表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/15

第12話 鬼塚の罠と、佐藤の一言

 プレゼン当日の朝は、甘い卵焼きから始まった。


 食卓に座ると、弁当箱がテーブルにあった。

 昨日と同じ場所に、昨日と同じように置いてある。

 達也は鞄に入れながら、少し重さを確かめた。

 今日のこれは——お守りだ、と思った。

 誰に言うつもりもないが、そう思った。


「今日は、ちゃんと食べてね」と美由紀が言った。

「ちゃんと食べる」と達也は言った。

 それだけだった。

 それだけで十分だった。

 玄関を出るとき、空が青かった。

 雲一つない、十一月の晴れだった。

 今日は——やれる、と達也は思った。

 根拠はなかった。

 でもそう思った。


 電車の中で、達也は目を閉じた。

 先月のプレゼンが失敗したとき、鬼塚に「準備不足だ」と言われた。

「お前の代わりはいくらでもいる」とも言われた。

 その言葉はあの日から、ずっと達也の中にある。

 完全には消えていない。

 でも今日は——その言葉が、いつもより遠い気がする。

 弁当箱の重さを、鞄の中で感じていた。

 唐揚げと、ブロッコリーと、プチトマトと、甘い卵焼きの重さ。

 美由紀が深夜に仕込んだものが、今朝ここにある。

 それだけのことが、今日の達也には十分だった。

 電車が駅に滑り込んだ。

 達也は立ち上がった。


 会社に着いて、最終確認をした。

 今回の提案資料は、先月の失敗を徹底的に分析して作り直した。

 予算の確認は三度やった。

 先方の担当者の過去の発言を洗い直した。

 佐藤と何度も読み合わせた。

「今回は完璧です」と佐藤が言った。

「完璧とは言えないが、ベストは出した」

「それで十分ですよ」

「鬼塚は何か言ってたか」

「今朝、廊下で会いましたけど——何も言わなかったです。いつもなら一言あるのに」

「それは良い兆候か悪い兆候かわからないな」

「どっちでもいいじゃないですか」と佐藤は言った。

「桐島さんの提案書ですから」

 達也はその言葉を聞いて、少し笑えた。

 三十二歳の後輩に、毎回こういうことを言ってもらっている。

 情けないようで、でも助かっている。

 プレゼンは午後二時。

 昼まで、あと二時間。


 十二時になった。

 達也は弁当箱を持って、廊下に出た。

 今日は公園に行く時間がない。

 会議室が昼に空いているはずだが、誰かいるかもしれない。

 結局、廊下の窓際に立って食べることにした。

 弁当箱を開けた。

 唐揚げ。ブロッコリー。プチトマト。

 そして——甘い卵焼き。

 昨日と同じ構成。

 美由紀は昨日と同じ弁当を作ってくれた。

「今日も」という気持ちが、この同じ構成に入っている気がする。

 唐揚げから食べた。

 美味かった。

 下味がしっかり入っている。

 衣がさくっとしている。

 これは前日から漬け込んだやつだ、と達也にはわかる。

 深夜に仕込んだのか、と思ったら——胸の奥が少し熱くなった。

 ブロッコリーを食べた。

 プチトマトを食べた。

 そのとき——

 廊下の向こうに、人影が見えた。


 鬼塚だった。

 自販機の前に立っていた。

 缶コーヒーを一本、手に持っている。

 ラベルをじっと見ている。

 飲まない。

 買ったのか、これから買うのかもわからない。

 ただ、立っている。

 達也はしばらく、その背中を見た。

 鬼塚龍一、五十八歳。

 身長百八十センチ、体重百キロ近い。

 眉間にシワ。

 低い声。

「使えないものを持ってくるな」

「お前の代わりはいくらでもいる」。

 達也が入社以来ずっと恐れてきた人間の背中。

 その背中が——小さく見えた。

 体の大きさの話ではない。肩の落ち方の話。

 美由紀の背中を、スーパーで見たときのことを思い出した。

 重いものを長い時間かけて肩に乗せてきた人の背中——あのときと同じ落ち方。


 鬼塚が缶コーヒーのラベルから目を上げた。

 達也と目が合った。

 一秒、二秒。

 鬼塚は何も言わなかった。

 缶コーヒーを自販機の上に置いて、踵を返した。

 廊下を歩いていった。

 その背中が、角を曲がって見えなくなった。

 達也はしばらく、鬼塚が消えた廊下の角を見ていた。

 飲まなかった缶コーヒーが、自販機の上に残っている。


 達也は自販機の上の缶コーヒーを、もう一度見た。

 買ったのか、買おうとしたのか。

 ラベルを見て、飲まずに立ち去った。

 缶コーヒーのラベルを見ながら何を考えていたのか、達也には想像しかできない。

 でも——缶コーヒーを手に持って、自販機の前で止まっていた背中は、達也には見覚えのある背中だ。

「今日もうまくいかない」と思いながら廊下を歩いていたころの、自分の背中だ。

 鬼塚がいつからそういう背中になったのか、達也は知らない。

 でも、なっている。

 確かに、なっている。


 あの人は、かつて仕事が好きだった。

 今は——何が好きなのだろう。

「桐島さん」

 佐藤が来た。

 コンビニの袋を持っている。

「鬼塚さん、いましたか」

「いた。何も言わずに行ってしまったが」

 佐藤はそれを聞いて、少し考えるような顔をした。

「……一つ、言っていいですか」

「なんだ」

「鬼塚さんって——若いころは、会社で一番仕事が好きだった人なんですよ」

 達也は箸を止めた。

「誰に聞いた」

「総務の田中さん。鬼塚さんの同期なんです。昔話を聞かせてもらったことがあって。二十代のころの鬼塚さんは、毎晩遅くまで残って、誰よりも提案書を書いた人だったって。クライアントに怒鳴られても笑ってたって」

