第4話 リッカとローレンス
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言わなければならない。
そう思いながら、僕は三日間、何も言えずにいた。
帝都へ行く。
ロビンがそう言い、レイバーが当然のように乗り、リッカが木槍を担いで「あたしも」と言った時、僕も心のどこかではもう決めていた。
行きたい。
灰だらけのグラウフェルトを出て、帝都を見てみたい。ロビンが皇帝陛下の御楯になるというなら、その隣に立ってみたい。レイバーが名を上げるというなら、あいつが本当にどこまで行くのか見届けたい。リッカが槍一本で帝都へ行くというなら、誰かが止めなければならない。いや、たぶん止められないから、せめて一緒に行くしかない。
そんな言い訳を、僕は何度も頭の中で並べた。
けれど、家に帰るたびに言葉は喉で止まった。
「兄ちゃん、これ直して」
末の妹が、取っ手の取れかけた木の人形を差し出してくる。
「あとでね」
「今がいい」
「わかった。じゃあ釘じゃなくて、紐で結ぼう。釘だと割れるから」
僕が床に座ると、すぐに弟たちも寄ってきた。
次男は薪を運ぶかごを抱え、三男は芋の皮を剥く母の横で居眠りしかけている。家の中は狭く、暖炉の火は小さい。けれど弟妹たちの声がある時だけ、この家は広く感じられた。
父が死んだのは、僕が八つの時だった。
それから母は、一人で僕たち四兄妹を育てている。
針仕事をし、洗濯を請け、畑の手伝いに出て、時には市場で余った野菜を値切って買う。僕もできることはしてきた。薪割り、荷運び、道場の雑用、近所の屋根直し。レイバーの父親の仕事を手伝ったこともある。
だから、言えなかった。
帝都へ行きたいなどと。
母を置いて。
弟妹を置いて。
僕だけ、自分の未来を選びたいなどと。
「ローレンス」
母の声で、僕は顔を上げた。
「手が止まっているよ」
「あ、ごめん」
人形の腕を直すつもりが、紐を持ったままぼんやりしていた。
母は何も聞かなかった。
それが、余計につらかった。
母はいつもそうだ。聞かない。急かさない。僕が自分で言うまで待つ。だから僕は、余計に言えなくなる。
たぶん母は、レイバーのことをよく思っていない。
そう僕は思っていた。
口が悪くて、喧嘩っ早くて、大工の父親から端材を勝手に持ち出して秘密基地を作るようなやつだ。母から見れば不良に決まっている。しかも最近は、帝都へ行くなどと言い出した。
ロビンは貴族の子だから、母もまだ安心しているかもしれない。
でもレイバーは違う。
僕がレイバーとつるんでいることを、母はきっと心配している。
だからなおさら言えなかった。
その夜、弟妹たちが寝静まってからも、僕は暖炉の前に座っていた。
火はほとんど消えかけていた。赤い炭が、灰の中で鈍く光っている。外では風が吹き、壁の隙間が細く鳴った。
明日こそ言おう。
いや、朝は忙しい。
昼に言おう。
でも母は仕事へ行く。
なら夜に。
そんなことを考えているうちに、三日が過ぎた。
「帝都へ行きたいのだろう」
背後から声がした。
僕は振り返った。
母が、寝間着の上に古い肩掛けを羽織って立っていた。
「母さん」
「火の番にしては、ずいぶん深刻な顔をしているね」
母は僕の隣に座った。
昔より小さくなったように見える。いや、母が小さくなったのではない。僕が大きくなったのだ。
そのことに気づいて、胸が苦しくなった。
「誰から聞いたの」
「誰からも」
「じゃあ、どうして」
「母親だから」
母は当たり前のように言った。
「それに、あんたは嘘が下手だ。ここ三日、薪を割っていても、芋を剥いていても、弟に算術を教えていても、ずっと帝都の方を見ていた」
「見えるわけないよ。帝都なんて」
「だから余計にわかるんだよ」
僕は黙った。
暖炉の中で、炭が小さく崩れた。
「ごめん」
ようやく出た言葉は、それだった。
「母さん、僕は」
