巻の四、雷鳴
ガラガラガラガラ。
車の轍の音か。それとも。
雲は予想より早く皇都を覆い、雨が滝のように街に降り注ぐ。
白い糸のような雨に街はけぶり、大通りであっても道はぬかるむ。
馭者は馬に鞭を入れて先を急がせるが、下手に走らせると、その先でどんな危険があるか見通せないし、ぬかるみに車輪を取られ、横転の危険もある。
(これは、どこかでやり過ごした方がいいか?)
この雨は、そこまで長く続かない。
昼間だというのに灯りが必要なほど暗い空だが、それが長く続かないことは経験則的に知っている。
夕刻にもなれば、空は元の色を取り戻し、雨も止むだろう。
だが。
(それは無理か)
同じ車のなか。
俺を車に引き込んだ公主。
急ぐ車の激しい揺れに耐えているのか。先ほどからジッと、己の身を抱きしめるようにして座っている。
一点だけを見つめて。
その姿に、「もう少しゆっくりと」とか、「どこかに立ち寄って」などと言い出せる雰囲気はない。
(どうしたんだ?)
さっきまで、あんなににこやかに病者やガキに接していたのに。
強張った顔。動かない体。
――もしかして。
ピカッ。
車の外、ほんの一瞬強い光が生まれる。
そして。
ゴロゴロ、ドドーン。
何かを押しつぶすようなつんざく音と、車の下から伝わってきた振動。
(さっきのは、デカかったな)
そして近い。御簾越しでもわかるぐらい、世界が白くなっていたし。
こんな雨なら、雷ぐらいつきものだ。
雷なんて、大したことな――
「ヒッ!」
え?
驚き、公主を振り返る。
車の振動のせいじゃない。そこに、カタカタと細かく身を震わせる女がいた。
「公主さま。もしかして――」
雷、怖い……とか?
暗い車のなかでもハッキリわかるほど、紙のように白くなった顔。自身を「抱く」というより「しがみついてる」ように爪が立てられた手。
「へ、平気、だっ! ンヒッ!」
ドドーン。
言い終わるより先に落ちた雷。その音、光に体が跳ねた気がした。
(怖いんだな)
雷を怖がる女は、どこにでもいる。子女が雷を怖がるのはよくある話だ。
だから、怖がっていてもおかしくないんだが。
「失礼します、公主さま」
「そ、蒼月っ⁉」
「怖いのでしたら、御身ではなく愚才に」
言って、優しく、包み込むように女を抱きしめる。
「愚才が、お守りいたしますよ」
雷など。撃たれたら守るも何もないのだが。
それでも、そばに誰かがいたら落ち着くのではないか。
「こっ、怖くなどない!」
「そうですか」
「ただ、苦手なのだっ!」
「そうですか」
「子どものころ、雷に撃たれた木を見たことがあってな。以来どうしても苦手で――っ!」
「そうですか。それは恐ろしいものをご覧になったのですね」
轟いた雷鳴。ビクッと震え強張った体。
抱きしめるだけでなく、その背を優しく何度も撫でて強張りを解いてやる。
「情けないと、思わないのか?」
「情けない――ですか?」
「公主ともあろう者が、雷ごときでと」
「はあ……」
別にそんなこと、思いもしなかった。
ただ、日々、文武百官と喧々諤々堂々意見を交わす姿や、弱者を労わる先ほどの姿からは、想像できない怖がり方だなと思っただけで。
そういや、コイツも女だったなと、当たり前のことを思い起こしただけで。
まるで幼子のような怖がり方。
俺の腕の中にスッポリ収まって。俺の腕の中で、わずかながらに緊張を解いて。
その姿に、不思議な、自分でも理解できない何かが、胸の奥で花開いたように広がっていっただけで。
それ以上に思うことなんてなかった。
「すまないが、車を急がせてくれ」
声を張って、外の馭者に伝える。
それから。
「大丈夫です。ここでのことは、愚才の胸に秘めておきます」
アンタが公主らしさってのを気にしているのなら。俺はこうして抱きしめてやったことを、誰にも言わない。
「すまないな」
「お気になさらず。申し上げたでしょう? 愚才は、貴女さまに全身全霊を以ってお仕えすると」
こうして弱味を晒してくれれば、それを突破口としてアンタを堕とすこともできる。任務を遂行するにあたって、これほど運のいいことはないんだ。
揺れる車。暗い車のなかに、時折突き刺さるように広がる白い光。耳を襲う雷鳴。轍とは違う車の揺れ。
そして、腕の中で小刻みに震え、固まり、また解きほぐれていく柔らかい体。
伝わる熱。吐息。匂い。
「大丈夫です。愚才がついております」
くり返す言葉。幼子をあやすように、くり返し撫でる手。
優しく甘く。作戦通りに。
胸の奥で花のように開こうとする何かを抑えつけて。
*
それにしても。
あの女を陥れようとしているのは誰なんだ?
