第13話 世界で一番美味い、茶色い弁当
午前中、達也はデスクで資料の最終確認をした。
三回読んだ。
数字を確かめた。
佐藤と想定問答を交わした。
「今日のベストです」と佐藤は言った。
「ベストを出すだけだ」と達也は言った。
鬼塚は午前中、達也に何も言わなかった。
昨日、罠をかわされた後から、ほとんど視線を合わせていない。
怒っているのか、あきらめたのか——達也にはわからない。
でも今日はそれでいい。
鬼塚のことを考える前に、先方のことを考える。
十二時になった。
「食べてきます」と達也は言って、席を立った。
プレゼンは、午後二時からだ。
会議室に向かうまで、あと三十分。
達也は昨日と同じ廊下の窓際に立っていた。
昨日と同じ場所に立って、昨日と同じように弁当箱を開けた。
今日の弁当も、昨日と同じだった。
唐揚げ。ブロッコリー。プチトマト。甘い卵焼き。
三日連続で同じ構成。
美由紀がそうしているのか、たまたまそうなっているのか、達也は聞いていない。
聞かなくていい。
ただ、三日続いているということは——三日間、美由紀が「今日もこれでいい」と思いながら作ってくれた、ということだ。
達也はそれだけで十分だった。
昨日のプレゼンの手応えは、悪くなかった。
先方からの追加質問も来た。
結果はまだわからない。
でも今日、もう一度先方と顔を合わせる。
昨日より一歩、踏み込んだ話ができるはず。
唐揚げを箸でつまんだ。
達也には、弁当を立ったまま食べる習慣がある。
正確には習慣というより——そうなってしまう、だ。
昼に外のベンチに行けないとき、会議室が空いていないとき、自然と廊下の窓際に立って食べている。
佐藤にそれを言ったら「貧乏くさいですよ」と言われた。
でも達也は、窓の外を見ながら立って食べるのが嫌いではない。
座って食べると、仕事の続きを考えてしまう。
立っていると、少しだけ頭が空になる。
今日は空にならなかった。
プレゼンのことが、頭の中をぐるぐるしている。
昨日の先方の反応。
追加質問の内容。
今日確認すべきポイント。
鬼塚が今日何を言うか。
佐藤が隣にいてくれること。
唐揚げを食べながら、達也はそれを全部受け止めた。
受け止めて、飲み込んだ。
美味かった。
昨日と同じ唐揚げなのに、今日も美味かった。
下味がしっかり入っている。
衣がさくっとしている。
一口食べると、じわっと旨みが広がる。
これは前日から漬け込んだやつだ。
深夜に仕込んで、朝に揚げた唐揚げだ。
三日連続で前日仕込みの唐揚げを食べながら、達也は思った。
美由紀は——毎晩仕込んでいる。
プレゼンがある、と言ったあの夜から。
窓の外は、晴れていた。
昨日も晴れていた。
一昨日も晴れていた。
三日間、同じように晴れた午後に、同じ廊下の窓際に立って、同じ弁当を食べている。
人生には、こういう時間がある、と達也は思った。
何かの前の、静かな三日間。
変わろうとしているか、変わりたくないのか自分でもわからないまま、それでも毎朝弁当を持って出てきた日々。
あの「また唐揚げか」から始まって——ここまで来た。
どれくらいの時間が経ったのか、達也は正確には覚えていない。
秋が深まったのはわかる。
最初に✕の弁当を受け取ったのは、まだ暑さが残るころだった。
今はもうコートが必要な気温だ。
人は、弁当箱一つ分の時間で、ここまで変われるのか。
变わったのは達也だけじゃないかもしれない。
でも今日の達也には、自分のことしかわからない。
ブロッコリーを食べた。
プチトマトを食べた。
ご飯を食べた。
弁当箱の中が、少しずつ空になっていく。
残るのは——甘い卵焼きだけ。
達也は、それを最後に取っておく習慣がある。
意識してそうしているわけではない。
好きなものを最後に食べる——子供みたいだが、そうなってしまう。
達也は箸を持ったまま、甘い卵焼きを見た。
黄色い。きれいな黄色だ。
断面が均一で、むらがない。
丁寧に作られた、という形をしている。
口に入れた。
甘かった。
甘くて——
達也は、少し動けなくなった。
甘さが口の中に広がった瞬間、何かが来た。
感情ではない。記憶だ。
においと一緒にやってくる、ある種類の記憶。
新婚のころの台所。
朝の光が、白いカーテン越しに差し込んでいる。
美由紀がフライパンの前に立っている。
エプロンをつけている。
まだ新しいエプロンで、今のものより少し明るい色をしていた。
卵を割る音がした。
菜箸で混ぜる音がした。
甘い匂いが、台所に広がった。
達也は食卓に座って、朝刊を読んでいた。
いや——本当に読んでいたかどうかは怪しい。
美由紀が台所に立っている気配の方が、朝刊より気になっていた。
「できた」
美由紀が言った。
弁当箱が、テーブルに置かれた。
達也は蓋を開けた。
甘い卵焼きが入っていた。
「美味そう」と言った。
「食べてから言って」と美由紀が言った。
食べた。
甘かった。「美味い」と言った。
美由紀が少し照れた顔をした。
あのころの美由紀は、照れるとすぐ顔に出た。
今はもう少し隠すのが上手くなったが、あのころはすぐ出た。
今思えば——あのころが、一番よく見ていた。
新婚のころの朝は、よく晴れていた気がする。