「謝ることじゃない」
「でも」
「ローレンス」
母は僕の名を呼んだ。
子どもの頃から、叱る時も、褒める時も、母は同じように僕の名を呼ぶ。
「あんたは、いい子だよ」
僕は息を止めた。
「父さんが亡くなってから、ずっと私を助けてくれた。弟たちの面倒も見てくれた。妹の人形を直し、薪を割り、家にお金を入れ、泣き言も言わなかった」
「それは、長男だから」
「違う」
母は静かに首を振った。
「いい子だからだよ」
喉の奥が熱くなった。
「でも、いい子だからって、何もかも背負わせていいわけじゃない」
「母さん」
「親が一人しかいないという理由で、お前の未来を摘みたくない」
母は暖炉を見つめたまま言った。
「本当はね、怖いよ。お前がいなくなったら、この家はもっと大変になる。弟たちは寂しがる。妹は泣く。私も、たぶん泣く」
「だったら」
「でも、それでも行きたいんだろう」
何も言えなかった。
母は僕の答えを待たなかった。
「レイバーやロビンと行きたいのだろう」
僕は驚いて母を見た。
「レイバーのこと、嫌いなんじゃ」
「口の悪い子だとは思っているよ」
母は少し笑った。
「でも、不良だとは思っていない」
「そうなの」
「あの子は、あんたを悪い方へ引っ張る子じゃない。むしろ、あんたが立ち止まりすぎる時、背中を蹴る子だ」
「蹴るのは本当にやりそうだな」
「ロビン様は、前だけを見ている。レイバーは、足元を見ている。あんたは、後ろを気にしすぎる」
母は僕を見た。
「だから、ちょうどいいんじゃないかい」
その瞬間、こらえていたものが崩れた。
「行っても、いいの」
「行っておいで」
「でも、家は」
「なんとかする」
「なんとかって」
「なんとかしてきただろう。これまでも」
母の声は少し震えていた。
それでも、笑っていた。
「それに、帝都で稼いだら仕送りしてくれるんだろう?」
「もちろん」
「なら、胸を張って行きなさい。逃げるんじゃない。選ぶんだよ」
僕は母に抱きついた。
子どものように。
いや、たぶんその時の僕は、まだ子どもだった。
母は細い腕で僕を抱き返した。背中を撫でる手は、針仕事で荒れていた。洗濯水で冷え、薪で傷つき、それでもずっと僕たちを抱いてきた手だった。
「ごめん」
「謝らない」
「ありがとう」
「それは、受け取るよ」
僕たちはしばらくそうしていた。
火が落ち、部屋が暗くなっても、母の手の温かさだけは残っていた。
出発の朝、弟妹たちが起きる前に、僕は家を出た。
寝台のそばに立ち、ひとりずつ顔を見る。
次男は布団を蹴飛ばしていた。三男は妹の人形を抱えて眠っていた。末の妹は、昨日直した人形の腕をしっかり握っている。
「行ってくる」
声には出さなかった。
出せば、起こしてしまう。
起きれば、行けなくなるかもしれない。
だから僕は、声に出さずに言った。
母は戸口に立っていた。
小さな包みを渡してくれる。
「パンと干し肉。あと、靴下」
「靴下?」
「帝都まで歩くんだろう。穴が空く」
母らしいと思った。
僕は笑い、また泣きそうになった。
「行ってきます」
「行っておいで、ローレンス」
外に出ると、グラウフェルトの朝はまだ薄暗かった。
シーベルト火山の影が、村を灰色に沈めている。
道の先には、ロビンとレイバーが待っているはずだった。
僕は包みを背負い直し、歩き出した。
初めて、自分で選んだ道を。
◇
私は、ロビンの背中を見るのが嫌いだ。
理由は簡単。
追いかけたくなるからだ。
道場で槍を構える時も、秘密基地へ走る時も、丘の上で旗を掲げる時も、ロビンはいつも少しだけ前にいる。本人にそのつもりはないのかもしれない。むしろ、あいつは時々ぼんやりしている。貴族のくせに抜けているし、真面目すぎるし、怒ると黙る。
でも、前にいる。
だから腹が立つ。
私がどれだけ速く突いても、どれだけ木槍で勝っても、ロビンはいつも私の行きたい場所を先に口にする。
帝都へ行きたい。