「……笑ってた?」

「『仕事が面白くて仕方なかった』と本人が言ってたらしいです。昔は」

 達也は廊下の角を、もう一度見た。

 缶コーヒーが、まだ自販機の上にある。

 鬼塚が若かったころ——仕事が面白くて仕方なくて、毎晩遅くまで提案書を書いていた男が、今は缶コーヒーのラベルをじっと見て、飲まずに立ち去る。

 何があって、そうなったのか。

「桐島さんは——ならないでほしいなと思って」

 佐藤が静かに言った。

「それだけです」


 達也はしばらく、弁当箱を持ったまま立っていた。

 鬼塚がそうなった理由を、達也は知らない。

 役職定年の話か、誰かとの軋轢か、あるいはただ疲れ果てたのか。

 それはわからない。

 でも——「こうはなりたくない」とは思った。

 同時に「こうなれた可能性が、俺にもあった」とも思った。

「また唐揚げか」と言い続けていた自分。

 弁当箱を当たり前に受け取り続けていた自分。

 大輔に「ちゃんと勉強してるのか」と圧をかけ続けていた自分。

 あの自分が続いていたら、今ごろ廊下で缶コーヒーのラベルをじっと見ていたかもしれない。

 美由紀の「✕」が、なければ。

「抜群でした」という誤読が、なければ。

 ミニトマト十二個が、なければ。

「ムリしないで」の文字が、なければ。

 今日の甘い卵焼きが、なければ。


 達也は卵焼きを箸でつまんだ。

 口に入れた。

 甘かった。

 この甘さが——今日、会議室のドアを押す理由になる。

 不完全でいい。

 ベストを出すだけ。

 達也は弁当箱の蓋を閉めた。

 廊下の時計が、午後一時を示していた。

 あと一時間。


 会議室への廊下を歩きながら、達也は今日の提案書を頭の中で反芻した。

 構成は完璧じゃない。

 先方の反応がどう出るかは、開けてみないとわからない。

 でも——ベストは出したつもりだ。

 佐藤と何度も読んだ。

 数字は確認した。

 先方の担当者の言葉を丁寧に拾った。

 不完全でいい。

 ベストを出すだけだ。

 そう腹をくくったとき——鬼塚が来た。

 プレゼンの開始三十分前、鬼塚が達也のデスクに来た。


「桐島」

「はい」

「今日の提案、俺の名前を先に出せ」

 達也は鬼塚を見た。

「……どういう意味ですか」

「提案者の欄だ。俺が上、お前が下。クライアントへの印象が違う」

 これが——罠だ。

 達也は瞬時に理解した。

 提案者の欄に鬼塚を先に出せば、もし通ったとき、「鬼塚部長の提案」として社内に記録される。

 先月失敗したリベンジが、達也の手から離れる。

「……先月も今月も、提案書は私が作りました」

 達也は静かに言った。

 声が、思ったより落ち着いていた。

「クライアントへの印象を考えるなら、担当者の名前が前に出る方が誠実だと思います。何かあったとき、責任の所在が明確になりますから」

 鬼塚の眉間のシワが、少し深くなった。

「お前、逆らうのか」

「逆らっているわけじゃないです。ただ、今日の提案は私が作りました。それだけです」

 沈黙が落ちた。

 五秒。十秒。

 鬼塚が、ふっと息を抜いた。

「……好きにしろ」

 それだけ言って、鬼塚は自分のデスクに戻った。

 達也は背筋に汗をかいていた。

 膝が少し震えていた。

 でも——声は震えなかった。


 佐藤が隣のデスクから、小声で言った。

「見てました」

「そうか」

「かっこよかったです」

「膝が震えてたけどな」

「それでいいんですよ」と佐藤は言った。

「震えてても、声が出たんですから」

 達也は資料を持ち直した。

 震えていても声が出た。


 弁当箱の底に「ムリしないで」と書いてくれた人がいる。

 甘い卵焼きを入れてくれた人がいる。

