなかった。

「失敗したって、やり直せる。お前が料理を好きだという気持ちは、誰にも奪えない。それだけで、十分な理由だ」

「……」

「お前はお前のままで価値がある。専門学校に行こうが、大学に行こうが、そこは変わらない。俺はお前の父親だから、お前がどこに行っても、お前の味方だ」


 大輔は下を向いた。

 テーブルに、小さな丸い染みができた。

 大輔が泣いていた。

 声を出さずに、ただ涙が落ちた。

 達也はそれを見て、何も言わなかった。

 言わなくていいと思った。

 しばらく、誰も動かなかった。

 結衣がこっそりポケットからティッシュを出して、テーブルの上にそっと置いた。

 大輔がそれを取った。

「……ありがとう、親父」

 低い声だった。

 少し鼻が詰まっていた。

 でもちゃんと聞こえた。

「親父」と呼ばれたのは——いつ以来だろう。

 達也には思い出せなかった。

 ここ数年は「お父さん」か、あるいは何も呼ばれなかった。

「親父」は、何か遠い記憶の中にある呼ばれ方だ。

「ああ」と達也は言った。

 それだけだった。

 大輔が椅子を引いて、立ち上がった。

「……ちょっと、部屋に戻る」

「うん」

 大輔の足音が廊下を歩いて、階段を上って、部屋のドアが静かに閉まった。


 食卓に、達也と美由紀と結衣が残った。

 誰も、すぐには動かなかった。

 結衣がまず口を開いた。

「お父さん」

「ん」

「……よかった」

 それだけ言って、結衣は皿を持って台所に行った。

 流しで水の音がした。

 気を利かせたのか、それとも本当に片付けたかったのか——たぶん両方か。

 達也と美由紀だけが、食卓に残った。

 美由紀は肉じゃがの鍋の蓋を閉めながら、ちらりと達也を見た。

 目が合った。

 美由紀の目が、少し赤かった。

 泣いていたわけじゃないが、泣きそうになっていたのはわかった。

 達也も、わかっていた。

 目の奥が熱い。

「……言えたね」と美由紀が言った。

「言えた」と達也は言った。

「全力で応援する、って」

「言った」

「土曜日、大輔の部屋をノックしたとき——何を言ったの」

「……飯ちゃんと食えよ、って」

 美由紀が少し笑った。

 くっと、口の端だけで笑った。

「それでもよかったと思う」

「そうか」

「ノックしたことが大事だったんだから」

 達也は美由紀の言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 この人は——見ていた。

 ドアをノックしたことも、「飯ちゃんと食えよ」しか言えなかったことも、全部見ていた。

「美由紀」

「うん」

「……ありがとう」

 美由紀は少し間を置いた。

「何が」

「色々。弁当とか。胃薬とか。あと、待ってくれたこと」

 待ってくれたこと——美由紀が何を待っていたか、言葉にしなかった。

 でも達也には、わかっていた。

 美由紀も、わかっていると思った。

「……どういたしまして」

 美由紀は鍋を持って台所に戻った。

 達也はしばらく、食卓に一人で座っていた。

 空になった肉じゃがの器が、目の前にあった。

 甘辛い匂いが、まだ部屋に残っていた。


 美由紀がお茶を二つ、食卓に持ってきた。

「飲む?」

「もらう」

 二人でお茶を飲んだ。

 テレビはついていない。

 結衣の水仕事の音だけが台所から聞こえる。

「大輔、ずっと言いたそうだったよね」と美由紀が言った。

「ああ」

「私も気づいてた。でも聞けなかった」

「なんで」

「……あなたより先に聞いたら、なんか違う気がして」

 達也はお茶を一口飲んだ。

 美由紀が「あなたに聞かせたかった」という意味のことを、遠回しに言った。

「そうか」

「大輔ね、料理が好きだって、ずっと前から思ってた。お弁当の日に、自分からおかずを足してたりするの、見てたから」

「知らなかった」

「お父さんには言わなかったんでしょ。怒られると思って」

 達也はそれを聞いて、少し痛かった。

