第2話 本の居場所
リンデに来て、ひと月が過ぎた。
床の本は、半分ほど棚に戻った。題名ではなく中身で分けたので、ミアさんは最初、旅行記が薬草の棚にあるのを見て首を傾げていた。
変わったのは棚だけではなかった。
僕は来館した人に、必ず同じことを聞くようにしていた。
「何をお探しですか」
王都の図書館では、利用者は魔導師ばかりで、彼らは自分で目録室の札を引いた。誰かに直接聞かれることは、ほとんどなかった。
ここでは違った。鍬の柄を直したい農夫も、手紙の書き方を知りたい老婦人も、カウンターの前で少し迷ってから口を開く。僕はそれを聞いて、棚の間を歩く。
ある雨の日、ミアさんが困っていた。
「エリオさん、どうしましょう。雨漏りです」
天井から落ちた雨粒が、書架の上段にある古い本を濡らしていた。革の表紙を持ち上げると、頁の端がふやけている。
「ああ、大丈夫ですよ」
僕は机から紙とペンを取った。
古い保存術式を一つ書き、濡れた本の下に敷く。
頁の間から白い光が立ち上がり、水気が細かな霧になって消えた。
「はい。これで大丈夫です」
「…………」
「ミアさん?」
「い、今、魔法を使いました?」
「はい。『古書保存の手引き』に載っている防湿術式です」
「エリオさんって、魔導師だったんですか?」
「いいえ。資格試験に落ちたので」
ミアさんは、なぜか余計に不思議そうな顔をした。
「でも、今の……」
「本に書いてあるとおりにやっただけですよ」
僕は乾いた頁を確かめ、元の棚に戻した。
その日の昼過ぎ、扉が勢いよく開いた。
「熱さましの本、ありますか!」
駆け込んできたのは、十歳くらいの女の子だった。息が上がっている。
「鍛冶屋のニナちゃんです」
ミアさんがカウンターから出てきた。
「お父さんが、昨日から熱が下がらなくて。お医者さん、隣町に行ってて、帰ってくるの明後日だって」
ニナの手は煤で黒く、震えていた。
「熱は、どんなふうに出ていますか。寒気は? 手足に赤い斑点は?」
「……ある。腕に、点々って」
僕は薬草の棚へ向かった。
『北辺旅行記 第三巻』。付録の四頁目。この地方で春先に出る熱病と、銀葉草を使った手当てについて書かれている。
ただし、症状の似た別の病気もある。素人の判断だけで薬を使うのは危険だ。
「ニナちゃん。お父さんの様子を、もう少し教えてください」
話を聞き、該当する頁に紙片を挟んだ。それから、別の本を探す。
「ミアさん、町の薬師さんは?」
「薬屋のおばあさんなら、坂の下に」
「この二冊を持って、ニナちゃんと一緒に行ってもらえませんか。お父さんを診てもらった方がいいと思います」
ミアさんはすぐに頷いた。
二日後、鍛冶屋の主人が図書館に来た。顔色はまだ悪かったが、自分の足で坂を上ってきた。
「薬師のばあさんが、あの本の記述を見て驚いてたよ。医者にも診てもらったが、手当てが早かったから助かったってな」
彼は工具袋を床に置き、壊れかけた書架を見上げた。
「礼の代わりだ。あの棚、直させてくれ」
その日の夕方、閉館の札を出してから、ミアさんが聞いてきた。
「エリオさん。どうして、あの本だってわかったんですか」
「中身を覚えていたので。題名は、本の顔でしかないですから」
「全部、覚えてるんですか」
「棚に戻すときに、一度は開くので」
ミアさんは、しばらく黙って僕を見ていた。
「それ、誰にでもできることじゃないですよ」
言われた意味が、すぐにはわからなかった。
「……そうでしょうか」
「そうです。わたし、ここに五年いますけど、あの付録のこと知りませんでした」
ミアさんは直したばかりの書架を、手のひらでそっと撫でた。
「ニナちゃんのお父さんを助けたのは、エリオさんです」
僕は何と答えればいいのかわからず、カウンターの札を揃えた。
誰でもできる仕事だと、七年間思っていた。
そう思っていたのは、本当に館長だけだったのだろうか。
同じころ、王都の王立魔導図書館では、地下の閲覧室に宮廷魔導師団の副団長が立っていた。
「『防壁術式・改訂写本』を出してくれ。結界の更新期限まで、ひと月を切った」
若い司書のトマスは、自動索引の魔導具に題名を打ち込んだ。
水晶の板に、短い文字が浮かんだ。
『該当なし』
「……ないはずがない。先代の団長が、確かにここへ納めた」
「題名の一覧には、出てこないんです」
トマスは青い顔で、館長室のほうを見た。
その日から、結界の更新に必要な古い魔導書を探す作業が始まった。
必要なのは七冊。
しかし、自動索引の魔導具に題名を入力しても、七冊とも『該当なし』と表示された。
その館長室では、ヴァルター館長が書類の山を前に眉をひそめていた。
「題名どおりに並べたのだ。見つからないなら、最初から無かったのだろう」
机の端には、誰も開いていない引き継ぎ書が、三週間前と同じ場所に置かれていた。