疑問が浮かんだ。
普段なら、雇い主のことなど一切気にせず、命じられたままに淡々と仕事をこなすんだが。
誰が、あの女を貶めたいと思ってるんだ?
なぜか、ものすごく気になった。
任を与えられた時、詳しく尋ねなかった癖が悔やまれる。
聞いておけば、こんなにも疑問が大きく膨らむこともなかったのに。
最初は、丞相とか政争の相手かと思った。
皇帝の姉として、皇帝をしのぐほどの権勢を持った公主。
皇帝を操り、傀儡としてしまいたい者から見れば、これほど煙たい存在はない。だが、そう簡単に公主を罷免することはできない。
だから、俺を使って「淫蕩な公主」ってのを作り上げようとした。
誰からも非難される公主にしたててしまえば、政の場からアイツは締め出される。願ったりかなったりだ。
だが、それは違う。
アイツは政を牛耳っているが、それは丞相などから相談を受けた結果でもある。
朝に夕に。
丞相をはじめとする九寺五監の文官、禁軍の将軍、校尉、果ては御史大夫までが後宮に赴き、公主に伺いを立てている。
まるで「夜議」。
皇帝の御前で開かれるのが朝議なら、公主の前で開かれるのは夜議。
それも、朝議で決まったことを報告、議論する場ではなく、朝議の前に、予めすべてを決めておくために開かれていると言っても過言ではない状態。
政を牛耳りたいというのであれば、わざわざ後宮に赴いて、公主に相談しに来なくてもいいはず。朝議で取り決めて事後に報告、もしくは報告すら与えなくても問題ない。
となると、それ以外の勢力が?
宦官。皇后の外戚。皇帝の親族。
しかし、どの勢力も決定打に欠ける。
今の皇帝には、寵愛する妃はいるが、まだ誰も子を産んでいない。力を持つ外戚というのは存在しない。
皇帝の親族もだ。
甥を操りたいのなら、自分に味方する臣下を確保するべきだ。なのに、名だたる臣下は公主におもねっている。
宦官もそれは同じ。それどころか、宦官の長、太監は公主の言いなりになり下がっている。これでは牛耳るどころか、牛の耳にすら触れられていない。
軍の誰かが戦を起こしたくて、政を乱そうと公主を貶めるように仕向けた?
公主の治めるこの国は、とても平和だ。暴政に苦しむ者もなければ、重税に喘ぐ声も聞こえてこない。今の治世で戦など、とてもじゃないが起こりそうにない。
このままでは、軍の存在意義が危うくなり、軍内で出世もおぼつかない。そう考えた誰かが、公主を排して国を混乱させようとしている?
だが、軍の長である将軍たちも禁軍三衙たちも。軍の勢力を担う者は、誰もが公主のもとに集っている。公主の閲兵にもついていったが、兵たちは割れんばかりの歓呼で、公主を迎えていた。あれで、そんな迂遠な策を考えている者がいたとしたら、ソイツは軍人をやるより軍師に適しているかもしれない。
じゃあ、誰が?
誰が、あらぬ噂を流した?
公主は淫乱だと。淫蕩に明け暮れる女だと、誰が噂した?
俺が姦淫することで、アイツを貶めることで益を得るのは誰だ?
丞相でなければ。親族、宦官でなければ。禁軍の将たちでなければ。
いったい誰が、益を求めて公主を貶めようとしている?
(いっちょ調べてみるか)
好奇は身を亡ぼす。
仕事に好奇心は不要。
誰かを堕とす時も。誰かを殺す時もそれは同じ。
命じられたこと以外を行えば、それは命取りになる。
相手を深く知ってしまえば、情が生まれ、向けた刃の切っ先が鈍る。
わかっているが。わかっているのだが。
弱者に迷わず差し伸べられた、細く温かい手が。
轟く雷雨に、小さく震えるあの華奢なぬくもりが。
どうしようもなく、俺を好奇へとかき立てていった。




