第5話 最初の銃声
チェシー王国の春は、五年前と同じ匂いがした。
雨の後の土と、鶏舎の藁と、川沿いに咲く白い花の匂い。けれど、その匂いを吸い込んだ人々の顔つきは、五年前とはまるで違っていた。
あの年、流行り病が村をなめつくし、王女が帝国から送り返され、誰もが黙って歯を食いしばった。
あれから五年。
リトミシュの町は、少しだけ大きくなった。人も増えた。だが、増えたのは希望だけではない。
帝国の税も、徴発も、監督官の高圧も、増えていた。
広場では毎月のように荷車が並ぶ。麦袋。羊毛。銀。若い男の労役。帝国に納めるものは尽きず、納めてもまだ足りないと責められる。チェシーの人々は、国が自分たちを守るためにあるのか、それとも帝国へ差し出すためにあるのか、もうわからなくなっていた。
その一方で、西の方からは奇妙な噂が届く。
帝国の向こう側の大国で、王を倒した共和国ができたらしい。
王冠を捨て、市民が国を語り、兵が民に従い、身分ではなく言葉と票で物事を決めるのだという。
酒場でそれを聞いた若者たちは、最初は笑った。笑ったあとで、黙った。
誰かが言った。
「王が神に選ばれたものなら、どうしてあっちは王を倒したんだ」
誰かが答えた。
「神が王を選んだんじゃない。人が、勝てば王を神だと思い込んだだけだ」
それは危険な言葉だった。
だが危険だからこそ、火はよく燃えた。
チェシーの若者たちは、細い川の向こうにある市場へ行くたび、その話を繰り返した。共和国。市民。権利。自由。王冠は当然ではない。税を払う民にこそ国がある。
まだ誰も、声高には言わない。
だが、水面下では、革命の気配が育っていた。
その火種を、シャルルは危ういものだと思っていた。
彼はもう、単なる地方役人ではない。養鶏所の主として卵を売り、病人を見て、子どもに種痘を施し、土の改良や鶏の飼い方まで口を出す男として、リトミシュでは名士になっていた。
妻は村長の娘だった。
若い頃、彼がまだ何者でもなかった時に、村の集まりで偶然言葉を交わし、そのまま離れなかった相手だ。村長の娘というだけで、もっと穏やかな男を選べと言う者もいた。けれど彼女は、シャルルの静かな頑固さを好んだ。
妻は今、台所でパンを焼いていた。
「またそんな顔をして」
と、背中越しに言う。
シャルルは窓辺で帳面を閉じた。
「顔に出ているか」
「ずっと出ているよ?」
「革命の機運が、だいぶ広がってきた」
「広がりすぎている、と言いたいんでしょう?」
「そうだ」
妻は生地を打ちつける手を止めなかった。
「若い子たちは、共和国の話を聞くと、すぐ自分も市民になったつもりになる。あの子たちが嫌いじゃないけれど、嫌な予感もする」
「私もそう思う」
「じゃあ、止めなさいよ」
「止められるなら、そうしたさ」
シャルルは小さく息を吐いた。
彼の手には、火薬の臭いが残っている。
誰にも見せずに整備してきた火薬筒。鉄の筒。点火器。弾を込める仕組み。最初は「護身用」と言い訳できた。盗賊が増えたからだ。街道が危ういからだ。帝国軍の小競り合いに巻き込まれた時、村を守るためだと。
だが、本当は違う。
シャルルは、あれを村全体に配るつもりはなかった。
まだ早いと思っていた。
銃は人を守る。
同時に、人を変えてしまう。
火を知った者は、もう鍬だけでは我慢できなくなる。
誰かに撃たれたくないから、先に撃ちたくなる。
その先に、何があるか。
彼は知っていた。
知っていたからこそ、隠していた。
その日の昼過ぎ、事態は先に転がった。
町外れの街道を、王国の兵が通った。
正規の大軍ではない。徴発と検分のための小隊だ。収穫期に備え、若者の人数を数え、家畜を見て、税が足りない家を責める。王の名を掲げているが、やっていることは帝国の監督官と大差ない。
若者たちは、それを恨んでいた。
広場でまた税を増やされたからではない。
先週、兵が飲み代を払わずに酒場を荒らしたからでもない。
毎日毎日、じわじわと喉元を締められてきた、その先にある怒りだった。
彼らは、待っていなかった。
街道の曲がり角で、若い男たちが石を投げた。
ひとりが叫ぶ。
「もう、やめろ!」
兵のひとりが盾を上げる。
次の瞬間、鍬が振るわれた。
誰が最初だったのか、もうわからない。
村の若者たちは、王国の兵を奇襲した。
兵は三人いた。
ひとりが倒れ、ひとりが逃げ、ひとりが剣を抜いた。若者のうちの誰かが、相手を深く斬った。血が飛んだ。悲鳴が上がった。逃げた兵が街道の先へ走る。
その場が、しんと静まり返った。
若者たちの息だけが聞こえる。
倒れた兵は、まだ生きている。
だが、長くは持たないだろう。
「やった」
ひとりが言った。
別のひとりが、すぐに顔を青くした。
「やった、じゃない」
「でも、もう」
「もうじゃない。あれが逃げた」
ひとりが街道の先を指差した。
