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第14話 ただいま、空っぽの箱を抱えて

 その夜、美由紀はリビングで待っていた。


 テレビはつけていない。

 本も読んでいない。

 ただ、リビングのソファに座って、台所の時計の音を聞いていた。

 チク、タク、チク、タク。

 達也のプレゼンは今日だ。

 結果がどうなったか、美由紀には知る方法がない。

 達也からLINEは来ていない。

 いつも通り、何も言ってこない。

 でも——いつも通りじゃない夜だということは、美由紀にはわかっていた。


 子供たちはもう部屋に引き上げていた。

 大輔は明日も学校がある。

 結衣は「お父さん、今日どうだった?」とだけ言って、夕飯のあと自分の部屋に行った。

 あの子も気にしていた。

 リビングに一人。

 台所の電気だけが、ついている。


 美由紀は今日一日、落ち着かなかった。

 パートは午前のシフトだった。

 かおりに「今日旦那さんのプレゼンだって言ってたよね」と言われた。

「そう」

「緊張する?」

「……する」

「あなたが?」

「私が」

 かおりはそれを聞いて、少し微笑んだ。

「美由紀さん、旦那さんのこと好きじゃない」

「そういう話じゃない」

「そういう話だよ。緊張するってことは、うまくいってほしいってことでしょ」

 美由紀は返事をしなかった。

 唐揚げをパックに並べながら、視線を落とした。


 うまくいってほしい。

 それは、本当のことだ。

 嫌がらせ弁当を作り始めたころには、考えもしなかった感情だ。

 あのころの美由紀は、達也の仕事がどうなるかより、「また唐揚げか」の文字の方が重かった。

 でも今は——うまくいってほしい。

 心から、そう思っている。


 午後、スーパーで買い物をした。

 今夜の夕飯の材料を買いながら、弁当箱のことを考えた。

 達也が今日、甘い卵焼きを食べているはずだ。

 廊下か、公園か、会議室か——どこかで、弁当箱を開けているはずだ。

 あの卵焼きは——うまく巻けた。

 断面がきれいで、黄色が均一で、砂糖の量もちょうどよかった。

 新婚のころに達也が「美味い」と言った、あの卵焼き。

 達也は気づくだろうか。

 ただの甘い卵焼きとして食べるか、それとも——何かを感じるか。

 美由紀には、どちらでもいい気がした。

 食べてくれれば、それでいい。

 美味いと思ってくれれば、十分。

 スーパーのカゴに、今夜の夕飯の材料を入れながら——美由紀は、ここまで来たな、と思った。

「どちらでもいい」と思えるようになった。

 それが、今の美由紀の場所だ。


 美由紀は冷蔵庫を開けた。

 麦茶を一口飲んだ。

 いつも一口残っているはずの麦茶パックが、今日はほぼ空だった。

 達也が朝に飲んでいったのだろう。

 プレゼンの前日、あるいは当日の朝——緊張していたのかもしれない。

 冷蔵庫の扉の付箋たちが目に入った。

「みずかけ禁止!!」

「抜群でした」

「今日は赤かった。明日は何色ですか」

「ムリした。でも食えた」

「今日もよかった。ありがとう」。

 今夜、もう一枚加わるかもしれない。

 加わらないかもしれない。

 どちらでも、美由紀には関係なかった。

 達也が帰ってくれば、それでいい。

 今夜は、それだけだ。


 九時を過ぎた。

 九時半になった。

 十時になった。

 達也はまだ帰ってこない。

 美由紀はソファの上で、膝を抱えた。

 寒くはない。

 でも、そういう姿勢になった。

 遅くなるのは、今に始まったことじゃない。

 残業は珍しくない。

 でも今日は——結果がどうだったか、その重さを達也一人が持って帰ってくる夜。

 うまくいっていれば、どんな顔で帰ってくるだろう。

 うまくいかなかったら、どんな顔で帰ってくるだろう。

 美由紀には、どちらの顔も想像できた。

 どちらの顔でも——今夜は、ちゃんと「おかえり」と言おうと思っていた。

 それだけが、今夜の美由紀の決意だった。


 待ちながら、美由紀は今日の弁当のことを考えた。

 甘い卵焼き、三日目。

 最初の日——達也が「甘い」と言った。

 次の日——何も言わなかったが、弁当箱は空だった。

 今日——也何も言わなかったが、やはり弁当箱は空になって帰ってくるはずだ。

 空になった弁当箱が帰ってくることが、美由紀には嬉しかった。

 嬉しい、という感情を自分に認めるのに、少し時間がかかった。

 嫌がらせ弁当を作っていたころの美由紀には、「嬉しい」はなかった。

