第7話 町道場の若い鷹たち
帝都の朝は、グラウフェルトよりも早い。
夜が明けきる前からパン屋の窯には火が入り、職人街では槌の音が鳴る。馬車は石畳を軋ませ、行商人は荷を積み、下働きの少年たちは水桶を担いで路地を走る。
ハルト槍剣道場の離れでも、その朝はいつも通りに始まった。
「起きろ。寝坊した奴から朝飯抜きだ」
レイバーの声が響いた。
返事の代わりに、何人もの呻き声が上がる。
離れは、二年前にロビンたちが借りた時よりも、ずいぶん手狭になっていた。
壁は補修され、床板は張り替えられ、雨漏りはどうにか止まっている。だが、その分、人が増えた。寝台と呼べるものは少なく、床に敷いた毛布で寝る者もいる。槍、木剣、旅荷、護衛仕事用の革鎧、干し肉の袋、帳簿、予備の靴。そんなものが狭い空間に詰め込まれていた。
灰鷹隊。
そう名乗っているわけではない。
少なくとも、表向きには。
帝都では、勝手な自警団は認められていない。治安は帝都警備隊と騎士団の管轄であり、武装した若者が集団で路地を歩けば、まず疑われる。
だからロビンたちは、自分たちを隊とは呼ばなかった。
仕事を請ける時は、ハルト道場の門弟。
行商人を守る時は、臨時の護衛。
揉め事を収める時は、ただの用心棒。
けれど、街の人々はいつの間にか別の名で呼ぶようになっていた。
町道場の若い鷹たち。
最初にそう呼んだのが誰か、ロビンは知らない。
近所のパン屋の女将だったかもしれない。荷を守ってもらった行商人だったかもしれない。あるいは、リッカに叩きのめされた不良が悔し紛れに言ったのかもしれない。
何にせよ、その名は残った。
ハルト道場の離れには、いまや数十人の若者が出入りしている。
全員が寝泊まりしているわけではない。職人の家から通う者、商家の三男、退役兵の息子、地方から出てきた剣士、食い詰めた元傭兵、騎士団の試験に落ち続けている者。事情はそれぞれ違う。
だが、灰青色の首布を巻けば、彼らは同じ離れの仲間だった。
その首布も、最初はレイバーが安く仕入れた余り布だった。
「もっと見栄えのするやつがよかった」
リッカは今でもそう文句を言う。
「金がない」
レイバーは毎回同じ答えを返す。
「短いマントとかー」
「金がない」
「銀の留め具とかー」
「金がない」
「夢がない!」
「夢は隊長が持ってる。俺は釘と帳簿と現実を持つ」
そのやり取りを聞くたび、ロビンは苦笑するしかなかった。
隊長。
いつからか、周囲はロビンをそう呼ぶようになっていた。
公式な役職ではない。
帝国から認められた部隊でもない。
だが、行商人の護衛を受ける時も、職人街の揉め事に呼ばれる時も、誰かが最初にロビンを見る。ロビンが頷けば動く。レイバーが段取りを決め、ローレンスが人数と報酬を計算し、リッカが先頭で槍を担ぐ。
リオン・フォン・アルトベルクは、少し離れたところでそれを見ていることが多かった。
彼はこの二年で、灰鷹の中でも一、二を争う腕利きになっていた。礼儀正しく、判断も冷静で、槍も剣も使える。だが、どこか距離がある。
仲間ではある。
けれど、手書きの旗を見て笑うような男ではない。
「今日は東門の荷馬車護衛が三件、午後からハルト先生の門弟稽古、夕方に職人組合の仲裁」
ローレンスが帳簿を読み上げた。
「あと、パン屋の女将さんから、裏路地の酔っ払いをどうにかしてほしいって」
「それは仕事か?」
リッカが尋ねる。
「焼きたてパン三つ」
「仕事だね!」
即答だった。
レイバーが鼻で笑う。