「討伐が来る…!」
その言葉に、広場で酒を飲んでいた老人たちも、畑から戻った女たちも黙った。
ここは封建の国だ。
兵を殺せば、兵だけで済まない。
村が責任を負う。
村長が責められる。
畑が踏まれる。
家が焼かれる。
税は増える。
場合によっては、見せしめの吊るし首もある。
誰もがそれを知っていた。
だからこそ、顔が真っ青になった。
「…馬鹿なことを」
シャルルが言ったのは、怒鳴り声ではなかった。
低く、押し殺した声だった。
若者たちは、そこで初めて彼に気づいたように振り返った。
「先生!」
「先生じゃない」
シャルルは街道の先を見た。
逃げた兵が、もう見えなくなっている。
討伐軍は来るだろう。早ければ明日、遅くても数日だ。村を丸ごと締め上げ、首謀者だけで済ませるはずがない。
若者たちは、ようやく自分たちが何をしたのかを理解し始めていた。
誰かが泣きそうな声で言った。
「だって、あいつらが」
「わかっている」
シャルルは答えた。
「だが、わかっていても、越えてはならない一線がある」
村長の家から、妻が走ってきた。
「どうしたの」
彼女は血を見て、顔をこわばらせた。
若者たちのひとりが、村長の娘である彼女の声に縮こまった。
シャルルは一瞬だけ目を閉じた。
この村は、もう逃げられない。
連帯責任。
帝国の時代から続く、古くて醜い仕組みだ。誰か一人の火が、全員の家を燃やす。
しかも今回は、相手は王国の兵だった。
帝国への怒りを煽り、共和制を夢見ていた若者たちの先走りは、村全体を破滅へ連れていく。
妻が、シャルルの袖を掴んだ。
「来るのね」
「来る」
「どれくらいで」
「早ければ明日」
妻は唇を噛んだ。
「村の若い子たちが……」
「わかっている」
「止められる?」
「もう遅い」
シャルルはそう言ってから、奥歯を噛んだ。
遅い。
だが、まだ終わってはいない。
彼の視線は、納屋の扉の奥へ向いた。
そこには、布に包んだ長い筒がある。
火薬筒。
隠してきた銃だ。
彼は、村人を守るために作った。
村人が自分で人を撃つようになるのを恐れて、ずっと隠してきた。
だが、討伐軍が来るなら話は別だ。
若者たちが一線を越えた今、隠したままでは済まない。
村はもう、鍬だけでは守れない。
シャルルは納屋へ向かった。
妻が後ろから追う。
「シャルル」
「なんだ」
「それを出すの」
彼は振り返らずに言った。
「出す」
「本当に?」
「本当だ」
「止めたんじゃなかったの?」
「止めたかった」
布を解く手が、ほんの少しだけ震えた。
「けれど、村が焼かれるなら、もう止めていられない」
布の中から現れたのは、黒く磨かれた金属筒だった。
短く、無骨で、まだ粗い。
だが、それでも鍬ではない。
槍でもない。
火を閉じ込めた筒だった。
若者たちが目を丸くする。
「それが……」
「銃だ」
シャルルは言った。
「撃つのか」
「撃たせるつもりだ」
それが何を意味するのか、彼は言わなかった。
いや、言えなかった。
銃は、誰でも使える。
だが、誰もが使えば、誰でも人を殺せる。
それは平等に近い。
そして、平等に恐ろしい。
妻が、静かに言った。
「もう、戻れないね…」
「戻れない」
「この村も」
「たぶん」
遠くで、馬の蹄が聞こえた。
ひとつではない。
複数だ。
見張り台に駆け上がった若者が叫ぶ。
「軍だ!」
みな一斉に振り返った。
街道の向こう、土埃を上げて軍旗が近づいてくる。
討伐軍だ。
早い。
想像より、ずっと早い。
村の誰かが、泣き出した。
誰かが、「どうして」と呟いた。
だが、どうしても何もない。
兵を殺したからだ。
封建の世では、それで十分だった。
シャルルは火薬筒を手に取り、まだ震える若者たちを見た。
「聞け!」
彼の声は、初めて村中に通る大きさだった。
「逃げる者は逃げろ!残る者は残れ!だが、もう鍬だけでは足りない」
若者たちが、息を呑む。
「撃ち方を教える。使い方を教える。だが、一度撃てば、もう元には戻らない」
妻が、納屋の扉を閉めた。
外の蹄の音が、だんだん大きくなる。
「それでも…」
シャルルは火薬筒を掲げた。
「生き残りたいなら、選べ!」
最初の銃声は、まだ鳴っていない。
だが、もはや誰の耳にも、それが近いことはわかっていた。
この五年、チェシーの春を覆っていた屈辱と怒りと病と朝貢と沈黙が、ようやく火を吹こうとしている。
そしてその火は、帝国の向こう側へも、やがて広がっていく。
その日の夜、チェシー王国の各地にはまだ、誰も知らないうちにひとつの噂が走り始める。
共和制を望む者たちがいる。
民が王に従うだけの時代は終わるかもしれない、と。
だが、シャルルにはそんなことを考える余裕はなかった。
彼の目の前には、村を踏み潰そうと近づく討伐軍がいるだけだった。
そして、隠していた火薬筒が、今まさに火を待っていた。