台所が明るくて、美由紀の作る弁当が明るくて、達也自身も——あのころは、もう少し軽かった。
ただ——あのころも今も、同じ甘さの卵焼きがある。
それだけは、変わっていない。
美由紀が入れた砂糖の量が、変わっていない。
達也は廊下に立ったまま、そのことを思った。
達也は廊下に立ったまま、目の奥が熱くなった。
……甘い。
昔の卵焼きだ。
あのころと同じ甘さ。
砂糖の量も、卵の黄色も、断面の均一さも——全部、あのころと同じ。
何年分の時間が、今口の中にある。
十五年か、それ以上か。
「また唐揚げか」と言った朝があった。✕が入った弁当があった。ミニトマト十二個の血の池地獄があった。「ムリしないで」の文字があった。
「美味かった」とようやく言えた夜があった。
全部あって、今日の甘い卵焼きがある。
全部あったから、今日の甘い卵焼きがここまで甘い。
達也は一度、目を閉じた。
廊下の蛍光灯の光が、瞼の裏で赤くなった。
声は出なかった。
出さなかった。
でも——ぐっとこらえた。
ぐっと、こらえた。
達也は廊下の窓ガラスに少し額をつけた。
冷たかった。
十一月の窓ガラスは冷たい。
その冷たさが、目の奥の熱さと混ざって、少し落ち着いた。
窓の外の空が、青かった。
雲が一つ、ゆっくり流れていた。
今夜、何を書こうか、達也はまだ決めていなかった。
帰ってから考える。
今は——行くだけだ。
深呼吸を一つした。
弁当箱の蓋を閉めた。
空になった弁当箱の中を、一秒だけ見た。
きれいに空だ。全部食べた。
窓ガラスから額を離して、達也は空をもう一度見た。
青い空。
今日も晴れている。
美由紀が「ちゃんと食べて」と言った朝が、今日の昼につながっている。
あの朝の甘い卵焼きが、今口の中に残っている。
全部つながっている。
達也は弁当箱を鞄に戻した。
弁当箱をしまいながら、達也は今朝のことを思い出した。
美由紀が「ちゃんと食べてね」と言った。
「知ってても言いたいから言ってる」とも言った。
達也が変わったのか、
美由紀が変わったのか、両方が変わったのか。
たぶん、両方だ。
弁当箱を一つ、仕込み続けることで——両方が、少しずつ変わった。
「行くぞ」と達也はつぶやいた。
誰にも聞こえない声で。
廊下を歩き始めた。
会議室に向かう途中、鬼塚とすれ違った。
「桐島」
「はい」
「今日の先方、前向きだ。しっかりやれ」
「わかりました」
「……昨日の件は、忘れろ」
達也は少し止まった。
鬼塚は達也を見ていなかった。
前を向いたまま、それだけ言って歩いていった。
昨日の件、とは——提案者の欄の話。
罠をかわされた、あの場面。
それを「忘れろ」と言った。
詫びでも謝罪でもない。
ただ、忘れろ。
鬼塚らしい言い方だ、と達也は思った。
でも——言った。それだけは確かだ。
あの缶コーヒーのラベルを見つめていた背中が、今日の鬼塚の背中と重なった。
かつて仕事が好きだった男は——まだここにいる。
形は変わっても、まだいる。
達也は会議室のドアの前で、もう一度だけ弁当箱のことを思った。
世界で一番美味い弁当というのは、どんなものだろう。
高い食材で作られたものか。
有名なシェフが作ったものか。
達也には今日、その答えがわかった気がした。
深夜に台所に立って仕込んで、朝に揚げて詰めた唐揚げ。
誰かの帰りを待ちながら作った弁当。
怒りから始まって、甘さに辿り着いた十七年分の弁当箱。
茶色い弁当。
唐揚げとブロッコリーと卵焼きの、地味な茶色い弁当。
でも今日の達也には——世界で一番美味かった。
それだけは確かだ。
佐藤が後ろから追いついてきた。
「桐島さん、準備いいですか」
「ああ」
「顔色、今日はいいですよ」
「三ミリか」
「五ミリはあります」
達也は少しだけ笑えた。
ポケットに手を入れた。
胃薬はない。
三日間、飲まなかった。
ドアを押す前に、達也は一秒だけ目を閉じた。
甘い卵焼きの味が、まだ口の中にあった。
あのころと同じ甘さが。
二十年近く前の、新婚の台所の光が。
美由紀の、照れた顔が。
全部、今日の達也の中にある。
全部持って、達也はドアノブに手をかけた。
押した。
ドアが、開いた。
会議室の光が、廊下に差し込んできた。
先方の担当者が立ち上がった。
「お待ちしていました」
前向きな声だった。
プレゼンは——始まった。
達也は資料を開いて、先方の担当者と向き合った。
隣に佐藤がいた。
後ろに鬼塚がいた。
達也は話し始めた。
声は、震えなかった。
今日の達也の声は、甘い卵焼きと一緒に出てきた声だった。
廊下で目の奥を熱くしながら、それでもぐっとこらえた後の声だった。
弁当箱の底から始まった話を、今日ここで語り切る。
それだけのことを、今日の達也はやった。
達也は資料をめくりながら、ふと今朝の台所を思い出した。
美由紀がエプロンをつけたまま、「ちゃんと食べてね」と言った。
「知ってても言いたいから言ってる」。
あの人は今頃、どこにいるだろう。
パートか、家か。
どちらにしても、今夜達也が帰る場所がある。
台所の電気がついている。
それだけのことが、今この瞬間の達也の背中を、少しだけ伸ばしていた。




