第6話 田舎者たちの帝都
見えてきた帝都の門は、ロビンが想像していたよりも大きかった。
グラウフェルトの北部要塞も大きいと思っていた。シーベルト火山の麓に立ち、半島へ続く平野を睨むあの古い城塞は、少年だったロビンにとって世界の果てそのものだった。
だが、帝都の門は違った。
それは守るための門というより、訪れる者に思い知らせるための門だった。
石壁は高く、幅は広い。門楼には帝国の紋章旗が翻り、鎧を着た衛兵たちが槍を立てている。門の左右には魔法灯が昼間から淡く光り、青銅の扉には歴代皇帝の勝利を刻んだ浮き彫りが並んでいた。
諸侯を平らげた建国皇帝。
北方の異民族を退けた皇帝。
西方の王を跪かせた皇帝。
東方の小国に朝貢を誓わせた皇帝。
トゥーゲンフルス帝国の歴史が、そこには石と青銅で刻まれていた。
ロビンは、思わず足を止めた。
「…すごい」
声が漏れた。
胸の奥が震えていた。
ここが帝都。
皇帝陛下の都。
先祖が守った国の中心。
バーゼル家が、いつか戻るべき場所。
そう思った瞬間、荷袋の紐を肩に食い込ませながら、レイバーが隣でぼそりと言った。
「…門を見るだけで金取られそうだな」
「なんでそうなる」
「見ろよ、あの石。あの飾り。あの衛兵の鎧。全部、誰かの税でできてる」
「帝国の威光だろう」
「威光は腹に溜まらねえ」
レイバーは、早くも帝都の物価に怯えていた。
実際、門の外の宿場町で聞いた宿代は、グラウフェルトの三倍だった。パンも高い。干し肉も高い。馬車代など論外だ。ロビンたちは、最後の丘を越える前から徒歩で帝都入りするしかなかった。
「ねえ、あれ騎士団?」
リッカが前方を指差した。
門をくぐった大通りの向こう、白い外套をまとった一団が馬で進んでいる。槍の穂先には小さな飾り房が揺れ、馬具は磨かれ、騎手たちは背筋を伸ばしている。
ロビンは息を呑んだ。
騎士。
本物の帝都騎士だ。
「構えが甘い」
リッカが言った。
ロビンは振り返った。
「今、それを言うのか」
「だって、槍の角度が高すぎる。あれじゃ突く前に脇が開く」
「儀仗だろ。戦場の構えじゃない」
「じゃあ飾りか」
「飾りではない」
「飾りじゃん」
リッカは不満そうに鼻を鳴らした。
ローレンスはその横で、手帳に数字を書き込んでいた。
「どうした」
ロビンが尋ねると、ローレンスは真剣な顔で答えた。
「この物価で、家にいくら仕送りできるか計算している」
「帝都に入る前からか」
「入ってからだと遅いだろう」
「お前は本当に偉いな」
「偉いというより、不安なだけだよ」
四人は門をくぐった。
帝都は、音で満ちていた。
馬車の車輪。石畳を叩く蹄。商人の呼び声。職人の槌音。遠くの鐘。通りを走る子ども。どこかの店から漏れる音楽。香辛料の匂い、焼いた肉の匂い、馬糞の匂い、香水の匂い、人の汗の匂い。
グラウフェルトの灰の風とはまるで違う。
世界が、ここに集まっている。
そう思えた。
同時に、その世界はロビンたちを見ていなかった。
通行人は四人を避ける。
商人は足元から頭まで眺めて、興味を失う。
大通りの衛兵は、ロビンの古い外套とレイバーの荷袋とリッカの短槍を見て、少し目を細める。
「田舎から来たのか」
通行証を確認した衛兵が言った。
「グラウフェルトより参りました」
ロビンは背筋を伸ばした。
「ロビン・フォン・バーゼルです。騎士団への仕官を志しております」
衛兵は一瞬、顔を上げた。
「バーゼル?」
「はい」
「……聞いたことはあるな」
ロビンの胸が高鳴った。
「先々代陛下の御代に――」
「昔の話だろう」
衛兵は通行証を返した。
「騎士団の受付は中央区だ。だが、推薦状がなければ並ぶだけ無駄だぞ」
「推薦状なら、父のものが」
「地方道場の師範からか?」
衛兵の声に、悪意はなかった。
悪意はなかったから、余計に刺さった。
「帝都には、推薦状を持った者が山ほど来る。諸侯の子、現役騎士の子、軍学校の首席、金で馬を三頭連れてくる商家の次男。まあ、試すだけなら止めん」
