第11話 明日は、甘い卵焼きの日
達也が「明日、大事なプレゼンがある」と言ったのは、その前日の夜だった。
夕飯の最中だった。
達也がめずらしく自分から話した。
「先月失敗したやつの、リベンジだ。今回は通す」
それだけ言って、ご飯を食べた。
美由紀は「そう」と言った。
他に言葉が出なかった。
「がんばって」と言いかけて、なんか違う気がしてやめた。
「うまくいくといいね」も、少し軽い気がした。
達也は夕飯を食べ終えて、「早めに寝る」と言ってリビングに消えた。
子供たちもそれぞれの部屋に引き上げて、台所に美由紀一人が残った。
食器を洗いながら、明日の弁当のことを考えた。
大事なプレゼンの前日——だから何かを変えるべきか、それともいつも通りの方がいいのか。
美由紀は食器を伏せて、少し考えた。
いつも通り、じゃない気がした。
今夜は、何かを仕込む夜だ。
リビングの時計の音だけが聞こえる。
チク、タク、チク、タク。
美由紀はエプロンをつけながら、今日一日のことを振り返った。
大輔が専門学校の見学の予約を入れた話を夕飯の前に報告してきた。
達也が「俺も行く」と即答した。
大輔が少し照れた顔をした。
あの顔は、小学生のころの大輔に似ていた。
それとは別に——達也が「明日、大事なプレゼンがある」と言った。
先月失敗したやつのリベンジ。
美由紀は達也がどんなプロジェクトを抱えているか、詳しくは知らない。
聞いたことがない。
達也も話さなかった。
でも胃薬の空き殻が三枚、ポケットに入っていたことは知っている。
帰りが遅い日が続いていたことも知っている。
「代わりはいくらでもいる」と言われたことも——達也が「そういうことを言う人がいる」と一度だけこぼしたから、知っている。
外でボロボロになって帰ってくる人間が、明日また、大事なプレゼンに行く。
美由紀にできることは、弁当を作ることだけ。
それだけだ。でも——今夜は、それをちゃんとやろうと思った。
子供たちが寝静まって、達也の寝息も聞こえ始めた深夜、美由紀は台所に戻った。
時計は十一時を回っていた。
冷蔵庫を開ける。
鶏肉がある。
唐揚げにしよう。
鶏肉を取り出して、醤油とみりんと生姜で下味をつける。
一晩漬け込めば、明日の朝に揚げるだけでいい。
ジップロックに入れて、冷蔵庫に戻した。
次は卵。
卵を三個、取り出した。
ボウルに割り入れる。
菜箸でほぐす。
出汁を加える。
ここまでは、いつも通りの「だし巻き卵」の手順だ。
美由紀は砂糖入れを見た。
手を伸ばした。
今度は、止まらなかった。
砂糖入れを手に持ったまま、美由紀は少し止まった。
いつかの夜、砂糖入れに手を伸ばして、止まった夜のことを思い出した。
あのときは「まだだ」と思った。
まだ、これじゃない、と思って手を引いた。
あれから何週間が経っただろう。
大輔が「料理の専門学校に行きたい」と言った夜。
達也が「全力で応援する」と言った夜があった。
「親父」と呼ばれた声が、食卓に落ちた夜があった。
あの夜から、何かが変わった。
美由紀の中の「まだ」が、「もう」になった。
砂糖を入れた。
スプーン一杯。
たったそれだけのことが、今夜は少しも重くなかった。
砂糖をスプーン一杯、卵液に加えた。
混ぜる。
一口、なめてみる。
甘い。
久しぶりの甘さ。
何年ぶりだろう——正確には覚えていない。
気づいたらだし巻き卵になっていた。
砂糖を入れることをやめた記憶がない。
でも気づいたら、入れなくなっていた。
記憶をたどると——大輔が「甘くないのが好き」と言ったのがきっかけだったかもしれない。
小学校の中学年のころだったか。
それに合わせて、だし巻き卵に変えた。
そうしたら、達也は何も言わなかった。
「甘い卵焼きがよかった」とも言わなかった。
だから美由紀も、変えたことを気にしなかった。
でも——
美由紀はもう一度、卵液をなめた。
甘い。
この甘さを、達也は好きだと言っていた。
付き合っていたころ、二人でどこかの定食屋に入ったとき、達也が卵焼きを食べながら「甘い方が好きなんだよな、俺」と言った。
