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巻の三、公主の姿

「いくぞ、蒼月(ソウゲツ)


「い、行くって……、ちょっ……」


ま、待ってくれ。

いくらなんでも。


「お主、弱いな」


俺が弱いんじゃねえ! アンタが強すぎるんだ!


連日連夜続けられる政務。

終わって寝たのは、わずか一刻ほど前。


(この体力化け物女め)


連日連夜続けられるのが閨事だというのなら、俺だってつき合うだけの体力はある。だが、続けられるのが届けられた書の整理、要約、書記となると。


(目が。目がどうにかなりそうだ)


仕える宦官としての俺に用意された房。

簡素な床で、ようやく眠りを得た俺に、容赦なく白く眩しい日差しとともに現れた公主。

目だけじゃない。連日の寝不足からくる軽い頭痛。同じ姿勢でいたことからくる全身のコリ。眩しい日差しが疲れに追い打ちをかけてくる。

今日は、せめて日中だけでも静かに過ごしたい。起きることはできても、それ以上のことは無理。そう思うのに。


――今日は施薬院と悲田坊に行くぞ。支度しろ。


(なんでアンタはそんなに元気なんだよ)


アンタだって、空が白むまで届けられた書とにらめっこしてたじゃねえか。

書簡を読み、返答を記す。

ようやく寝床に入ったのは、鶏鳴が聞こえる頃。

それからわずか一刻ほどで目を覚まして、これだ。

施薬院と悲田坊って。

施薬院は、病者を癒すため、無料で施薬してくれる施設。悲田坊は、貧民、孤児を収容している施設。

どちらも公主、それも皇帝の姉が出向くような場所じゃない。どちらも後宮からも皇宮からも遠く離れた場所にある。


アンタが行くべきは、娼館じゃねえのか?

それも、男娼ばかりの店。

アンタの持て余しているだろうその性欲を満足させるなら、そっちに行くべきだろう?


以前の俺なら、そんな悪態をついたはず。

だが。


(このクソ真面目公主め!)


今は別の悪態をつく。


――公主は、夜な夜な男を己の宮に侍らせている。それも複数。


これは、嘘じゃなかった。

公主は、言葉通り文武百官、若いのから年老いたのまで、さまざまな男を宮に招く。

ただ、それは政務を執り行うためであって、閨事をするためではない。

招かれた男たちも、公主に気に入ってもらうための金銀財宝ではなく、嘆願書や奏上書を山と抱えてやってくる。

複数の男を侍らせてはいるが、その理由が違う。


――夜が白むまで男を離さず。朝も起きられずって話だ。


これも微妙に違う。

夜が白むまで喧々諤々。男たちと意見を交わし、そして捧げられた文物を読むから、朝が起きられない。

だが、起きられないのは、わずかな時だけで。日が中天に差し掛かるよりも早く、公主は目を覚ます。

今日も、早朝まで文官とやり合ったかと思えばこれだ。

つき合うこっちは、連日のことで眠くて仕方ないというのに、この体力お化けめ。

細く華奢な体をしてるってのに、どこにそんな力があるってんだ。


「お前が無理なら、別の者を伴にするが――」

「――お供させていただきます」


重い頭を抱えるように手を当て、速攻で返事をする。

こうなったら半ば意地。

頭が重くても、もう少し寝ていたくても。

この女を堕とすまで。何があっても喰らいついて、何があっても必ず堕としてやる!


          *


「――公主さま!」

「公主さまだ!」


施薬院、悲田坊。

施設は違い、収容されている者も様々だが、そこでコイツに対する反応はどちらも同じだった。


公主さまがいらっしゃった!


孤児は、先争うようにこちらに駆け寄って来て、病者は、動けない床の上で公主に手を合わせて拝む。

幼く薄汚い子ども。弱り死を待つだけの異臭を放つ病者。

どちらも、付き添うこちらが二の足を踏みたくなるような相手なのに、公主はなんらためらうことなく彼らに接する。


――みな、息災でいるか。

――食事は足りているか。

――薬は足りているか。

――困っていることはないか。


尋ねるだけじゃない。

薄汚い子を抱き上げて頬ずりするに任せたり、泣く赤子に優しく歌をうたう。

熱を出していれば、その場で水を与えたり、瘡で困っていれば、代わりに掻いてやり薬を塗る。


これが公主のすることか?