衛兵は次の通行人へ目を向けた。
「行け」
ロビンは通行証を握りしめた。
レイバーが隣で小さく笑った。
「よかったな。聞いたことはあるってよ」
「笑うな」
「笑ってねえよ。半分しか」
「半分笑ってるじゃないか」
「全部笑うより礼儀正しい」
リッカが槍を担ぎ直した。
「騎士団の受付、行くんでしょ」
「ああ」
ロビンは答えた。
胸の痛みを、無理やり押し込めた。
ここまで来たのだ。
門番に言われたくらいで、夢を畳むわけにはいかない。
だが、帝都は門番だけで終わらなかった。
◇
騎士団の受付は、中央区の広場に面した白い石造りの建物にあった。
ロビンたちは半日並んだ。
列には、身なりの良い若者が多かった。磨かれた革靴。家紋入りの外套。従者を連れた者。馬を預けてきた者。軍学校の修了証を手にした者。
ロビンの外套は古く、レイバーの靴は旅の泥で汚れ、リッカは何度も退屈して槍の柄を回し、ローレンスは列に並びながら干し肉を四等分していた。
受付の下級騎士は、疲れた顔をしていた。
「氏名」
「ロビン・フォン・バーゼル」
「家格」
「男爵家です。現在は――」
「現在は?」
「地方名士としてグラウフェルトに」
下級騎士は筆を止めた。
「つまり、中央の任官記録はない」
「先々代陛下の時代には、我が家は」
「先々代陛下の時代の話は、別の窓口だ」
彼は慣れた様子で言った。
「推薦者は」
「父、ヨハン・フォン・バーゼル。バーゼル雷槍術師範」
「現役騎士ではない」
「はい」
「軍学校歴は」
「ありません」
「所有馬は」
ロビンは一瞬、言葉に詰まった。
「ありません」
下級騎士は顔を上げた。
責めるでも、馬鹿にするでもない。
ただ、事務的に不可能なものを不可能と見る目だった。
「騎士志望で、馬がない」
「槍術には自信があります」
「槍術に自信がある者も、山ほど来る」
下級騎士は紙に何かを書き込んだ。
「今年度の公開選抜はすでに締め切っている。次は早くて来年の春だ。もっとも、地方枠は戦況と予算次第で、二年待たされる者もいる。受けたければ仮申請を出せ。ただし、騎士団本採用には推薦者、馬、装備、後見人が必要になる。従騎士補ならば可能性はあるが、それも競争だ」
「早くて来年の春」
「そうだ」
「それまで、帝都で何を」
「それは騎士団の問題ではない」
紙を一枚渡された。
申請書だった。
ロビンはそれを受け取った。
下級騎士は次の志願者へ目を向ける。
「次」
それで終わりだった。
ロビン・フォン・バーゼルの、帝都騎士団への最初の挑戦は、紙一枚で終わった。
建物を出ると、リッカが怒っていた。
「何あれ」
「受付だ」
「そうじゃなくて。あいつ、ロビンの槍見てもないじゃん」
「見る前の条件があるんだよ」
レイバーが言った。
「馬、装備、後見人、推薦者。つまり金とコネだ」
「最低」
「世の中の半分はそれで動いてる」
「もう半分は?」
「もっと嫌なもので動いてる」
ローレンスが申請書を覗き込んだ。
「早くて来年なら、それまでに滞在費を稼がないとね」
「半年」
ロビンは呟いた。
帝都に着けば、何かが始まると思っていた。
だが、始まる前に、まず待てと言われた。
待つには金がいる。
食うにも金がいる。
夢を見るにも、宿代がいる。
「宿を探そう」
ロビンは言った。
「安いところを」
「一番大事な言葉だ」
レイバーが頷いた。
◇
安い宿は、安い理由があった。
最初に見た宿は、寝床に藁の臭いが染みついていた。二番目の宿は、壁が薄すぎて隣の喧嘩が丸聞こえだった。三番目の宿は、主人がリッカを見て「女連れなら別料金」と言ったため、リッカが無言で槍の石突きを床に打ちつけ、候補から外れた。
途方に暮れかけたところで、ローレンスが町道場の看板を見つけた。
帝都東区、職人街の端。
石畳の大通りから外れた路地に、その道場はあった。
看板には「ハルト槍剣道場」とある。
