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巻の五、蒼月蓮花

――おっと、そこまでにしておきなよ、蒼月。


「糠星……計都(ケイト)か」


唇を、喉すら動かさず話す。

糠星、計都。

細作の中でも下っ端、数多くいる存在を空の星になぞらえて「糠星」、その中でも人の世に紛れて人を惑わし脅かすことに長けた者を「計都」と呼ぶ。

今、宴の奏者になりすました俺に近づき、背後から俺の喉元に鋭い針の先を向けている細作がそれ。

仲間であっても命とあれば容赦はしない。事の善悪ではなく、命じられたことだけが正義、守るべきもの。

それが計都。

幼く純粋な分、色々質が悪い。


羅睺(ラゴ)熒惑(ケイコク)も驚いていたよ。君がまだ公主を堕とせてないのかって」


「余計なお世話だ」


日月の光を喰らって空を暗くする羅睺(ラゴ)。飢饉や戦を起こす不吉な赤い星、熒惑(ケイコク)

ロクでもない名を持つ二人に驚かれてもうれしくない。


「堕とせてないばかりか、こんな風に忍び込んでくるなんてさ」


「今の仕事に必要なんだ」


「へえ。本当に?」


「本当だ」


「好奇は身を亡ぼす。教わらなかった?」


好奇は身を亡ぼす。

その教えは、暗器を手にするより先に叩き込まれたし、その教えに反したことで、実際に亡びていった細作をたくさん見てきた。


「――わかった。これ以上は止めておく」


お手上げだ。

軽く息を吐きだし、諦めを表する。

話す口調はとても軽いのに、ピクリとも俺の喉元の針を動かさない計都(ケイト)

コイツが守っている限り、この宴に潜入するのは止めておいた方がよさそうだ。

倒せない相手ではないが、そこまでして得たい情報でもない。仲間内で殺し合うのは、できる限り避けたい事案でもある。


(ここなら何か情報が得られるかと思ったんだがな)


俺が潜入しようとした宴は、後宮を訪れた皇帝が寵姫とともに開いたもの。

梔子の花がむせるほど匂い漂う宮の庭で、酒を飲み、楽の音をたのしむ。そういう趣旨のものだった。


公主を陥れようとしているのは誰か。


政敵になりそうな者ならいくらでも想像できる。

丞相、諸公、九寺五監。宦官、外戚。禁軍三衙。

しかし、どこを探ってもそれらしい人物に当たらない。誰もが公主を敬い、公主を主としている。

だったら誰が。誰が公主の爛れていると噂を流している?

どこを探してもその手掛かりすら掴むことができず、こうして藁をもすがる思いで、皇帝近辺を洗い直そうとやってきたのだが。その目論見は、こうして計都に阻まれてしまった。


「じゃあ、俺は帰るとするが――」


ここが無理なら、別の手を考える。

無理を押してでも、何が何でも知ろうとしなくてもいいことだし。


パシッ。


手の中にあったものを、軽く計都に投げて渡す。


「これって……」


「俺の愛用の笛だ。俺の代わりに宴で吹いてやれ」


計都に渡したのは、俺の愛笛。

普通に吹けば、この世のものとも思えない典雅な音色を奏でてくれるが、暗器として使えば、相手を一瞬でこの世の者ならざる者へと変化させる。


「これ、吹いてもいいの?」


「ああ。だが下手な使い方するなよ」


殺していいっていう意味で渡したんじゃないぞ。お前だって細作として、最低限の教養、笛を吹くことぐらいわけないだろ。


「わかってるよ」


ちょっと口の端を曲げて、不服そうな計都。新しい玩具を与えられてワクワクしたところに水を差されて「不満!」といったところだろう。


「あのさ、蒼月」


計都が言う。


「アンタでも堕とせない公主さまってさ。そんなに手強い相手なの?」


その質問に、踵を返し、元の回廊を歩き始めた足が止まる。


「アンタはさ、殺しだってなんだって、百発百中、やれなかった相手はいなかったじゃん。オイラたち糠星の憧れの人だったってのにさ」


それなのに、堕とせないの? まだやってないの?

それは公主が手強い相手だから? それとも?


「お前。好奇は身を亡ぼすって、習わなかったのか?」


得物である笛は渡したが。だからってお前程度の糠星なんて、俺の気分次第でいくらでも殺せるんだぞ?