「専門学校に行きたい」と言った息子に「全力で応援する」と言えた自分がいる。

 不完全でいい。

 今日のベストを出すだけ。

 達也は立ち上がった。

「行くぞ、佐藤」

「はい」

 二人で会議室に向かった。

 廊下を歩きながら、ポケットに手を入れた。

 胃薬はなかった。

 今日は、飲まずに来た。


 二時間後、プレゼンは——終わった。

 結果は、まだわからない。

 先方の担当者は「前向きに検討します」と言った。

 鬼塚は何も言わなかった。

 佐藤は会議室を出てすぐ、「手応えありましたよ」と小声で言った。

 達也は廊下で一人になってから、深く息をついた。

 うまくいったかどうかは——今夜わかるか、来週わかるか、あるいは何も言われないかもしれない。

 でも今日の自分は、震えながらも声を出した。

 鬼塚の罠を、静かにかわした。

 甘い卵焼きを食べてから、会議室のドアを押した。

 それだけのことが、今日の達也には十分だった。

 ポケットに手を入れた。

 胃薬はなかった。

 今日は、最後まで飲まなかった。


 デスクに戻りながら、达也は鬼塚の席をちらりと見た。

 鬼塚は自分のパソコンに向かっていた。

 いつも通りの、眉間にシワが寄った顔だ。

 若いころは会社で一番仕事が好きだった、と佐藤が言った。

 今も——あの缶コーヒーのシーンを見る限り、何かを思っているはずだ。

 でもそれが表に出ない。

 出せなくなってしまったのか、出さないことにしたのか。

 達也には、わからない。

 ただ——あの人がそうなった道を、自分は歩かなくていい。

 弁当箱の底に「ムリしないで」と書いてくれた人がいる限り、甘い卵焼きを待ってくれる台所がある限り、達也はまだ違う道を歩ける。

 そう思えることが——今日は、力になった。


 夕方、佐藤が「お疲れ様でした」と言いながらデスクに来た。

「先方から連絡、来ましたよ」

 达也は顔を上げた。

「追加の質問事項を送ってきたそうです。前向きに検討している証拠だと思います」

 達也はしばらく、それを聞いた。

 追加の質問。

 前向きな検討。

 まだ結果は出ていない。でも——扉は、開いている。

「佐藤」

「はい」

「今日、ありがとう」

「缶コーヒーのことですか、鬼塚さんの話のことですか」

「全部だ」

 佐藤は少し照れた顔をして、「どういたしまして」と言った。

「あと、桐島さん」

「なんだ」

「今日、胃薬飲んでましたか?」

「……飲まなかった」

「それが一番の成果かもしれないですよ」

 佐藤はそう言って、自分のデスクに戻った。


 窓の外を見た。

 夕方の空が、橙色になっていた。

 今日の一日が、ちゃんとここにある。

 帰ろう。

 甘い卵焼きを入れてくれた人のいる家に。

 帰り道の電車で、達也は吊り革を持ちながら今日を振り返った。

 鬼塚の罠。

 震えた膝。

 でも出た声。

 佐藤の「かっこよかったです」。

 缶コーヒーのラベルを見ていた背中。

「かつて仕事が好きだった男」の、今の背中。

 自分は——まだ好きだ。

 仕事が、という意味ではない。

 帰る場所が、まだある。

 弁当箱を待っている台所がある。

「ムリしないで」と書いてくれる人がいる。

 甘い卵焼きを入れてくれる人がいる。

「全力で応援する」と言えた息子がいる。

「課題の分離ができてないよ」と言う娘がいる。

 全部ひっくるめて——まだ好きだ。

 この場所が。


 電車が駅に着いた。

 達也はドアを出て、改札を抜けて、商店街を歩いた。

 家の明かりが、遠くに見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