中からは、木剣の打ち合う音が聞こえた。
「道場なら、泊めてくれるかもしれない」
ローレンスが言った。
「そんな都合よくいくか?」
レイバーが疑う。
「地方の道場から来たと言えば、話くらいは聞いてくれるかも」
「追い出されたら?」
「その時は、四番目の臭い宿に戻る」
「絶対嫌」
リッカが即答した。
道場主のハルトは、白髪交じりの男だった。
帝都の町道場らしく、貴族よりも商人や職人の子弟が多い。剣と槍を教えているが、どちらかといえば護身と用心棒向けの実戦道場だった。
ロビンが名乗ると、ハルトは目を細めた。
「バーゼル雷槍術か」
「ご存じですか」
「昔、北方の騎士に見せてもらったことがある。もっとも、馬上の型だったがな」
「今の我が家では、徒歩槍術として伝えています」
「ほう」
ハルトは道場の中央に立ち、木槍を一本投げた。
「見せてみろ」
ロビンは荷物を下ろし、木槍を受け取った。
旅の疲れはあった。
受付での落胆もあった。
だが、槍を握れば、余計なものは少し消える。
ハルトは短槍を構えた。
町道場の師範だが、構えに隙はない。年を取っているが、足は生きている。
「遠慮はいらん」
「では」
ロビンは踏み込んだ。
雷は使わない。
室内で、初対面の相手に奥義を見せる必要はない。
だが、バーゼルの踏み込みは雷がなくとも速い。
一歩目で間合いを詰め、二歩目で穂先の角度を変える。ハルトの短槍が受けに動いた瞬間、ロビンは穂先を引いて、柄で相手の手元を押さえた。
ハルトの目が少し見開かれる。
次の瞬間、ロビンの穂先は喉元にあった。
静かになった。
道場の門弟たちが、ぽかんと見ている。
ハルトは喉元の木槍を見て、それから笑った。
「なるほど。北方の槍だ」
ロビンは槍を引いた。
「失礼しました」
「いい。久しぶりに楽しいものを見た」
ハルトは腕を組んだ。
「離れがある。雨漏りするし、床は傾いている。だが、寝るだけなら使える」
「本当ですか」
「ただし、ただではない。昼はうちの門弟に槍を教えろ。夜は掃除。あと、揉め事は持ち込むな」
レイバーが小さく言った。
「揉め事は向こうから来る場合もある」
「その場合は外で片づけろ」
ハルトは即答した。
リッカがにやりとした。
「いい道場じゃん」
こうして、ロビンたちは帝都で最初の寝床を得た。
道場の離れは、本当に傾いていた。
扉は軋み、壁には隙間があり、床板の一部は踏むと沈む。雨漏りの跡もある。だが、秘密基地に比べれば立派なものだった。
「新しい基地だな」
レイバーが荷物を放り投げた。
「基地って歳でもないだろ」
ローレンスが言う。
「旗があれば基地だ」
リッカが荷袋から布を取り出した。
子供の頃の手書きの灰鷹旗ではない。
あれは古くなりすぎて、グラウフェルトの秘密基地に残してきた。
これは、その写しだった。
リッカが描き直した、不格好な灰の鷹。
昔より少しだけ上手くなっている。
少しだけだ。
「どこに掛ける?」
リッカが尋ねる。
レイバーは壁を叩いて、比較的ましな板を探した。
「ここだな。落ちにくい」
「釘は?」
「ある」
「なんで持ってるの」
「大工の息子だからだ」
レイバーは荷袋から釘と小槌を出した。
ローレンスが笑った。
「帝都まで釘を持ってきたのか」
「釘は役に立つ。夢よりな」
「夢も役に立つ」
ロビンは言った。
レイバーは小槌を振り上げながら答えた。
「じゃあ、夢はお前が持て。釘は俺が持つ」
釘が壁に打ち込まれる。
灰鷹の旗が、帝都の傾いた離れに掛かった。
グラウフェルトの見張り台跡から、帝都の職人街へ。
小さな旗は、また少しだけ高い場所に来た。
◇
帝都での暮らしは、夢よりも先に仕事を要求した。
騎士団の公開選抜は、早くて来年の春。遅ければ二年後。
その間、ただ待っていれば腹が減る。
ロビンはハルト道場で槍を教えた。最初は門弟たちも半信半疑だったが、数日もすると態度が変わった。バーゼルの槍は、帝都の町道場では珍しい。特に短い踏み込みから一気に間合いを奪う技は、護衛や用心棒を志す者たちに好まれた。
