巻の六、幸い
(暑っちい~~)
袍の襟を崩したい。
崩して扇ぎ、少しでも涼しい風にあたりたい。
水路を渡って吹く風。街の他の場所で吹く風よりは幾分か涼しいが、照り付ける日差しと宦官としての衣が風の厚意を無碍にする。
(なんでこんな日に外出なんだよ)
運河整備の監督官と、図面を眺め、ああでもないこうでもないと意見を交わし続ける公主。
その脇で、宦官である俺は公主に傘をかたむけ、公主のために日陰を作り続ける。
出来た日陰に公主は涼しいかもだが、傘をさしてる俺は暑い。
それは、説明を続ける監督官も同じで。傘の恩恵に預かれていない奴は、俺と同じキッチリした装いで、額に玉の汗をいくつもにじませている。
(男まで傘に入れてやんねえよ)
お前も一緒に汗を垂らしてろ。
こんな暑い日に水路監察なんてのをやったこの女が悪いんだからな。
目の前の水路。
まだすべてが完成したわけではなく、所々土の固めが甘い部分がある。
土を固めて土手を作り、土手の脇に地を固めるために柳を植える。
そこまで工事の段階が進んでいれば、柳の影という恩恵もあるんだが。まだその段階ではないので、ジリジリと照らす太陽に焼かれ続ける。
「――蒼月」
話が終わったのか。監督官が図面を持って場を離れる。同時に、公主が俺のほうにふり返る。
「ちょっ! 公主さまっ⁉」
いつの間にか取り出した手巾。それで勝手に俺の汗を拭こうとした公主が、俺が避けるより早く動きを止めた。
「お前、汗をかかないのか?」
さっきまでいた監督官と違う。
俺の額はおろか、首筋にもどこにも汗が滴るところはない。
「愚才は、汗をかかぬのです」
これは嘘じゃない。
俺の体、細作としてやっていくため、いつの間にか汗をかかない体になった。
どこかに忍び入って、潜んで話を聞いている間に汗をかいていたら。そこから隠れていることがバレて、捕らえられる危険性がある。
それに、潜むのが何日にもわたることだってある。飲食が禁じられている状況で汗を流し続けていたら、そのまま脱水で誰にも気づかれずに死んでしまう。
そういうわけで、俺の体はどれだけ暑かろうと、汗をかかないものになっている。
「そうか。だが暑そうだ」
汗を拭いてやる。
そんな親切を行えないことに不満を言うかと思ったが、ニコリと笑って返された。
「それよりも。公主さまの方が暑いのでは?」
俺のことよりも。さっきまで熱心に議論を交わしていた公主。
人の心配をするより自分のことを労われ。
「あちらの井戸で冷やしておいた果実水がございます。ご休憩なさってください」
「そうだな。いただこうか」
意外と素直。
今日もこの後、色々と見て回る予定が入っている。
――そんなの飲んでる場合か。次に行くぞ、時間がもったいない。
言われるかと思ったが、大人しく言うことをきくあたり、コイツも暑さに参っているのだろう。
家と家の間、細い路地にある井戸。ちょうど日陰になっていた場所で、予め漬けておいた果実水を引っ張り出す。
持ち運びしやすいよう、瓶子に詰めていた果実水。自分で用意し、自分で井戸に漬けたものだ。毒など入っていないことはわかっているが、それでも最初の一口は自分が飲む。
(あ~~、うんめぇ!)
甘露甘露と、何口も飲みたいところだが――それは我慢。
「公主さま」
軽く口を拭って、公主に渡す――が。
「吾も、の、飲むのか? 直に?」
「はい。ここに器などございませんので」
(何を嫌がる?)
差し出した瓶子を、なかなか受け取ろうとしない公主。
(直に瓶子から飲むのが嫌なのか?)
さっきの監督官か誰かに命じたら、これよりもっといい飲み物、器を用意してくれるかもだが、今ここにそれはない。
(行儀悪いとか思ってんのか?)
公主らしくないと、今更ながら思い出した行儀に戸惑っているのか?
アンタだって、喉カラカラのはずだろ?
――仕方ない。
「器、用意いたします」
嫌がるなら無理強いしない。
公主らしく飲みたいってのなら器を持ってきてやるよ。
「いや、いい! このまま飲む!」
場を離れようとした俺から、瓶子をふんだくった公主。
(え? おい!)
まるで「水を恐れる者が、勇気を振り絞って顔を水に浸けるように」、エイッと勢いつけて瓶子に口をつけた公主。
そのまま背を反らし、瓶子の中身を一気に飲む。
ゴキュ。ゴクッ。
中の果実水を呑むたびに、細い喉が音を立てて上下する。
(お、おいっ!)
瓶子からあふれる量に飲み込むのが追いついていないのか。瓶子に口づけた端から、キラキラと果実水が滴り落ちる。
(公主ともあろう者が、こんな飲み方……)
まるで、酔っ払いの酒の飲み方じゃねえか。
さっきの戸惑いはどこいったんだよ。豪快すぎる、雑すぎるだろ。
「プハッ。美味いな」
瓶子から口を離した公主が、濡れた顎を手の甲で拭う。
その顔は、飲んだ果実水のように、爽やかな印象だ。
「ぜ、全部召し上がったのですか?」
瓶子の中身。
すべて飲み干したのか?
「いや。蒼月の分は残してあるぞ。ほら」
チャプン。タプン。
瓶子を揺らして、まだ残っていることを音で示す公主。
「残りは全部、お主が飲め」
「は、はあ……。では」
言われなくても、自分が飲むつもりだったんだが?
