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第8話 凱旋という名の敗走



 季節も変わらぬ内に、帝国軍は思ったより早く帰ってきた。


 帝国軍は、勝利して戻ってきたことになっていた。


 少なくとも、宮廷の布告はそう告げていた。


「チェシー王国を不法に占拠する反乱分子に対し、皇太子殿下率いる帝国直轄軍は堂々たる懲罰を加えた!南方公爵軍は敵の西部拠点を焼き、東方公爵軍は北方街道を脅かし、反乱分子は帝国の威光を思い知った!」


 作戦目的は達成された。


 ゆえに、軍は、帝都へ凱旋する。


 布告官はそう読み上げた。


 帝都の大通りには、また群衆が集まった。


 二月前の出陣式ほどではない。けれど、勝利の軍を迎えるには十分な人数だった。商人たちは酒を売り、子どもたちは木の槍を持ち、貴族の従者たちは主人の席を確保するために早くから場所取りをしていた。


 ロビンたちも、前と同じ石段の近くにいた。


 灰青色の首布を巻いた若者たちが、十数人ほど並んでいる。


 全員ではない。


 今日は護衛仕事に出ている者もいれば、ハルト道場で稽古を任されている者もいる。


 それでも、町道場の若い鷹たちは、大通りの隅でよく目立った。


「凱旋、ね」


 レイバーが言った。


「何か引っかかるのか」


 ロビンが尋ねると、レイバーは肩をすくめた。


「何もかもだ」


「またそうやって」


「出陣式の時は、三日前から酒場が軍人で溢れてた。今日は少ない。馬商人も浮かれてない。補給商も、な。勝って戻る軍にしては、金の匂いが薄い」


「金の匂いで戦況を読むなよ」


「金の流れは嘘をつかねえ」


 ローレンスが小さく頷いた。


「確かに、護衛仕事の依頼も増えてる。東方街道から逃げてきた商人が、荷を急いで帝都へ運びたいって」


「東方街道?」


 ロビンは眉をひそめた。


 東方公爵軍が北からチェシー王国へ入ったはずの街道だ。


「噂では、あっちが荒れてるらしい」


「噂だろう」


「噂は、全部は信じない。でも、全部捨てるのも、もったいないよ」


 ローレンスらしい言い方だった。


 リッカは腕を組んで、大通りの向こうを見ていた。


「ねえ、軍旗少なくない?」


 その一言で、ロビンも気づいた。


 軍列が、見えてきた。


 先頭には帝国旗がある。皇太子の旗もある。白と金の近衛騎兵もいる。だが、出陣式の時と比べて、列の色が少ない。


 南方公爵軍の深紅の旗は見える。


 しかし、東方公爵軍の黒緑の旗が、ほとんどない。


 いや、あるにはある。


 ただし、旗布は破れ、竿は短く継がれ、掲げる兵の顔色は悪かった。


 群衆は、それでも歓声を上げた。


「皇太子殿下万歳!」


「帝国万歳!」


「反乱分子に鉄槌を!」


 大通りの上、馬上の皇太子は手を上げた。


 出陣式の時と同じ銀の鎧。同じ紫の外套。同じ、遠くから見れば美しい姿。


 だが、ロビンは違和感を覚えた。


 皇太子の馬が痩せている。


 近衛騎兵の列に、空きがある。


 補給馬車の車輪には泥がこびりつき、騎士たちの外套には切れ目が残っている。中には、腕を吊った兵や、包帯を巻いた兵もいた。


 勝った軍にも傷はある。


 それはわかる。


 だが、これは勝利の傷なのか?


