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第9話 令嬢とマヨネーズサンド


 エレオノーラ・フォン・ヴァルトは、自分が自由な人間ではないことを、物心ついた頃から知っていた。


 北方公爵家フォン・ヴァルト。


 皇族の傍流にして、帝国北方を守る大貴族。ヴァルトハイムの城と港と雪深い森を持ち、代々、皇室の外戚として帝国の玉座を支えてきた家。


 その三女として生まれた時点で、エレオノーラの人生にはいくつもの道が用意されていた。


 けれど、その道を選ぶのは彼女ではない。


 皇族の誰かに嫁ぐかもしれないし、


 有力諸侯の嫡男に嫁ぐかもしれない。


 宮廷に残り、姉や兄を支える役目を与えられるかもしれない。


 どれであったとしても、それはエレオノーラ個人の幸福というより、フォンヴァルト家の血と帝国の均衡のために決められるものだった。


 そのことを、彼女は恨んではいない。


 少なくとも、恨まないようにしてきた。


 公爵家に生まれるとは、そういうことだ。食卓の銀器も、冬の毛皮も、家庭教師も、舞踏会のドレスも、すべてが家の責任と引き換えに与えられる。自分だけが自由でいたいなどと願うには、エレオノーラは少し賢すぎた。


 だけど賢いことと、息苦しくないことは違う。


 だから彼女は、その日、帝都の下町にいた。


 淡い灰色の外套をまとい、髪を帽子の中へまとめ、顔が目立たないよう薄いヴェールを垂らしている。付き添いは侍女のミラだけ。少し離れたところに、公爵家の護衛が一人ついているはずだが、エレオノーラは振り返らなかった。


「お嬢様、本当にこれで最後にしてくださいね」


 ミラが小声で言った。


「最後かどうかは、街が決めるわ」


「街ではなく旦那様が決めます」


「父には、帝都の流行を勉強していると言ってあるもの」


「旦那様は流行の勉強に裏通りの屋台は含めていないと思いますよ?」


 エレオノーラは答えず、屋台の前で足を止めた。


 香ばしいパンの匂いがした。


 薄く切った茹で卵に青い葉野菜。そして塩漬け肉の端切れ。それらを柔らかいパンで挟み、白いソースを塗っている。


 屋台の主人は、手際よくそれを紙に包んだ。


「最近流行りの卵サンドだよ、お嬢さん。いや、奥様かな」


「お嬢さんでいいわ」


 エレオノーラは銀貨を差し出した。


「この白いものは?」


「マヨネーズってやつでさ。チェシーの方から来た味らしい。……いや、まあ、あんまり大きな声で言うもんじゃねえけどな」


 主人は周囲を見回し、声を落とした。


「今は何でもチェシー由来って言うと、面倒があるからね」


 エレオノーラは包みを受け取った。


 チェシー。


 帝国の布告では、いまだにチェシー王国と呼ばれる地。


 だが下町では、時折、違う呼び名が囁かれる。共和国。市民政府。革命。そうした言葉は、役人の前では消えるが、人の舌の奥では消えない。


 屋台の背後の壁には、かすれた文字が残っていた。


 王冠は飢えを救わない。


 半分ほど白い石灰で塗り潰されている。役人が消したのだろう。だが、消しきれていなかった。


 ミラが不安そうに眉を寄せる。


「行きましょう、お嬢様」


「ええ」


 エレオノーラは卵サンドを一口食べた。


 酸味。


 油のまろやかさ。


 卵の黄身と、不思議によく合う。


「……変わった味ね」


「お口に合いませんか」


「いいえ。知らない味だわ」


 知らない味。


 それが、帝都の下町で流行っている。


 宮廷の食卓にはまだ上っていない。少なくとも、エレオノーラは見たことがない。けれど職人街の屋台では、すでに人々がそれを買い、歩きながら食べている。


 世界は、公爵家の食卓よりも早く変わるのかもしれない。


 そんなことを考えながら、エレオノーラは通りを歩いた。


 帝都は華やかだ。


 だが華やかさの下に、細かな軋みがある。


 凱旋を称える掲示板の前で、片腕を吊った元兵士が物乞いをしている。酒場の戸口では、男たちがチェシーの名を口にしかけて、役人風の男が通ると黙る。辻の向こうでは警備隊が若者二人を壁際に立たせ、荷物を調べていた。


