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第15話 ハナマルと、さあね

 プレゼンの結果が出たのは、翌週の水曜日だった。


 夕飯の最中に、達也のスマホが鳴った。

 達也がテーブルを離れて、廊下で電話に出た。

 美由紀は味噌汁をよそいながら、その背中を見た。

 大輔は気づかないふりをして参考書を読んでいた。

 結衣だけが「なんか大事な電話っぽい」と小声で言って、美由紀に目配せした。


 五分ほどして、達也が戻ってきた。

 席に座った。

 何も言わなかった。

 でも——顔が違った。

 いつもの「疲れた顔」でも「消耗した顔」でもない。

 何か、重たいものを一つ、ゆっくり下ろしたような顔だった。

 美由紀は「どうだったの」と聞こうとした。

 聞く前に、達也が箸を持ち直した。

「美味い」

 味噌汁を一口飲んで、そう言った。

 美由紀には、それだけでわかった。

 通ったのだ。


 夕飯が終わって、達也が洗い物を手伝った。

 珍しかった。

 今まで手伝ったことが、ないわけではない。

 でも頻度で言えば、年に一度か二度だ。

 それが今夜は、自分から流しに立った。

「いい」と美由紀は言った。

「いいから」と達也は言った。

 二人で並んで洗い物をした。

 美由紀がスポンジで洗って、達也が濯いで、伏せる。

 そのリズムが、思ったより自然だった。

 新婚のころ、達也は「家事は一緒にやろう」と言っていた。

 その約束は——いつの間にか消えていた。

 美由紀は忘れていなかった。

 でも責めたことはなかった。

 責める代わりに、黙って一人でやり続けた。

 それが今夜、突然戻ってきた。

 理由は聞かなかった。

「通ったのか」と聞くより、隣に立っていることの方が大事だった。

「プレゼン」と達也が言った。

「うん」

「通った」

「知ってる」

「どうして」

「顔でわかった」

 達也は少し黙った。

 それから、「そうか」と言った。

 それだけだった。

 でも今夜の「そうか」には、今まで美由紀が知らなかった柔らかさがあった。


 子供たちが寝て、達也も寝室に入った後、美由紀は一人で台所に立った。

 明日の弁当の仕込みをするつもりだった。

 でも——冷蔵庫の前で、しばらく止まった。

 冷蔵庫の扉の付箋を、最初から順番に読んだ。

「みずかけ禁止!!」

「抜群でした」

「今日は赤かった。明日は何色ですか」

「ムリした。でも食えた」

「今日もよかった。ありがとう」

「生まれて一番美味かった」。

 六枚。

 最初の「抜群でした」から、ここまで来た。

 怒りから始まって、甘い卵焼きに辿り着いて、「生まれて一番美味かった」まで来た。


 美由紀はしばらく、その六枚を見た。

 プロポーズの紙から数えると、引き出しには三枚の紙がある。

「一緒に生きていこう」

「ふたりともがんばれ」

「生まれて一番美味かった」。

 捨てられなかったものが、三枚ある。

 弁当箱も、まだ同じものを使っている。

 縁の傷と、蓋の白っぽさと、十七年分の使い込みがそのまま残っている。

 新しくしようか、と何度も思った。

 でも——まだ使えるから、と毎回先送りにしてきた。

「まだ使えるから」は本当のことだ。

 でも本当は——この弁当箱を変えるタイミングが、なんとなくわからなかったのかもしれない。


 明日の弁当を、どうしようか。

 美由紀は冷蔵庫を開けた。

 鶏肉があった。

 唐揚げにできる。

 卵がある。

 甘い卵焼きを作れる。

 ブロッコリーも、プチトマトもある。

 ふつうの弁当。

 でも——今夜は、ふつうじゃない気がした。

 今夜の美由紀には、達也に何かを届けたかった。

 嫌がらせじゃない。

 怒りじゃない。

 感謝でも、謝罪でも、愛の告白でも——ない。

 それら全部を含んだ、もっとシンプルな何か。

 美由紀は海苔のパックを取り出した。

 はさみを引き出しから出した。

 海苔専用のはさみ。

 十七年使い続けているはさみ。

 テーブルに座って、海苔を広げた。


 美由紀は海苔を広げながら、最初の「✕」のことを思い出した。

 あの朝、「また唐揚げか」と言われて、怒りのまま海苔をハサミで切った。

 チョキ、チョキ、チョキ。

 あのときのハサミの音と、今夜のハサミの音が——同じ音。

 同じ台所で、同じはさみで、同じ海苔を切っている。

 でも今夜のこれは、怒りじゃない。

 怒りから始まって、こんなに遠くまで来た。

「✕」がなければ、「◎はなまる」もなかった。

 美由紀はそう思って、少し笑えた。

 自分で自分を少し気に入った夜だった。


 何を書くか、少し考えた。

「ありがとう」——これは達也の言葉だ。

 達也がよく付箋に書く。

 美由紀が書くと、逆になる気がした。

「よかったね」——少し他人行儀だ。

「がんばったね」——達也は「ベストを出した」と言った。