 ロビンには、まだ判断できなかった。


 布告官が声を張り上げる。


「皇太子殿下は、チェシー王国に巣食う反乱分子へ相当の打撃を与え、帝国の威信を示された! 反乱分子は我らが進軍を恐れ、奥地へ逃げ込み、もはや帝国に抗する気概を失ったのである!」


 拍手が起きる。


 だが、拍手の中にもざわめきが混じっていた。


「東方公爵様は?」


 誰かが小声で言った。


「姿が見えない」


「代理の将がいる」


「まさか」


「黙れ」


 近くの役人が鋭く睨んだ。


「凱旋の日に不吉を口にするな!」


 その声音は、怒りというより恐れに近かった。


 レイバーが小さく息を吐いた。


「やっぱり妙だ」


「何がだ」


「負けた軍の匂いがする」


 リッカが珍しく黙った。


 ローレンスは手帳を閉じた。


 リオン・フォン・アルトベルクは、石段の少し後ろで軍列を眺めていた。彼は、歓声にも拍手にも加わらない。


「リオン」


 ロビンが声をかけると、リオンは目だけを向けた。


「お前はどう見る」


「公式には勝利だ」


「公式には?」


「公式でないものは、ここでは口にしない方がいい」


 リオンはそう言って、軍列へ視線を戻した。


 その言葉が、妙に重かった。




   ◇




 真実に近い話は、凱旋式の大通りではなく、東区の酒場にあった。


 その夜、レイバーは行商人を連れてきた。


 男は四十がらみで、片耳が欠けていた。名はジェバという。東方街道を主な商路にしており、灰鷹たちには何度か護衛を頼んだことがある。


 ハルト道場の離れは、いつもより静かだった。


 レイバーが扉を閉め、ローレンスが帳簿を片づけ、リッカが窓の外を確認する。リオンは壁にもたれ、腕を組んでいる。


 ジェバは酒を一口飲み、声を落とした。


「東方公爵軍は、負けた」


 誰も口を挟まなかった。


「負けたなんてもんじゃない。崩れた。総大将は戦死。騎士も魔術師も、何人も倒された。街道の宿場に、負傷兵が溢れていた。帝国の役人は口止めに必死だが、あれだけ人が流れれば隠せん」