 恐れと好奇心。


 誇りと苛立ち。


 勝利の掲示と、敗北の噂。


 帝都の空気は、きらびやかな布の下で熱を持っている。


 エレオノーラはそれを見たかった。


 父や兄たちは政治を会議室で語る。


 廷臣たちは帝国の秩序を美しい言葉で語る。


 だが、秩序の中で暮らす人々が何を食べ、何を恐れて何に笑い、何に怒っているのか。それを知らずに、公爵家の娘として生きていくのは嫌だった。


 その時だった。


 曲がり角から出てきた青年と肩がぶつかった。


「あっ」


 エレオノーラの手から卵サンドが落ちた。


 紙包みは石畳に当たり、白いマヨネーズがはみ出し、レタスが無残に広がった。


 ミラが息を呑む。


 青年は即座に足を止めた。


「申し訳ありません」


 背筋の伸びた青年だった。


 年は二十歳前後。旅慣れた革靴に、質素だが手入れされた外套。首には灰青色の布を巻いている。腰に剣はないが、背には布で包んだ槍らしきものを背負っていた。


 彼は落ちた卵サンドを見て、本当に申し訳なさそうな顔をした。


「前をよく見ていませんでした」


 エレオノーラは、石畳の上の卵サンドを見下ろした。


 それから青年を見た。


「弁償してくださるかしら?」


 ミラが小さく咳き込んだ。


「お嬢――」


 エレオノーラは、ミラを見ずに制した。


 青年は一瞬だけ目を瞬かせ、それから真面目な顔で頷いた。


「もちろんです」


「当然のように言うのね」


「落としたのは私のせいですから」


「たいていの殿方はこういう時、相手の不注意も数えるわ」


「数えた方がよろしいですか?」


「いいえ。面倒だもの」


「では、数えません」


 妙な青年だった。


 失礼ではない。


 へりくだりすぎてもいない。


 エレオノーラの服装から身分が低くないことは察しているはずだ。だけども、媚びる様子がない。かといって、下町の粗野な男のように馴れ馴れしいわけでもない。


 ただただ、落としたものを弁償する。


 そういう顔をしている。


 青年は屋台へ戻り、卵サンドを二つ買った。


 ひとつをエレオノーラへ差し出す。


「どうぞ」


「二つ?」


「落としたものの代わりと、迷惑料です」


「迷惑料にしては安いわ」


「では、次に私とぶつかる時は、もっと高いものをお持ちください」


 ミラが目を丸くした。


 エレオノーラは思わず笑ってしまった。


 声を出して笑ったのは、久しぶりだった。


 青年も、少しだけ表情を緩めた。


「おいしいですか、それ」


「初めての味ね」


「私も一度食べました。レイバーは「卵に金をかけすぎだ」と言っていました」


「レイバー?」


「友人です。金の話ばかりします」


「いい友人ね」


「そうでしょうか?」


「金の話をする人は、たいてい命の話もできるわ」


 青年は少し驚いた顔をした。


「面白いことを言いますね」


「あなたも、変な返しをするわ」


「よく言われます」


「貴族なのに?」


 エレオノーラは、あえてそう言った。


 青年の所作、言葉遣い、背筋。すべてが、ただの平民ではないと告げている。だが、帝都の上流貴族とも違う。どこか地方の風がある。


 青年は少し困ったように笑った。


「貴族かどうかは、サンドイッチを落としたことと関係ありますか」


 その答えに、エレオノーラはまた笑いそうになった。


「たいていの人は、関係があるように振る舞うわ」


「では、たいていではないのでしょう」


「自分で言うのね」


「あなたが先に言ったので」


 ミラが今度こそ小声で言った。


「そろそろ……」


 エレオノーラは頷いた。


 長く話しすぎた。


 彼女はまだ、自分が誰かを明かしていない。明かすつもりもない。青年も、名乗ってはいない。


 だが、去る前に、それだけでは少し惜しいと思った。


「あなたの名前は?」


 青年は一礼した。


「ロビンです」


「ロビン」


 エレオノーラはその名を繰り返した。


 どこか、灰色の風に合う名だと思った。


「私はエリー」


 ミラが背後で小さく息を呑んだ。


 青年、ロビンは気づかなかったのか、気づいても聞き流したのか、ただ頷いた。


「エリーさん。次は、ぶつからないよう気をつけます」


「次があるの?」


「帝都は広いようで、狭いですから」


「そう。では次は、もっともっと高いものを持って歩くことにするわ」


「覚悟しておきます」


 エレオノーラは新しい卵サンドを手に、ロビンへ軽く会釈した。


 ミラに促され通りを進む。


 数歩歩いたところで、振り返りたくなった。


 だが、振り返らなかった。


 公爵家の娘は通りで出会った青年を何度も振り返ったりしない。


 それでも、エレオノーラはロビンという名を覚えていた。


 灰青色の首布。


 まっすぐな背筋。


 サンドイッチを落としたことに身分を持ち込まない青年。


 変な人。


 そう思った。


 そして、少しだけ楽しくなった。




   ◇




 その楽しさは長くは続かなかった。


 日が傾き始めた頃、エレオノーラは帰路についた。


 公爵家の帝都屋敷へ戻るには、中央区へ抜ける広い道を使うのが一番安全だ。だが、その日は凱旋後の警備強化で大通りが一部封鎖されていた。ミラは渋い顔をしながら、少し細い通りへ入ることを提案した。


「遠回りになりますが、人通りはあります」


「ええ」


 エレオノーラは頷いた。


 しかし、二つ目の角を曲がった時、違和感があった。


 人通りが、急に薄い。


 店は開いているのに、通行人が少ない。


 路地の向こうで誰かがこちらを見てすぐに目を逸らした。


 護衛はどこにいるのか。


 エレオノーラは振り返ろうとした。


 その瞬間、背後で短い悲鳴が上がった。


 ミラだった。


「ミラ!」


 振り返る前に、口元を布で塞がれた。


 薬の匂い。


 腕を掴まれる。


 男が二人、いや三人。


 エレオノーラは抵抗しようとした。だが、相手は手慣れていた。外套ごと腕を押さえられ、路地の脇に止めてあった荷車の影へ引き込まれる。


 叫べない。


 息が苦しい。


 視界が揺れる。


 それでも、彼女は必死に周囲を見た。


 石畳の欠けた路地。


 黒い樽。


 魚油の匂い。


 男の袖に縫い付けられた、赤茶の糸。


 荷車の車輪に、銀鹿の焼き印。


 覚えなければ。


 見なければ。


 ただ攫われるだけではいけない。


 そう思ったところで、意識が遠のいた。


 最後に浮かんだのは、なぜかロビンの顔だった。


 卵サンドを差し出す、あの真面目な顔。


 次は、もっと高いものを持って歩くことにするわ。


 そんな軽口を言った自分を、エレオノーラはどこか遠くで思い出した。


 そして、闇が落ちた。


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