リッカは門弟相手に勝ちすぎて、ハルトに「少し手加減を覚えろ」と叱られた。
レイバーは道場の壊れた戸を直し、ついでに近所の職人から仕事をもらい始めた。さらに、行商人の護衛仕事を探してくるようになった。
ローレンスは帳簿をつけた。
収入、支出、仕送り予定額。
彼の帳簿がなければ、一月で破産していたかもしれない。
帝都では、自警団を勝手に名乗ることはできない。
治安は帝都警備隊と騎士団の管轄だ。許可なく武装集団を作れば、即座に取り締まられる。
だからロビンたちは、灰鷹隊を名乗らなかった。
少なくとも、表向きには。
仕事は用心棒、護衛、道場稽古、荷運び、揉め事の仲裁。
どれも騎士とは程遠い。
だが、少しずつ人が集まった。
地方から来た剣士。
商家の三男。
帝都で仕事を失った元兵士。
腕はあるが身元が弱く、騎士団にも商会にも入れない者たち。
彼らは、ハルト道場の離れに掛かった灰鷹の旗を見て、笑ったり、興味を持ったり、酒の肴にしたりした。
その中に、ひとり、笑わない男がいた。
年はロビンと同じか、少し上。
黒に近い紺色の外套をまとい、髪は短く整えられている。立ち姿は貴族的で、礼儀も正しい。だが、目が冷たかった。
「リオン・フォン・アルトベルク」
彼はそう名乗った。
アルトベルク家。
ロビンはその名を知っていた。
かつて南方で鉱山と山城を持っていた貴族家。だが、政争と借財で所領を失い、今ではほとんど名だけが残っていると聞く。
没落貴族。
ロビンと同じだった。
「バーゼル雷槍術を見たい」
リオンは言った。
「入門希望ですか」
「そう取ってもらって構わない」
言葉は丁寧だった。
だが、どこか試すようだった。
ロビンは木槍を差し出した。
「では、構えてください」
リオンは受け取った。
細身の剣士かと思ったが、槍の扱いも知っている。構えは整っており、無駄がない。
レイバーが壁にもたれて見ていた。
リッカは目を細める。
ローレンスは帳簿を閉じた。
最初に動いたのはリオンだった。
速い。
だが、直線的ではない。
貴族の稽古で身につけた綺麗な槍ではなく、実戦で削られた槍だ。穂先が揺れ、ロビンの目を誘う。次の瞬間、石突きが足元を狙った。
ロビンは引いた。
リオンが踏み込む。
ロビンは、そこで半歩だけ前へ出た。
バーゼルの間合い。
相手が押してくる力を、こちらの踏み込みに重ねる。
木槍が交差した。
乾いた音が鳴る。
リオンの穂先が跳ね上がり、ロビンの槍が胸元で止まった。
勝負は短かった。
だが、リオンの目は変わらなかった。
「なるほど」
彼は言った。
「没落しても、槍は残るわけだ」
ロビンは眉を動かした。
悪意ではない。
しかし、棘はあった。
「アルトベルク家にも、残っているものはあるでしょう」
「あるさ」
リオンは木槍を返した。
「だから、ここへ来た」
レイバーが小さく呟いた。
「面倒そうなのが来たな」
リッカが同じく小声で返す。
「でも強い」
「強い面倒が…一番困るね」
ローレンスは苦笑した。
ロビンはリオンを見た。
同じ没落貴族。
同じように、帝都で何かを取り戻そうとしている男。
だが、彼の目には、ロビンたちの旗を見ても熱は灯らなかった。
灰鷹の旗が、傾いた壁で揺れている。
帝都に来て、ロビンたちはまだ何者でもなかった。
騎士ではない。
公式な部隊でもない。
自警団ですらない。
ただの田舎者たちだ。
だが、離れの壁には旗があった。
手書きの灰の鷹。
ロビンはそれを見上げた。
グラウフェルトの丘で掲げた時と同じように、胸の奥が少し熱くなった。
帝都はまだ、彼らを知らない。
騎士団も、貴族たちも、宮廷も、誰も知らない。
けれど、この傾いた離れから、ロビンたちの帝都での暮らしは始まった。
夢はまだ遠い。
金は少ない。
世間は冷たい。
それでも、旗は掛かった。
ならば、ここが新しい基地だった。