 怒りと、意地と、それから少しの寂しさがあっただけ。

 それがいつの間にか「嬉しい」になっていた。

 かおりが言っていた。

「嫌がらせを続けてる間は、まだ諦めてない」。

 諦めなかったから、ここに来た。

 美由紀はソファの上で、少しだけ息をついた。


 玄関のドアが開いたのは、十時二十分だった。

 美由紀はソファから立ち上がった。

 靴を脱ぐ音がした。

 廊下を歩く音がした。

 達也が、リビングに入ってきた。

 スーツのままだ。

 ネクタイが少し緩んでいる。

 顔を見た。

 一秒で、わかった。

 疲れている。

 でも——達也の顔に、今夜はいつもと違う何かがあった。

 重さの種類が、違った。

 いつもの「消耗した重さ」ではなく——「使い切った重さ」だった。

 全部出し切った人間の、静かな顔だ。


 達也は何も言わなかった。

 鞄をソファの脇に置いた。

 そして——弁当箱を取り出した。

 両手で持って、美由紀に差し出した。

 言葉はなかった。

 ただ、弁当箱を、差し出した。

 美由紀は、それを受け取った。

 軽かった。

 空だった。

 完全に、空だった。

 蓋を開けると、何もない。

 唐揚げも、ブロッコリーも、プチトマトも、甘い卵焼きも——全部、なかった。

 きれいに、空だった。

 まるで、新品みたいに。

「……おかえり」

 美由紀は言った。

 声が、少し震えた。

 震えたことに、自分で気づいた。


「ただいま」

 達也が言った。

 それだけだった。

 美由紀は弁当箱を持ったまま、達也を見た。

 達也も美由紀を見た。

 しばらく、二人でそうしていた。

 何も言わなかった。

 言わなくていいと思った。

 言葉より先に、空っぽの弁当箱が全部を言っていた。

 全部食べた。

 今日のプレゼンに、全部持っていった。

 それだけのことが、この弁当箱の重さに入っていた。

 達也の顔を見た瞬間——美由紀の中で、何かが解けた気がした。

 硬く結んでいた糸が、ゆっくりほどけるような感じ。

「また唐揚げか」と言われた朝から、ずっと張っていた何かが。

 全部悪かったのは達也じゃない。

 美由紀にも、言えなかったことがあった。聞けなかったことがあった。

「弁当を作り続けること」でしか伝えられなかったことが、たくさんあった。

 でも——弁当箱は繋いでいた。

 嫌がらせのつもりが、繋いでいた。

「使い切った重さ」の顔で立っている達也と、空っぽの弁当箱。

 それを受け取ったとき、美由紀の中の何かが、ほどけた。

 美由紀は弁当箱を胸に抱えた。

 抱えながら、台所に向かった。


 達也が後ろから「飯、ある?」と言った。

「ある」と美由紀は言った。

「温める」

「……ありがとう」

 いつもより少し、低い声だった。

 疲れているのか、感謝しているのか——両方だろう、と美由紀は思った。


 レンジが回っている間、美由紀は弁当箱を洗った。

 いつも通りの作業だ。

 スポンジで洗って、水で流して、伏せる。

 でも今日は、洗いながら少し手が止まった。

 蓋の裏に、付箋が貼ってあった。

 美由紀は付箋を剥がした。

 達也の、ミミズがのたくったような字で、こう書いてある。

「生まれて一番美味かった」。

 美由紀は、その付箋を持ったまま、動けなかった。

「生まれて一番」。

 大げさだ。

 ふつうの唐揚げと、ふつうのブロッコリーと、ふつうのプチトマトと——甘い卵焼きが入っただけの、ふつうの茶色い弁当だ。

 それが「生まれて一番」。

 美由紀は深呼吸した。

 目の奥が、じわっとした。

 泣くな、と思った。

 台所で泣くな。

 レンジが鳴ったら飯を出さないといけない。

 でも——こらえながら、少し笑えた。

 この人は相変わらず、大げさだ。

「抜群でした」と書いた人間が、今度は「生まれて一番」だ。

 スケールが大きすぎる。

 でも——嫌いじゃない。

 全然、嫌いじゃない。


 達也が食べている間、美由紀は台所に立っていた。

 弁当箱を洗い終えて、付箋を持ったまま、達也の背中を見た。

「生まれて一番美味かった」。

 大げさだ、と思いながら——でも、この人らしいな、とも思った。

「✕を抜群と読む」人間が、「甘い卵焼きが生まれて一番」と書く。

 スケールは大きいが、嘘はない。

 この人はいつも、思ったことをそのまま書く。

 うまい言葉じゃなくても、飾らない言葉で書く。

 そういう人。

 そういう人と、十七年いた。


 美由紀は付箋を手のひらで少し伸ばした。

 ミミズ字が、てかてかと光った。