何気ない一言だった。
でも美由紀は覚えている。
覚えていたから、結婚してすぐに甘い卵焼きを作った。
達也が「美味い」と言った。
それが嬉しかった。
何年分の記憶だろう。
二十年近く前の話。
その記憶が、今夜の台所で、砂糖一杯分の甘さとともに戻ってきた。
フライパンを火にかけた。
油をひいて、温度を確認する。卵液を少し垂らして、じゅっと音がすればいい。
じゅっ、とした。
卵液を流し込む。
端から菜箸でかき混ぜて、半熟になったら手前から巻いていく。
くるくる、くるくる。
巻きながら、美由紀はかおりのことを思った。
「弁当を作り続けてる間は、まだ諦めてないってことよ」。
あのとき美由紀は「そういう話じゃない」と言った。
でも今思えば——そういう話だったかもしれない。
嫌がらせのつもりで作り続けた弁当が、いつの間にか「諦めていない」という証明になっていた。
「✕」も、ミニトマト十二個も、「ムリすんな」の海苔文字も——全部、まだ届こうとしていた。
そして今夜の甘い卵焼きは——届いた、ということの証。
美由紀は卵焼きをそっと器に移した。
湯気が、細く立った。
巻くたびに、甘い匂いが台所に広がった。
深夜の台所に、甘い卵焼きの匂いが満ちる。
美由紀は巻きながら、不思議な感覚に包まれていた。
懐かしい、とも違う。
戻ってきた、とも少し違う。
なんというか——繋がった、という感じだ。
二十年近く前の台所と、今夜の台所が、この卵焼きで繋がった。
あのころの自分が入れた砂糖と、今夜入れた砂糖が、同じ卵焼きになった。
出来上がった卵焼きを、玉子焼き器から取り出してラップで巻いた。
冷めてから弁当箱に入れる。
冷めるまでの間、まな板の上に置いて、少し見た。
きれいに巻けた。
表面につやがある。
断面を切ったら、きっときれいな黄色だ。
「美味そう」と、誰に言うでもなく、つぶやいた。
唐揚げの下味は完了した。
卵焼きは冷ましてある。
あとは朝に仕上げるだけだ。
美由紀は台所の椅子に座って、お茶を一杯淹れた。
夜中に一人でお茶を飲む。
こういう時間が、美由紀は嫌いではない。
静かで、誰にも邪魔されなくて、自分だけの時間。
冷蔵庫の扉を見た。
付箋が五枚、並んでいる。
「みずかけ禁止!!」
「抜群でした」
「今日は赤かった。明日は何色ですか」
「ムリした。でも食えた」
「今日もよかった。ありがとう」。
最初の「✕」から始まって、ここまで来た。
嫌がらせのつもりだった。
怒りをぶつけるつもりだった。
でも——ぶつけながら、何かが変わっていった。
達也も変わったし、自分も変わった。
子供たちも何かを見ていた。
弁当箱を一つ、仕込み続けることが——こんなに多くのものを動かすとは、思っていなかった。
美由紀はお茶を飲みながら、明日の朝を思った。
六時に起きる。
唐揚げを揚げる。
ブロッコリーを茹でる。
冷えた卵焼きを切って、弁当箱に並べる。
いつも通りの手順。
でも明日は、いつも通りじゃない。
甘い卵焼きが入る。
付箋もなし。
海苔文字もなし。
ただ、甘い卵焼きだけが——達也への返事。
言葉にしなくていい。
弁当箱を開けたとき、達也がわかればいい。
わかってくれるかな、と思って——わかる、と思った。
あの人は「✕を抜群と読む」人間だが、「甘い卵焼き」の意味はわかる。
わかるはず。
二十年近く前に「甘い方が好き」と言っていた人間なのだから。
お茶を飲み終えて、美由紀は台所を片付けた。
まな板を洗う。
菜箸を洗う。
玉子焼き器を洗う。
フライパンを洗う。
全部洗って、全部伏せた。
電気を消す前に、もう一度冷蔵庫の扉を見た。
付箋の列。
そしてその付箋たちの上に、「みずかけ禁止!!」があって、「別府温泉」があって。
この扉は、桐島家の歴史だ、と美由紀は思った。
剥がせなかったものが、全部ここにある。
寝室に戻ると、達也が眠っていた。
枕に顔を向けて、静かな寝息を立てている。
明日大事なプレゼンがある人間の寝方ではない——いや、疲れているから眠れているのか。