施薬院や、悲田坊を慰問する公主というのを、知らないわけじゃない。

身分ある子女は、そういった下層の者のいる施設を訪い、慰める。それが功徳になると、推奨されていることは知っている。

だが、それはあくまで「訪れた」だけで、実際の世話は連れてきた侍女に任せるか、慈悲として薬や食料を置いただけで、サッサと帰ってしまうのが常だ。

こんな、親身になって世話する公主なんて、聞いたことがない。


蒼月(ソウゲツ)。無理しなくていいぞ」


病者の背中に、大きく薬を塗りながら公主が言う。

垢と瘡で荒れた病者の肌。触れるどころか、近づくことさえ抵抗がある異臭を放っている。

それに怯むことなく看病する公主。薬を塗るだけでなく、優しく笑いかけている。


「いえ。大丈夫です」


公主が触れているのに、俺が怯んでどうする。

公主の看る病者の隣、骨と皮だけになった老いた男に「勇気を振り絞って」触れ、「気合意を入れて」椀の水を飲ませる。

表情は、公主と同じ微笑みを湛えられていたかどうか。


「ありがとうなあ、旦那」


病者が俺に感謝を述べる。


「いえ」


短く答えて、放り出したくて仕方ないその体を優しく寝かせる。


「アンタ、あの公主さまにお仕えできて、幸せ者だなあ」

「前世でよほど高い徳を積んだのだろうて」


そんなわけあるか。

心の中で毒づいておく。

どんな徳を積んだら、細作として、人を殺し、人を誑かす奴になるってんだよ。

こうしてニコニコ接しているのは、そうすることであの女に気に入られるためであって、それも任務のためにやってるだけであって。

それ以上でもそれ以下でもないんだ。

俺は、アンタたちが崇めるあの女を堕落させようとしてるんだぞ。

公主のくせに、病者をいたわり、ガキをあやす女。

誰からも崇められ、誰からも讃えられる。

そんな女を、俺は堕落させるつもりなんだぞ。

言ったら、こいつら、嘆きの衝撃で死んでしまうかもな。


          *


雨が来るな。

病者の介護。ガキのお守り。施薬院、そして悲田坊での仕事を終えて外に出た時。

停まっていた車に乗り込むところで雨の匂いに気づく。

見れば、街の西の空が墨を流したように暗い。


雨が来る。


それも大降りの雨が。


「まいったな。できれば尼寺も回っておきたかったんだが」


雨の気配に気づいたのは俺だけでなく、公主も同じだったようだが。


(まだどこか行くつもりだったのかよ)


それも尼寺って。

何しに行くつもりだったんだよ。


「公主さま。お早く還御なさいませ」


雨が降る前に。

車だから、濡れることはないが、それでも雨はうっとおしい。


「そうだな。妃嬪たちにお会いするのはまたの機会にさせていただこうか」


妃嬪?

ああ。先帝の妃嬪たちか。

先帝の妃嬪たちは、先帝が死ぬと全員尼寺に入れられる。そこから、先帝に抱かれていない女は寺を出て結婚することもあるが、基本全員が尼となり、先帝の菩提を弔うのが常。


(そいつらに会ってどうするつもりだったんだ?)


コイツの母親は皇后で、すでに鬼籍に入っている。尼寺に会いたい者など、いないだろうに。


「急ぐぞ、蒼月(ソウゲツ)。雨が降って来る前に宮に帰りたい」


(って。え? うおっ!)


車に俺は乗り込まない。普通、車には、公主と馭者が乗るだけ。付き従う宦官は、徒歩のはず――が。


「今日は特別だ。急ぐからな」


強引に、かなり無理矢理腕を引っ張り車に乗り込まされた。

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