毒見はしたものの、主優先で渡しただけで。
戻ってきた瓶子を受け取ると、静かに音を立てずに果実水を飲む。
「――美味いか?」
「はい。おいしゅうございます」
何を訊いてくる?
俺の用意したものだし、旨いかどうかなんて、どうしてわざわざ訊いてくる?
そして、どうしてそんなに真剣に見てくるんだ?
俺の飲む姿を食入るように見てくる公主。
どうしてそんなに頬が赤い? どうしてそんなに目がキラキラしてる?
よくわからない。
「――今日はここまでにして、宮に帰りましょう」
「どうして? まだ行けるぞ」
「お顔が赤くございます。――暑いのでございましょう?」
いくら俺の傘で作った日陰にいたって。いくら冷たい果実水を飲んだからって。
その顔の赤さは、暑さで疲れている証拠だ。
「い、いや、顔は、その……っ!」
なぜか、ワタワタと慌て始めた公主。
――――――? なんだというんだ?
「おっ、お前は平気なのか?」
「何が……でございますか?」
俺は汗はかかないし、暑さを感じることはできるけど。だからって顔を赤くしたりはしない。そういう変化を表に出さないように、躾けられている。
「なんでもない!」
いきなり怒り出した公主。そのまま大股で離れていこうとする。
「吾も平気だ! だからこのまま用事をすませるぞ!」
「ちょっ……!」
なんだよ、それは!
「もう少し休まれたほうがよろしいのでは?」
果実水飲んだぐらいじゃ、疲れは取れてないだろ。動くにしても、もう少し休憩をしてだな。
「無理だ。時間がない」
「――え?」
引き留めようと伸ばしかけた手が止まる。
時間が。――ない?
一瞬、夕刻までに宮に戻らなければいけないから。そんな理由を思い浮かべる。
だが、日は中天を過ぎたばかりの暑い盛り。それでなくても夏の日は落ちるのが遅い。
日の入りまであと二刻ほどはあるはずだ。
だとしたら。
なんの時間を惜しんでいる?
夜も遅く、東の空が白むまで訪れた文武百官と意見を交わす公主。
昼近くになって起きてきて。それからまた夜まで集まった書を読む公主。
時折、こうして外に出るが、一度出るとどこまでも貪欲にあらゆる場所を回ろうとする。
どこまでも貪欲に。どこまでも精力的に動く公主。
――なんのために?
「なあ、蒼月」
路地を出る間際。足を止めた公主が言う。
「お主は、この国をどう思う?」
「どう……とは?」
どういう意味を含んだ質問だ?
「とても良い国だと存じます」
質問の意図が見えないので、慎重に言葉を選ぶ。
「近年は戦もなく、飢饉なども起きておりませぬ」
相手の、この公主の欲しい答えは何か。
政に熱心な公主。なら、訊きたいのは、その情熱を傾けた政の結果か。
「この広大な国のすべてを知っているわけではございませんが。愚才の知る限り、民は安寧を享受し、幸せに暮らしております。この国は満ち足りております」
答えに嘘はない。
実際この国は、平穏だ。
租税はそれほど高くなく、暴政に喘いでいるという話は聞いたことがない。
病者や孤児は、悲田坊などの国の施設で手厚く施しを受けている。
都では見られないが、地方に行けば、戦で荒れなかった田畑に作物が実りをみせる。
垂れた稲穂。さやさやと揺らす涼し気な風。
山端にかかった赤い夕陽が照らす世界。そこを無邪気に駆ける幼子。ほほえましくその姿を眺める若い夫婦。
(何を――)
何を思い出した?
俺の、――過去?
戦で踏み荒らされる前の、俺が細作になる前の、忘れていた幼い頃の風景?
「そうか。この国は満ち足りているか」
「はい」
思い出したものを振り切るように、首を垂れる。
忘れろ。思い出したものはすべて。
「なら、吾が頑張ったかいもあったというものだな」
ふり返り、微笑む公主。その顔は、とても清らかで、満足そうで。
暗い路地から見ているせいか。公主の後ろから夏の光が差し込むせいか。
触れてはいけない神々しさすら感じた。
(――――っ!)
「公主っ!」
感じたことと裏腹に、体が勝手に動き、路地の先へ、公主をかばうように前に出る。
(コイツら……)
「へっへ。こんなところにいやがった」
「なんだよ、暗い路地でお楽しみの後だったのかい?」
ヒッヒッヒ。ヘッヘッヘ。
(下衆が)
路地の出口をふさぐように現れた下卑た笑いをこぼす男たち。
それは、前からだけでなく、後ろの路地からも、周りの家の屋根からもゾロゾロと集まって来る。
(公主が目当てか)
男たちは、その手に剣や短刀、それぞれの得物らしいものを見せびらかすように手にしている。
さっきの野卑た言葉といい。金目当てではなく、公主の命目当てに集まったとみていい。
(三流。ただのチンピラだな)
一流の殺し屋は、己の存在を見せることなく、対象を殺す。対象が自分が死んでいることに気づかないまま、その命を奪う。
こんな風に得物を見せながら近づいてくるのは、三流の証明。
だが。
(多勢に無勢だ)
俺一人なら、なんとでも切り抜けられる。だが、公主を守ってとなると、かなり怪しい。
それも宦官らしく、暗器を使わず剣だけで戦うこととなると……。
「――公主さま。愚才から離れないでください」
全力でやって、切り抜けられるかどうか。いちかばちか、賭けに近い感覚。
それでも。
「必ずお守りいたします」
堕とす前にむざむざ殺されてたまるかっての。
冷えていく頭。冴えていく目。静かに丹田に集う息。
代わりに流れる血が沸騰したように熱くなった。