「そういう父親だったな」

「そういう父親だったけど——今日は違った」

 美由紀がそれだけ言って、お茶を飲んだ。


 九時過ぎ、達也は大輔の部屋をもう一度ノックした。

「入っていいか」

「……どうぞ」

 部屋を開けると、大輔は机に向かっていた。

 参考書ではなく、何かのパンフレットを広げている。

 料理の専門学校のものだろう。

 色とりどりの料理の写真が、ページから見える。

 達也は部屋に入らず、ドア口に立った。

「調べてたのか、ちゃんと」

「……ずっと。言えなかっただけで」

「そうか」

「怖かったんだ。お父さんに怒られると思って」

「そういう父親だったからな」

 大輔は少し黙った。

「……でも今日は、怒らなかった」

「怒る理由がない。お前が本気なら」

「本気だよ」

「わかった」

 達也はそれだけ言って、ドアを閉めようとした。

「父さん」

 振り返ると、大輔がこちらを向いていた。

「……専門学校、見学行くとき、一緒に来てくれる?」

 達也は少し驚いた。

 大輔から「一緒に来てくれ」と言われたのは——いつ以来だろう。

 遠足の付き添いを頼まれたのが小学校の低学年だったか。

「行く」

 即答した。

 大輔が少しだけ笑った。

 泣いた後の、少しだけ照れた顔で。

「……ありがとう」

 達也はドアを閉めた。

 廊下で一人になって、壁に手をついた。

 目の奥が、また熱かった。

 今夜は二回、熱くなった。


 夜、美由紀は台所で弁当箱を洗った。

 今日の達也のお弁当箱。

 蓋の裏に、付箋が貼ってあった。

「今日もよかった。ありがとう」。

 美由紀はその付箋を剥がして、冷蔵庫の扉に貼った。

「みずかけ禁止!!」

「抜群でした」

「今日は赤かった。明日は何色ですか」

「ムリした。でも食えた」

「今日もよかった。ありがとう」。

 付箋が五枚になった。

 美由紀はその並びを見た。


 最初の「抜群でした」を見たとき、美由紀は「なんなんだ」と思った。

 怒りをぶつけた相手に、ありがとうを返されたような、どこにも持っていけない感情だった。

 今は——その「抜群でした」が、一番愛しい気がする。

 あの鈍感さが、今の達也を作ったのかもしれない。

 怒りのバツを「抜群」と読める人間だから、ムリして食えたと書けて、今夜大輔に全肯定ができた。

 美由紀は弁当箱を伏せて、水気を切った。

 台所の窓の外、夜の空が少し明るかった。

 月が出ているのかもしれない。

 明日も、弁当を作る。

 甘い卵焼きを入れる。

 それだけのことが、今夜はとても大きく感じた。


 達也は廊下を歩きながら、今夜のことを反芻した。

「お前が自分で決めた道なら、俺は全力で応援する」——あの言葉は、どこから出てきたのだろう。

 準備していたわけじゃない。

 でも口をついて出た。

 弁当箱の底の「ムリすんな」が、あったからかもしれない。

 誰かに「ムリすんな」と言ってもらった人間は——誰かに「失敗してもいい」と言える。

 達也はリビングに戻って、ソファに座った。

 台所で美由紀が洗い物をしている音がする。

 水の音と、食器の音。

 毎晩聞いている音。

 でも今夜は少し違う音に聞こえた。

「美由紀」

「なに」

「……今夜の肉じゃが、美味かった」

 水の音が少し止まった。

「圧力鍋、もっと使えばよかった」と美由紀は言った。

「そうだな」

「面倒くさくて、しまってたんだよね」

「出してくれてよかった」


 水の音が再開した。

 達也はソファに背中を預けて、天井を見た。

 今夜の食卓に、四人がいた。

 大輔が泣いた。

 結衣がティッシュを置いた。

 美由紀が目を赤くした。

 達也も、目が熱かった。

 全員がそれぞれの場所で、ちゃんとここにいた。

 それだけのことが、今夜はとても大きかった。

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