「お前はパンで動く槍か」
「パンで動かない槍より役に立つよ」
「言ってろ」
ロビンは首布を結び直し、離れの壁に掛けられた旗を見た。
灰鷹の旗。
グラウフェルトの秘密基地に残してきた、最初の布ではない。これは帝都で描き直したものだ。リッカの絵は少しだけ上達した。鷹の足は二本になり、嘴も少し短くなった。
だが、どこか不格好なままだった。
それがいい、とロビンは思っている。
完璧な紋章旗ではない。
貴族の広間に飾られるものでもない。
だからこそ、彼らの旗だった。
「隊長」
道場の入口から、若い門弟が顔を出した。
「大通り、もう人が集まってます。出陣式、始まるみたいです」
離れの空気が少し変わった。
出陣式。
帝国直轄軍が、チェシー王国へ向けて出る日だった。
◇
中央大通りは、人で埋まっていた。
商人、職人、貴族の従者、子ども、老人、旅人。窓から身を乗り出す者もいれば、屋根の上に登っている者もいる。帝都中の視線が、大通りへ集まっていた。
ロビンたちは、職人街に近い石段の上からその列を見下ろした。
灰青色の首布を巻いた若者たちが、数十人。全員が揃っているわけではないが、それでも目立つ。警備隊に睨まれないよう武器は最小限にしているが、槍使いの集まりであることは隠せない。
「多いな」
ローレンスが呟いた。
「多い」
レイバーは大通りを眺めながら答えた。
「だが、もっと多いのは金だ」
「またそれ?」
リッカが呆れる。
「見ろ。軍馬、甲冑、補給馬車、従者、魔術師、工兵。あれだけ動かすのに、どれだけ麦と銀がいると思ってる」
「知らない」
「知らない奴が戦争を派手だと思うんだ」
レイバーの声には、茶化しだけではない何かがあった。
ロビンは黙って軍列を見た。
先頭に立つのは、帝国近衛騎兵。
白と金の外套。磨かれた胸甲。長槍の穂先には小さな帝国旗が揺れている。馬は大きく、毛並みは艶やかで、蹄の音は石畳に規則正しく響いた。
その後ろに、皇太子の軍旗。
群衆がどっと沸いた。
「皇太子殿下だ!」
「殿下万歳!」
「帝国万歳!」
皇太子は若く、美しい騎馬姿だった。
銀の鎧に、紫の外套。遠目にも貴人とわかる背筋。彼が手を上げると、歓声はさらに大きくなった。
ロビンの胸が熱くなる。
あれが帝国の軍列。
あれが、騎士のいる場所。
自分が夢見た場所。
しかし、ロビンは石段の上にいる。
灰青色の安い首布を巻き、町道場の仲間たちと、群衆の一人として見ている。
槍は持っている。
腕も磨いた。
街の人々には認められつつある。
けれど、あの列には並べない。
それが、悔しかった。
「ロビン」
リッカが横から小さく言った。
「見すぎ」
「そうか」
「顔に出てる」
「どんな顔だ」
「置いていかれた犬みたいな顔」
「ひどいな」
「ひどいけど合ってる」
ロビンは苦笑した。
だが、否定できなかった。
リオンが、少し後ろから軍列を見ていた。
その目は冷めている。
「華やかなものだ」
リオンは言った。
「不満そうだな」
ロビンが尋ねると、リオンは肩をすくめた。
「華やかさで勝てるなら、帝国は無敵だろう」
「勝つさ」
ロビンは反射的に言った。
「チェシー王国の反乱分子に、帝国軍が負けるはずがない」
リオンはロビンを見た。
何か言いかけて、やめたようだった。
大通りの向こうで、布告官が高らかに声を張り上げる。
「皇太子殿下は、チェシー王国を不法に占拠する反乱分子を討ち、正統なる王権を回復し、神授の秩序を乱す賊徒に懲罰を加えんとするものである!」