「新兵器か」


 レイバーが言った。


 ジェバは頷いた。


「火を噴く筒だ」


 部屋の空気が変わった。


「火を噴く筒?」


 リッカが眉をひそめる。


「魔術師か」


「違う。平民兵だ。鎧もろくに着ていない兵が、筒を構えて火をつける。音が鳴る。煙が出る。次の瞬間、騎士が落ちる」


「馬上騎士が?」


 ロビンは思わず聞いた。


「ああ。胸甲に穴が空いていたやつもいた。魔術師が詠唱を始める前に倒れたって話もある」


「ありえない」


 リッカが言った。


 しかし声は強くなかった。


 ジェバは首を振った。


「俺も最初はそう思った。だが、東方街道を戻る荷馬車に乗っていた兵が、同じ話をした。別の宿場で会った傭兵も同じだ」


「南方公爵軍と皇太子軍は」


 ローレンスが尋ねる。


「東方軍が崩れた後、反乱分子は返す刀で南方軍へ向かった。皇太子軍も巻き込まれた。壊滅じゃない。そこまでは言わん。だが、勝って帰った軍の顔じゃなかった」


 沈黙。


 遠くで、帝都の鐘が鳴った。


 ロビンは軍列を思い出した。


 痩せた馬。


 破れた旗。


 空いた列。


 包帯の兵。


 布告官の声。


 相当の打撃を与えた。


 作戦目的を達成した。


 反乱分子は奥地へ逃げた。


「なぜ、負けを認めない」


 ロビンの声は、自分でも驚くほど低かった。


 ジェバは苦い顔をした。


「総大将が皇太子殿下だからだろう。皇太子殿下が負けたとは言えん。東方公爵軍の壊滅も、手違いとか、局地的な不運とか、そんな言い方にするんじゃないか」


 レイバーが笑った。


 笑いではなかった。


「負けた軍を勝ったことにできるなら、帳簿も楽でいいな」


 ローレンスが静かに言った。


「帳簿は、嘘を書くと後で破綻するよ」


「国も同じだろ」


 リオンが初めて口を開いた。


 全員が彼を見る。


 リオンは壁から背を離さなかった。


「国も家も、負債を隠せば腐る。違うか?」


 ロビンは答えられなかった。


 ジェバは酒を飲み干し、立ち上がった。


「俺が言ったとは言うなよ。商売ができなくなる」


「もちろん」


 ローレンスが頷く。


 レイバーは小さな包みを渡した。


「約束の分だ」


「助かる」


 ジェバは包みを懐に入れ、扉へ向かった。


 そして、出る直前に振り返った。


「レイバー。例のもの、明日の夜だ。東区の廃倉庫。金を忘れるなよ。」


「わかってる」


 ロビンは眉をひそめた。


「例のもの?」


 レイバーは、目を逸らした。


「ちょっとした買い物だ」


「お前がそう言う時は、大抵ちょっとしていない」


「今回は、だいぶちょっとしていない」




   ◇




 翌日の夜、レイバーは有り金の半分以上を失って戻ってきた。


 そして、布に包まれた長いものを抱えていた。


「何それ」


 リッカが即座に聞いた。


「新しいおもちゃ」


 レイバーは真顔で言った。


 ローレンスが額を押さえた。


「おもちゃにしては、高かったね?」


「値段の話はするな…心が折れる…」


「もう折れてるのは財布だよ…」


 レイバーは離れの中央に布を広げた。


 中から現れたのは、黒い鉄の筒だった。


 木の床に置かれた瞬間、部屋の空気がまた変わった。


 火薬筒。


 東方街道で騎士を落としたという新兵器。


 ロビンはそれを見下ろした。


 思っていたよりも、無骨だった。


 美しくない。


 槍のような線もない。


 剣のような輝きもない。


 ただ、鉄と木と穴がある。


 だが、そこに何か冷たいものが宿っているように見えた。


「本物か」


 リオンが尋ねた。


「たぶんな」


 レイバーは答えた。


「壊れてる。火皿の部品が欠けてるし、筒も少し歪んでる。だが、構造を見るには十分だ」


「どこで手に入れた」


 ロビンが聞く。


「聞くな」


「聞かない方がいい場所か?」


「聞いたらお前の眉間に皺が増える場所だ」


 リッカが覗き込んだ。


「これで騎士が倒れるの?」


「弾と火薬があればな」


「魔法は?」


「点火に小さな火がいる。平民でも灯せる程度の火だ」


 その言葉に、ロビンは顔を上げた。


 強い魔術は、貴族の血に宿る。


 それは帝国の常識だった。


 貴族が火を操り、雷を呼び、氷を張る。平民にできる魔法など、灯火をつける程度。だから戦場では、魔術師も騎士も、血筋と訓練を必要とする。


 だが、この火薬筒は違う。


 小さな火で、人を殺す。


 それも、騎士を。


「嫌な道具だな」


 ロビンは言った。


「嫌な道具だ」


 レイバーは頷いた。


「だから知らなきゃまずい」


 彼は火薬筒を持ち上げ、慎重に分解を始めた。


 ねじを外し、木部を外し、火皿を覗き込み、筒の内側を布で拭う。大工の息子らしい手つきだった。木と鉄の組み合わせを、目で測り、指で確かめる。


 リッカは退屈そうにしていたが、目だけは離さない。


 ローレンスは、支出帳に大きな赤字を書いていた。