それとも覚悟が決まっているから眠れているのか。
美由紀はしばらく、その寝顔を見た。
達也の頬に、少しシーツの跡がついていた。
働き盛りの男の、疲れた寝顔。
でも美由紀にはそれが——悪くなかった。
疲れているということは、生きているということだ。
働いているということだ。
毎朝起きて、電車に乗って、「それで?」と三回言う上司に耐えて、帰ってきている。
「ムリした。でも食えた」と書いた人間が、今夜ここに眠っている。
美由紀は、そっと布団を直した。
達也の肩が少し出ていたから、かけ直した。
それだけのことだ。でも、した。
プロポーズのとき、緊張していなかった達也のことを思い出した。
「一緒に生きていこう」とあのミミズ字で書いた、あの顔。
自信満々で、背筋が伸びていて、世界をまだ信じていた顔。
今の顔は違う。
疲れているし、白髪もある。
目の下にクマがある日もある。
でも——今夜の寝顔は、あのころに少し似ている気がする。
何かを決めた人間の、静かな顔。
美由紀は布団に入った。
「おやすみ」とは言わなかった。
眠っているから。
でも心の中で、言った。
おやすみ。
明日、甘い卵焼きを入れる。
だから——うまくいくかどうかは関係ない。
行ってきなさい。
翌朝、美由紀は六時に起きた。
台所に立って、唐揚げを揚げた。
ブロッコリーを茹でた。
プチトマトを洗った。
そして、昨夜冷ましておいた卵焼きを、包丁で切った。
断面が現れた。
きれいな黄色だった。
均一に、むらなく、きれいに仕上がっている。
美由紀はその断面を少し見てから、弁当箱に並べた。
唐揚げ。
ブロッコリー。
プチトマト。
そして——甘い卵焼き。
付箋は貼らない。
海苔文字も入れない。
何も書かない。
何も隠さない。
ただ、甘い。
それだけが、今日の美由紀の言葉だ。
蓋を閉める。
弁当箱をテーブルに置く。
達也が食卓に来るのを待ちながら、美由紀は味噌汁をよそった。
朝の台所に、出汁の匂いが漂った。
甘い卵焼きの匂いと、出汁の匂いが、混ざった。
今日の朝が、少しだけ特別だった。
「おはよう」
達也が来た。
いつも通りの時間に、いつも通りの寝ぐせで。
「おはよう」と美由紀は返した。
達也が食卓に座った。
味噌汁を飲んだ。
ご飯を食べた。
弁当箱を手に取ったとき、少し重そうにした。
いつもより重いかどうかは、美由紀にはわからない。
でも達也が一瞬、弁当箱を見た。
「今日は、ちゃんと食べて」
美由紀は言った。
達也がこちらを見た。
「……ああ」
「緊張しても、食べたら落ち着く」
「知ってる」
「知ってても言いたいから言ってる」
達也は少し笑った。
くっと、口の端だけで。
「わかった。ちゃんと食べる」
「うん」
それだけだった。
達也は「いってきます」と言って、弁当箱を鞄に入れて、玄関を出た。
美由紀は「いってらっしゃい」と言った。
ドアが閉まった。
台所に戻って、一人になって、美由紀は深呼吸をした。
行った。
甘い卵焼きを持って、行った。
あとは——達也がどんな一日を過ごすかは、達也の課題。
結衣風に言うなら。
美由紀の課題は、今夜、達也が帰ってくる場所を作っておくことだけ。
温かいご飯と、台所の電気をつけておくこと。
それだけ。
それだけが、今日の美由紀にできることの全部。
美由紀は台所をもう一度見渡した。
弁当箱のおかずがラップに包まれて冷蔵庫の中で待っていた。
卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー。
朝に詰めるだけの状態で。
十七年間、こういう日常を何度繰り返しただろう。
前日に仕込んで、当日の朝に詰める。
その繰り返し。
誰も頼んでいないのに、誰にも気づかれないのに、それでも続けてきた。
美由紀は自分のことを「すごい」とは思わない。
ただ、続けてきた。
それだけ。
でも——続けてきてよかった、と思った。
「✕」から始まって、甘い卵焼きまで来た。
遠回りだったけれど。
遠回りだったから、ここに来られた気もする。