 結果より、そっちを褒めたい気がする。でも、違う。

 美由紀は海苔を持ちながら、窓の外を見た。

 夜の台所に、外の光が差し込んでいる。

 月がある。

 ——そうだ。

 シンプルでいい。

 美由紀はハサミを入れた。

 チョキ。チョキ。チョキ。

 丁寧に、丁寧に。

 三十分かけて、完成した。

 美由紀は弁当箱のご飯の上に、それをそっと置いた。

 大きな「◎はなまる」——ハナマルだ。

 丸く、大きく、ご飯の上を占領するハナマル。

 嫌がらせの「✕」から始まって、今夜は「◎はなまる」だ。

 バツが、ハナマルになった。

 美由紀は蓋を閉めた。

 弁当箱をテーブルに置いた。

 少し、笑えた。


 翌朝、達也が食卓に来た。

「おはよう」

「おはよう」

 朝食を食べた。

 弁当箱を鞄に入れた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ドアが閉まった。

 美由紀は台所で洗い物をしながら、今日の弁当箱のことを考えた。

 達也が昼に、あのハナマルを見る。

 どんな顔をするだろう。

「✕」を「抜群」と読んだ人間が、「◎はなまる」をどう読むか。

 美由紀には、少し楽しみだった。

 楽しみだと思っていることに、今日は罪悪感がなかった。

 ただ、楽しみだった。


 その日の午後、達也からLINEが来た。

 珍しかった。

 達也がLINEを送ってくることは、ほとんどない。

 美由紀はパートの昼休みにスマホを確認した。

「今日のあれ、なんだ」

 それだけだった。

 美由紀は一秒考えて、「ハナマル」と返した。

 しばらく既読がついた後、「……知ってる」と来た。

「なんで花丸なんだ」

 美由紀は少し笑った。

「さあね」と返した。

「花のように愛おしいってことか?」

 美由紀はスマホを持ったまま、少し止まった。

「……違う」と返した。

「でも正解か?」

 美由紀はまた止まった。

 かおりが横から「どうしたの?」と覗き込んできた。

「旦那から」

「何て?」

「『花のように愛おしいってことか?』って」

 かおりが吹き出した。

 惣菜コーナーで、かおりの笑い声が弾けた。

「やだ最高。で、正解なの?」

 美由紀はスマホを見た。

 達也の「でも正解か?」が、画面に光っている。

 最初の「✕」を「抜群」と読んだ男が、今度は「◎はなまる」を「花のように愛おしい」と読んだ。

 相変わらず、ポジティブすぎる変換だ。

 でも——今回は、外れでもない気がした。

 美由紀はゆっくりと、「さあね」と打った。

 送信した。

 かおりが「『さあね』って! 最高じゃない!」と言って、また笑った。

 美由紀もこらえきれなくて、少し笑った。

 スマホを鞄に戻しながら、美由紀は思った。

「さあね」は——嘘じゃない。

 全部含んで、「さあね」だ。


 昼休みが終わって、かおりと並んで惣菜コーナーに戻りながら、美由紀は思った。

「さあね」——これが今の美由紀の本音だ。

 正解か、と達也は聞いた。

 正解かどうか、美由紀にもわからない。

「花のように愛おしい」かどうかは——問いが少しずれている。

 でも——嫌いじゃない。

「✕」を「抜群」と読む人間が、「◎はなまる」を「花のように愛おしい」と読む。

 スケールが大きすぎる。

 でも、嫌いじゃない。

 かおりが「旦那さんのこと、好きでしょ」と言った。

「……さあね」

「また『さあね』!」

 かおりがまた笑った。

 美由紀もまた、少し笑った。

「さあね」は万能だな、と思った。

 全部含んで、何も確定しない。

 今の美由紀にはその言葉が、一番しっくりきた。


 達也が帰ってきたのは、八時前だった。

 最近、少し早くなった。

「ただいま」

「おかえり」

 達也は鞄を置いて、弁当箱を取り出した。

 蓋の裏に付箋が貼ってある。

 美由紀は台所に立ったまま、それを見た。

 達也が付箋を剥がして、美由紀に差し出した。

 美由紀は手を伸ばして、受け取った。

 こう書いてある。

「いてくれるだけでいい」。

 美由紀は、その文字を読んだ。

 一度、二度。

「いてくれるだけでいい」。

 料理が上手いから、とか。

 弁当を作ってくれるから、とか。家を守ってくれるから、とか。

 ——そういうことじゃない。

 いてくれるだけでいい。

 それだけ。

 それだけを、達也は書いた。

 美由紀の目の奥が、じわっとした。

 泣くな、と思った。

 台所で泣くな。

 でも、これはこらえられなかった。

 美由紀はしばらく、付箋を持ったまま下を向いた。


「……大げさだよ」

 美由紀は言った。

 声が、少し詰まった。

「大げさじゃない」と達也は言った。

「いてくれるだけでいい、なんて」

「本当のことだ」

「毎日弁当作ってるのに」

「それは別の話だ」

「別じゃない」

「……別じゃないか」

 達也は少し間を置いた。