 リオンは黙って見ている。


 ロビンは、槍を抱えて座った。


 火薬筒は、静かだった。


 しかし、その静けさが不気味だった。


 レイバーは小さな紙に図を書き始めた。


「弾はここから入れる。火薬も同じ。棒で突いて固める。火皿に火薬を置く。火を近づける。爆ぜる。中の弾が飛ぶ」


「遅くない?」


 リッカが言った。


 レイバーの手が止まった。


 そして、彼はにやりと笑った。


「そこなんだよ」


「何が」


「撃つまでは怖い。撃った後は遅い。次を込めるまで、かなり時間がかかる」


 彼は床に木片を並べた。


「一発撃つ。煙が出る。視界も悪い。そこから火薬を入れ、弾を入れ、突き固め、火皿を整える。慣れた兵でも時間がいる。雨ならもっと悪い。近づかれたら終わりだ」


 リッカの目が光った。


「じゃあ、撃たせてから突っ込めばいい」


「雑だが、間違ってない」


 レイバーは火薬筒を叩いた。


「こいつは怖い。だけど、遅い」


 その言葉は、離れの中に残った。


 怖い。


 けれど、遅い。


 ならば戦えるのか。


 ロビンはそう思った。


 バーゼル雷槍術なら、一息に詰められる。


 リッカの槍なら、撃った後の兵を倒せる。


 レイバーなら、この道具の隙を見つけられる。


 帝国軍を打ち破った新兵器。


 だけど、完全ではない。


 そう思えたことにロビンは少しだけ安堵した。


 その安堵が、後にどれほど甘かったのか。


 その時のロビンは、まだ知らない。




   ◇




 火薬筒の研究は数日にわたって続いた。


 レイバーは寝不足になった。


 目の下に隈を作り、食事中も火皿の構造を考え、道場の稽古中にも「装填」と呟いていた。


「新しいおもちゃだな」


 リッカがからかうと、レイバーは真面目な顔で返した。


「おもちゃで騎士が死ぬなら、帝国軍は玩具屋に負けたことになる」


「笑えない」


「笑わせる気はない」


 ローレンスは財布の中身を確認しながらため息をついた。


「そのおもちゃのせいで、今月の仕送りが少し遅れる」


「それは本当にごめんって」


 レイバーは珍しく素直に謝った。


「…だけど…必要だった」


「わかってるよ」


 ローレンスは苦笑した。


「だから腹が立つんだ。必要な出費って、削れないからね」


 その夜、ロビンたちは離れの壁に掛かった旗の下で、灰青色の首布を新しく配った。


 きっかけは、近所の職人組合からの礼だった。


 揉め事を収めた報酬として、布屋の親方が余り布を安く譲ってくれたのだ。色は灰と青の間。グラウフェルトの空と、帝都の石畳を混ぜたような色だった。


「また首布?」


 リッカは少し不満そうだった。


「いつか短いマントにしよう」


 ロビンが言うと、彼女は目を輝かせた。


「本当に?」


「いつかだ」


「いつかって便利な言葉だよね」


「今は金がない」


 レイバーが即座に言った。


「夢がない」


「夢は隊長が持ってる」


 お決まりのやり取りに、周囲の若者たちが笑った。


 ローレンスは針を持ち首布の端を縫っている。


「ほつれ止めくらいはしておかないと」


「お前、何でもできるよな」


 レイバーが言う。


「できないと家で困ったからね」


 リオンは受け取った首布をしばらく眺めていた。


「巻かないのか?」


 ロビンが尋ねる。


 リオンはわずかに笑った。


「安い布だ。」


「そうだな」


「貴族の身につけるものではない」


 周囲が少し静かになる。


 けれどもリオンは続けた。


「だから今の私たちにはちょうどいい」


 そう言って、彼は灰青色の首布を首に巻いた。


 ロビンは少し驚いた。


 リオンは相変わらず冷めている。


 だけど、完全に拒んでいるわけではない。


 灰青色の首布を巻いた若者たちが、離れに並ぶ。


 まだ公式な制服ではない。


 帝国に認められたものでもない。


 ただの安い布だ。


 それでも、ロビンの胸は熱くなった。


 出陣式の騎士たちがまとっていた白と金の外套には及ばない。


 皇太子の紫の外套には遠く及ばない。


 だが、これは自分たちで揃えたものだ。


 町の人たちからもらった仕事で得たものだ。


 路地裏で、道場で、荷馬車の横で、汗をかいて手に入れたものだ。


「似合うじゃないか」


 ロビンが言うと、リッカは胸を張った。


「あたしは何でも似合う。」


「そういうところだぞ」


 レイバーが呆れる。


 笑いが起きた。


 その笑いの中で、火薬筒だけが部屋の隅に置かれていた。


 黒い鉄の筒。


 静かな、新しい時代の道具。


 帝国軍は、勝利して戻ってきたことになっている。


 だが、ロビンたちの小さな離れでは、誰もがもう知っていた。


 帝国は傷を負った。


 そしてその傷口から、これまで知らなかった匂いが漏れ始めている。


 火薬の匂いだ。


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