 レンジが鳴った。

 美由紀は皿を取り出して、テーブルに置いた。

 達也が食べ始めた。

「……来週も、甘い卵焼きがいい?」

 美由紀は、達也の背中に向かって言った。

 達也が少し手を止めた。

「……どっちでもいい」

「じゃあ甘くする」

「……そうしてくれ」

 それだけだった。

 完璧な和解の言葉じゃない。

 感動的な台詞でもない。

「どっちでもいい」と「じゃあ甘くする」。

 不完全なまま、でも確かに寄り添っている。

 それが——今の桐島夫婦の言葉だ。


 達也が食べ終えて、お茶を飲んだ。

「プレゼン、どうだったの」

 美由紀は聞いた。

 今夜初めて、聞いた。

 達也は少し間を置いた。

「……わからない。まだ結果は出ていない」

「そう」

「でも——今日の俺は、ベストを出した」

 美由紀はそれを聞いた。

 ベストを出した。

 結果はわからない。

 でもベストを出した。

 達也がそう言えるようになった、ということが——美由紀には、結果よりずっと大きかった。

「……そう」

 もう一度だけ、言った。

 今度の「そう」には、さっきの「そう」とは違う重さが入っていた。

 達也には、届いたと思う。


 その夜遅く、達也が寝室に入った後、美由紀は台所に一人残った。

 付箋を冷蔵庫の扉に貼った。

「みずかけ禁止!!」

「抜群でした」

「今日は赤かった。明日は何色ですか」

「ムリした。でも食えた」

「今日もよかった。ありがとう」

「生まれて一番美味かった」。

 六枚になった。

 美由紀はその並びを見た。

 最初の一枚と、最後の一枚。

「✕=抜群」と読んだ人間が、「生まれて一番美味かった」と書くまでになった。

 十七年分の弁当箱を、もう一度洗った。

 弁当箱を伏せながら、美由紀は思った。

 この弁当箱、そろそろ新しいのにしようか。

 縁の傷も、蓋の白っぽさも——そのままにしておいてもいいけれど。

 でも——新しいのを買って、また使い込んでいくのも、悪くないな。


 美由紀は台所の電気を消した。

 暗くなった台所に、外の光が少し差し込んできた。

 月が出ていた。

 明日も、台所に立つ。

 甘い卵焼きを、また作る。

 それだけのことが、今夜の美由紀には、とても静かで、とても大きかった。

 達也が「どっちでもいい」と言ったとき、美由紀は少し笑いそうになった。

 こらえた。

「どっちでもいい」——それが今の達也の正直な言葉だ。

 甘くなくていい、でも甘くてもいい。

 どちらも受け取る、という意味だ。

 あのころの達也だったら「甘い方が好き」と言っただろう。

 でも今の達也は「どっちでもいい」と言った。

 それは——美由紀に選ばせてくれている、ということだ。

 美由紀が決める。

 美由紀が作る。

 達也は受け取る。

 それでいい。

「じゃあ甘くする」と言えた。

 それだけで、今夜は十分。


「ベストを出した」という達也の言葉を、美由紀は何度か反芻した。

 あの人がそういうことを言えるようになった。

 以前の達也は、うまくいかなかったことを「準備不足だった」「読みが甘かった」と自分を責める方向に向かっていた。

 でも今夜の達也は、「ベストを出した」と言った。

 結果はわからないが、ベストを出した。

 それは——美由紀には大きかった。

「ムリしないで」と書いた夜のことを思い出した。

 深夜の台所で、海苔をはさみで切りながら、「どうかムリしすぎないで」と思いながら書いた文字。

 あれが届いた、と今夜は感じた。

 届いたから、ベストを出して帰ってきた。

 形を変えて、でも確かに届いた。

 弁当箱を伏せた後、美由紀はもう一つのことを思い出した。

 引き出しの奥に、二枚の紙がある。

 一枚は——プロポーズのとき、達也があのミミズ字で書いた「一緒に生きていこう」の紙。

 もう一枚は——結衣が家庭科の課題で作ったお弁当の写真と用紙。

「お父さんとお母さんへ」

「ふたりともがんばれ」。

 捨てられなかった紙が、二枚ある。

 そして今夜、三枚目が加わった。

「生まれて一番美味かった」。


 美由紀は付箋を一度手のひらに乗せて、見た。

 冷蔵庫に貼ろうとして——止まった。

 今夜のこれは、冷蔵庫じゃない気がした。

 美由紀は台所の引き出しを開けた。

 一番奥に手を入れた。

「一緒に生きていこう」の紙の隣に、そっと重ねた。

 引き出しを閉めた。

 捨てられなかったものが、三枚になった。

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