群衆が拍手した。
帝国兵たちは胸を張る。
布告官はさらに続けた。
「卑しき平民どもが王を称し、国を乱し、朝貢を拒み、帝国の恩義を忘れたる罪、断じて許されざるものなり!」
共和国。
その言葉は、一度も出なかった。
出してはならない言葉なのだと、ロビンにもわかった。
帝国にとって、チェシーはあくまで王国だった。
王を倒した者たちは、政府ではない。賊だ。
市民ではない。反乱分子だ。
新しい国など存在しない。
そう言い続けること自体が、帝国の威信なのだ。
群衆の後ろの方で、誰かが小さく言った。
「でも、もう共和国なんだろ」
隣の男が慌てて肘で小突く。
「馬鹿、聞こえるぞ」
近くにいた役人風の男が、鋭く振り返った。
「その名で呼ぶな」
小声だった。
だが、怒りははっきりしていた。
「チェシーは王国だ。王国でなくてはならん」
それを聞いたレイバーが、ほんの少しだけ目を細めた。
「怖いんだな」
「何が」
ロビンが聞く。
「名前だよ」
レイバーは大通りを見たまま言った。
「人間、どうでもいいものなら、呼び名くらいであんな顔しねえ」
ロビンは答えられなかった。
その時、皇太子の軍旗が石段の前を通った。
歓声が一段と高くなる。
ロビンは背筋を伸ばした。
旗が通る。
帝国の軍旗。
皇太子の外套が風を受ける。
騎士たちの槍が、朝の光を受けて輝く。
その美しさに、疑いなど挟みたくなかった。
いつか、必ず。
ロビンは拳を握った。
いつか必ず、自分もあの列に並ぶ。
バーゼルの槍を持って。
灰鷹の仲間たちと共に。
皇帝陛下の御楯として。
「隊長」
レイバーが言った。
「何だ」
「悔しいか」
「……ああ」
「なら覚えとけ」
レイバーは珍しく茶化さなかった。
「あの列に並びたいなら、まず生きて帝都で食っていくことだ。夢は飯の後だ」
「わかっている」
「いや、お前はたまに忘れる」
ローレンスが小さく笑った。
「でも、今日は忘れてもいい日かもしれない」
「甘やかすな」
レイバーが言う。
リッカは大通りの槍騎兵を見つめていた。
「あの馬、いいな」
「槍じゃなくて馬か」
「両方。あれに乗って突いたら、絶対速い」
ロビンは彼女の言葉に、父の声を思い出した。
お前が本物の軍馬を得た時、この槍はもう一度変わる。
その日は、まだ遠い。
だが、遠いだけだ。
届かないとは限らない。
帝国軍の列は、長く長く続いた。
皇太子の直轄軍。
魔術師隊。
工兵。
補給馬車。
傭兵隊。
そして、南方公爵軍との合流を告げる使者たち。
東方公爵軍もまた、北からチェシーへ向けて進軍しているという。
帝国は本気だった。
いち村長が王を倒し、朝貢を止め、王権神授を否定した小国に対して、帝国は威信を賭けて懲罰を加える。
誰もが勝利を疑っていなかった。
群衆は笑い、商人は酒を売り、子どもたちは木の枝を槍に見立てて兵隊の真似をした。
ロビンたちも、その中にいた。
数十人の若い鷹たち。
まだ公式な部隊ではない。
騎士でもない。
帝国の歴史から見れば、路地裏の若者たちに過ぎない。
それでも、彼らは同じ方向を見ていた。
帝国軍は、意気揚々と帝都を出ていった。
軍旗は朝日に輝き、馬蹄は石畳を打ち、皇太子の名を呼ぶ歓声は門の外まで続いた。
ロビンはその背を見送った。
胸の中の悔しさを、消さないように握りしめながら。
いつか必ず、あの列に並ぶ。
その時、彼はまだ知らなかった。
その華やかな軍列が、どんな沈黙を連れて戻ってくるのかを。