「弁当がなくても、いてくれるだけでいい。でも弁当があると——もっといい」

 美由紀はそれを聞いて、少し笑えた。

 笑いながら、目の端から、一粒だけ落ちた。

 達也は何も言わなかった。

 美由紀も何も言わなかった。

 台所に、静かな時間が流れた。


 夕飯の食卓に、四人が揃った。

 大輔が「今日、専門学校の資料届いた」と言った。

 達也が「どんなの」と聞いた。

 大輔がスマホで写真を見せた。

 達也が真剣な顔で見た。

 二人がそのまま話し込んだ。

 美由紀はその横で、味噌汁をよそいながら、その会話を聞いていた。

 達也が大輔に「料理って、何が一番難しいんだ」と聞いた。

 大輔が「加減、だと思う。レシピ通りにやっても、毎回違うから」と答えた。

 達也が「そうか」と言って、少し考えた顔をした。

「……お母さんの弁当も、毎回微妙に違う気がする」

 美由紀は思わず顔を上げた。

 達也が美由紀を見た。

「同じ唐揚げでも、今日のはいつもより少し甘い気がする、みたいな。気のせいかもしれないけど」

「気のせいじゃない」と美由紀は言った。

「日によって変わる」

「なんで」

「気分が入るから」

 達也はそれを聞いて、少し黙った。

「……そうか」

 いつもより少し長い「そうか」だった。

 結衣が「じゃあ機嫌いいときの弁当が一番美味しいの?」と聞いた。

「そう」

「最近、機嫌いい?」

 美由紀は少し考えた。

「……まあまあ」

「まあまあか」と達也が言った。

「まあまあは、まあまあいいってことだよ」と結衣が言った。

 大輔が「俺も最近のお弁当、美味しいと思ってた」と言った。

 誰も、大げさなことを言わなかった。

 でも今夜の食卓は、美由紀にはとても温かかった。


 夜、弁当箱を洗った。

 いつも通りの作業。

 でも今夜は、弁当箱を洗いながら——美由紀は初めて、この弁当箱に「ありがとう」と言いたくなった。

 弁当箱に。

 おかしい、と思った。

 でも、そう思った。

 この弁当箱が——全部の始まりだった。

「✕」を入れたのも、ミニトマト十二個を詰めたのも、「ムリすんな」を底に仕込んだのも、甘い卵焼きを入れたのも、今夜の「◎はなまる」も——全部、この弁当箱の中で起きた。

 達也の「抜群でした」も、「今日は赤かった」も、「ムリした。でも食えた」も、「生まれて一番美味かった」も、「いてくれるだけでいい」も——全部、この弁当箱の蓋の裏から来た。


 十七年間、一度も変えなかった弁当箱。

 縁の傷も、蓋の白っぽさも、全部そのままの弁当箱。

 美由紀はスポンジを止めた。

 弁当箱を両手で持って、少し見た。

「お疲れ様」

 声に出して言った。

 誰にも聞こえない声で。

 弁当箱に向かって。

 少し恥ずかしかったが、言いたかったから言った。


「いてくれるだけでいい」の付箋を、引き出しにしまった。

「一緒に生きていこう」の紙の隣に。

「ふたりともがんばれ」の隣に。

「生まれて一番美味かった」の隣に。

 引き出しの中に、四枚が並んだ。

 捨てられなかったものたち。

 言葉にならなかったものたち。

 弁当箱を通じて往き来した、本音たち。

 美由紀は引き出しを閉めた。

 冷蔵庫の扉を見た。

「みずかけ禁止!!」

「抜群でした」

「今日は赤かった。明日は何色ですか」

「ムリした。でも食えた」

「今日もよかった。ありがとう」

「生まれて一番美味かった」。

「いてくれるだけでいい」は引き出しにしまったから、冷蔵庫には六枚残っている。

 そのままでいい。

 この並びが、今の桐島家の現在地。


 台所の電気を消した。

 寝室に向かう廊下を歩いた。

 二階から、大輔の部屋の明かりがまだついている。

 結衣の部屋も、微かな光が漏れている。

 寝室のドアを開けた。

 達也が眠っていた。

 少し前より、背中が伸びている気がした。

 肩の落ち方が、違う。

 重いものを下ろした人間の、静かな背中。

 美由紀は布団に入った。

 暗い天井を見た。

 今夜の「いてくれるだけでいい」が、まだ胸の中にある。

 大げさだよ、と思う。

 でも——嫌いじゃない。

 全然、嫌いじゃない。

「✕」から始まって、「◎はなまる」に辿り着くまでに、一年近くかかった。

 遠回りだった。

 でも——遠回りしたから、今夜の「さあね」が言えた。

「さあね」は、全部含んでいる。

 怒りも、意地も、心配も、甘い卵焼きも、深夜の台所も、スーパーで見た背中も、「ふたりともがんばれ」の文字も。

 全部含んで、「さあね」。


 美由紀は目を閉じた。

 達也の寝息が聞こえる。

 子供たちの気配が、家の中にある。

 明日も、台所に立つ。

 弁当箱に、何かを詰める。

 嫌がらせか、愛情か、その境界が消えた弁当を。

 翌朝も、美由紀は台所に立った。

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