さっき、諦めたのは面倒事を避けたかったからで、お前に屈したわけじゃないんだぞ。

軽く殺気を立たせ、計都の口を封じる。


――なぜやれてないのか。


(そんなもん、訊かれても俺にもわからねえんだよ)


あの公主は、俺に心を開いてきてくれている。

政務を行う時も、外出する時も。いつも俺を連れ立って歩く。

もう一押しだ。

もう一押しで、この女は俺に堕ちる。

そう思うのに、手を伸ばすことすらできないでいる。


(なぜだ)


問われても答えが出ない。


          *


糠星から成り上がり、月の名を冠するようになるまで。

朔月、三日月、満月、弓張月。

月はその形の名だけでなく、様々な呼称がある。

太陰、月亮、月兎、銀蟾、玉鑑、嫦娥。

千変万化、様々に姿を変え、様々な呼び方を有するところから、細作として誰かに成りすまし潜入、陽動、誘惑を行う俺に、月の名が与えられた。

今名乗っている、「蒼月」もその一つ。

役目を終えれば、俺はまた名を変える。

今の役目で培った関係は、みな打ち捨て、新しい生を生きることになる。

月のようにフラフラと、月のようにとどまることを知らず姿を変える漂泊者。

それが、俺。月。

なのに。


「どうした、蒼月。元気がないぞ」


「公主さま……」


「具合が悪いのであれば、休むがいいぞ。たまの一日ぐらい、お主がおらぬでも、()一人でも問題ない」


いや、問題だらけだろう。

今日も今日とて、公主の部屋には届けられた書がうず高く積みあがっている。

これを全部読んで、夜に訪れる文武百官と意見を交わすには、誰か援けとなる者、補佐する者が必要。


「どうか、そんなこと仰らずに、この愚才にも手伝わせてください」


「そうか。ならば頼む」


「はい」


「ああ、その前に。そこの窓を開けてくれぬか?」


「承知いたしました」


言われるまま、室の窓を開ける。


(うわ)


途端に室に滑り込む、夏の日差しと風。

日差しは、目をすがめたくなるほど白く、風は庭園の池を渡ってきたせいか、幾分涼しく感じられる。


「――そうか。もうこんな季節になっていたのだな」


「公主さま?」


書を置き、窓を開けた俺に近づいてきた公主。


「見よ、蓮の花がいつの間にか」


言われ、並んで立つ公主とともに、庭の池を見る。

窓の外、瀟洒な水謝が中央に建つ池は、大きな緑の葉を持つ蓮に彩られている。

夏の日差しを受け、濃い緑の葉の間から茎を伸ばした花。花弁の先へ行くほど薄桃色にそまるそれは、まだどれも堅い蕾を見せている。


「見頃は、もう少し先でしょうか」


蓮の爽やかで上品な香りと、見事なまでの薄桃色を堪能するには、もう少し時間が必要か。花が開き、その爽やかで上品な香りを漂わせるのはまだ先――。


「フフッ」


ん?

なぜ笑う、公主。

おかしいことを聴いた。

軽く肩をすくめ、漏らした笑いを封じるように、握った拳で口を押えた公主。


「すまぬ。お主が、面白いことを申すから」


面白いこと?


「蓮はな。朝早くに咲いて、午の刻には、すべて閉じてしまうのだ」


「そう……なんですか?」


「ああ。だからこの時刻、ああして蕾の状態になっていてもおかしくないのだ」


そうだったのか。

見頃はまだ先――ではなく、見頃は今の時期の「早朝」ということか。

細作の教養として、蓮の花のことを多少知ったつもりでいたが、咲く時刻までは知らなかった。


「昔は、幼い頃は、蓮の花を堪能できたのだがな」


窓の外、池を見ているようで、違う景色を見ているような公主の顔。

きっと、そこに在りし日に見た、蓮が咲きそろう早朝の池が広がっているのだろう。


「懐かしいな」


すがめられた目。緩んだ口角。

なぜか、胸が苦しく感じられた。

早朝の蓮の花を見られないのは、夜にひっきりなしに訪れる男とまぐわっているからでなく、夜にひっきりなしに訪れる百官と意見を交わしているから。

いつも、夜明けまで議論し、日が昇る刻に窓を閉じたまま、疲れ果てて眠るから。

次に目が覚めた時には、日が高く昇り、蓮はその花を閉じてしまっている。


「では、明日にでも、愚才が摘んでまいりましょうか」


昼に見ることができないのであれば、先に摘んでくれば、朝でなくても花を堪能できる?


「いや、それはいい」


軽く目を閉じ、息を吐きだして、公主が元の席に戻る。


「蓮は、摘んでしまうと殊更早く枯れる。せっかく咲いているのだ、無駄にするな」


「――はい。浅慮でございました」


見ることのできない蓮を摘んできて、懐かしの花を香りを堪能できたら。そうしたら、そんな顔をさせずに済むか?

そう思っての提案だったのだが。蓮の花がそこまで短命なものだとは知らなかった。


「しかし、その気持ち、ありがたく思うぞ」


え?


()を慰めようと思ってのことだろう?」


いや、それは……。

真実ではあるが、少し違う。


(そうやって優しさを見せれば、アンタが俺になびいてくるかと、そういう計算の上での優しさだ)


そうだ。

この間の、車のなかでの一件もそうだ。

少しずつ、なにかにつけて優しくしていけば、アンタだって俺に好意を抱くはず。こうして魂胆がバレたことを、気恥ずかしく感じるが、それも作戦の一環だと思えば耐えられる。


(優しさは、コイツを堕とす作戦だ)


揺れる心に強く言い聞かせる。

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