図鑑の進化
特に何ということもない、バラに似た花。観賞用のそれから、花弁をむしり取って口に運ぶ。今まで食べたことがなかったその花は、確かに香りは良い。が、まるで芳香剤を口に入れたみたいで、食べるのには向かない。飲み込めなくて、口をすすいだ。
「毒はない。香りがとても強い。少し苦い。同じ種類でも赤い花弁には酸味がある。白い花弁にはわずかな甘みがある。ただ単純にまずい。薬効は特になし、と」
図鑑にそう書き込んで、閉じようとした時。ページがほわっと光って、表紙が急に温かくなった。
「え、何?」
驚きすぎて図鑑を取り落とす。自然と目に入った表紙が、色を変えていった。今までは灰色がかった古びた本で、大して重要そうなものには見えなかったのに。革張りの表紙ははっきりと青くなり、型押しで知恵の女神の紋章が入れられ、表紙の角を守る金具まで生じている。重厚な雰囲気でいかにも高そうな、立派な図鑑に変貌していた。
「なんだろ。レベルアップした……?」
拾い上げたら、最初のページに今までなかった文があった。
『二百ページ達成、おめでとうございます。記念に索引が実装されました』
見たことのない丁寧な文字で、そう、書かれている。何だこれ。
「索引……」
図鑑をぺらぺらと捲っていく。最後の方のページが索引になっていた。今までこんなのなかったはずだ。
名前の頭文字、カテゴリー、生息場所で図鑑の内容を検索できるようだ。そして、他にも気になった項目が。
「食味……って」
どうやら、甘い・苦い・酸っぱいなどという『味』によっても、検索できるようなのだ。もうひとつ『毒』という項目も。無毒なのか有毒なのか、有毒ならどんな毒なのかでカテゴリー分けされている。
「これ、僕が余計なことしたせい……」
いや。こうして正式な項目になったからには、もう『余計なこと』ではなくなったのか。
「嫌がらせにならなくなっちゃったな」
これからは、味を確かめるのも僕の『使命』のうちというわけだ。
「うーん……」
釈然としない。利用されているのが面白くない。でも。思えば相手は神様だ。人間の魂を異世界から持ってこられるような存在で、最初から張り合うだけ無意味なのかも。そう思うと、ますます面白くない。僕がしていることなんて、どこまでいっても無力な人間の悪足掻きでしかないみたいで。
図鑑の表紙を撫でる。今までになかった凹凸が指に触れた。立派になったなぁ。こいつとももう長い付き合いだ。こうして成長がみられるのはなんだか嬉しい。二百ページでこれなら、この先、もっと立派になっていくのだろうか。使命は気に入らないけれど、図鑑を埋めていく作業が嫌いかと言われると、そうでもない。
「まあ、いいか」
口に出して言ったら、本当に、どうでもいいような気がしてきた。長くひとりでいるせいで、独り言は明らかに増えている。
「……迷宮行こ」
残りの花を花瓶に戻し、立ち上がって伸びをする。花瓶は借り物だ。花を持ち帰った僕に、宿のあるじの娘さんが貸してくれた。なんだかちょっと誤解されていたみたいだったけど。誰かにプレゼントされたものだと。
今日から目指すのは迷宮の第5階層、まだ行ったことのないエリア。ギルドの情報によると、とても大きなコウモリがいるらしい。他の階層とは植生が違うみたいだから、植物も珍しいものが見られるかもしれない。
「そういえば……コウモリって、ネズミとは味が違うのかな……?」
第1階層にいるネズミの魔物は、ちょっと癖のある味だったけどスープにしたら良い出汁が出て美味しかった。コウモリも美味しいかもしれない。どんな味付けがいいだろう。やっぱり最初は塩焼きか、シンプルに茹でてみるべきか。あの薄い膜のような翼は食べられるんだろうか。
なんだか、気分が上向いてきた。新しい食材について、料理の仕方を考えるのはいつも楽しい。
この世界にはまだまだ、僕が食べたことのないものや見たことがないものが沢山ある。当分は楽しめるだろう。迷宮の外だって、行ったことのない国がいくつもあるのだ。この世界に来てから、雪も海も未だに見ていない。全部回ろうとしたら何年かかることか。きっと時間がいくらあっても足りない。たとえ――僕が本当に、年を取らないのだとしても……。
「一度神殿にも行ってみようかな。祈ったことないし」
誘拐犯のような神々とも、いつかは和解できるかも。そんなことを考えながら、魔法鞄に図鑑を詰めた。部屋を見回し、忘れ物がないことを確認する。
「さて。今日のお昼は何を食べようかなぁ」