騎士になりたい。
皇帝陛下の御楯になりたい。
そんなことを真顔で言う。
馬鹿みたいだと思った。
でも、胸が熱くなった。
だからもっと腹が立った。
「駄目だ」
父は、私の話を最後まで聞かなかった。
家の作業場で、父は壊れた荷車の車輪を直していた。太い指で金具を押さえ、木槌を振るう。私が「帝都へ行く」と言った瞬間、その木槌が止まった。
「もう一度言え」
「帝都へ行く」
「誰と」
「ロビンたちと」
「駄目だ」
早かった。
槍より速い拒絶だった。
「まだ何も説明してない」
「聞く必要がない」
「あるでしょ」
「ない」
父は車輪に目を戻した。
「お前は一人娘だ」
「それが何」
「帝都がどんな場所かわかっているのか」
「大きい場所」
「そういう話ではない」
「じゃあ何」
「危ない場所だ」
父の声は低かった。
「地方の道場で槍が少し強いくらいで、どうにかなる場所じゃない。貴族もいる。騎士もいる。金で人を買う者もいる。女を物のように見る者もいる。お前みたいに口の減らない小娘が、無事でいられると思うな」
「小娘じゃない」
「小娘だ」
「もう十五」
「俺から見れば、昨日まで木槍を引きずっていた子どもだ」
私は歯を食いしばった。
父は間違っていない。
それが余計に腹立たしかった。
私は一人娘だ。
母は私が幼い頃に亡くなった。父は男手一つで私を育てた。仕事の合間に食事を作り、服を縫い、熱を出せば夜通し看病してくれた。口は悪いし、頑固だし、私の槍を見ても滅多に褒めない。
でも、大事にされていることくらい知っている。
だから、言いにくかった。
だけど、諦めるつもりはなかった。
「私には槍しかない」
父の手が止まった。
「そんなことはない」
「ある」
「お前には家がある」
「父さんの家でしょ」
「いずれお前の家だ」
「私は、荷車の車輪を直したいわけじゃない」
言ってから、少しだけ後悔した。
父の仕事を馬鹿にしたかったわけではない。
父も、それはわかっていたと思う。
それでも、作業場の空気は重くなった。
「ロビンを追いかけたいのか」
不意に父が言った。
私は息を呑んだ。
「違う」
即答した。
速すぎた。
父がこちらを見る。
「違う」
もう一度言った。
「私は、私の槍がどこまで通じるか試したいだけ」
「本当にそれだけか」
「それだけ」
嘘だ。
全部が嘘ではない。
私は本当に、私の槍を試したい。グラウフェルトの道場では足りない。ロビンに勝ったとか、レイバーの足を払ったとか、ローレンスに止められたとか、そんなことで終わりたくない。
帝都へ行けば、もっと強い人間がいる。
騎士がいる。
槍使いがいる。
私の知らない技がある。
そこへ行きたい。
それは本当だ。
でも、ロビンが行くから行きたいのも、本当だった。
ロビンが帝都で誰かに認められるところを、私は見たい。
ロビンが旗を掲げるなら、その隣で槍を構えたい。
いつかロビンが、私ではない誰かを見るかもしれない。そんなことを考えると、胸の奥がちくりとした。
馬鹿みたいだ。
私は槍があればいい。
そう思っていたのに。
「リッカ」
父の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前は強い」
驚いて顔を上げた。
父が私を褒めることは少ない。
「でも、強いことと、傷つかないことは違う」
「わかってる」
「わかってない」
「わかってる!」
声が大きくなった。
「傷つくのが怖いからって、ここにいたら、私はずっとここにいることになる!」
父は黙った。
「父さんが大事にしてくれたのは知ってる。母さんがいなくて大変だったのも知ってる。私が一人娘なのも知ってる。でも、それで私が何も選べないなら、私は何のために槍を握ってきたの」
胸が苦しかった。
「私には槍しかない。だから、その槍でどこまで行けるか見たい」
父は長い間、何も言わなかった。
外で鶏が鳴いた。
作業場の埃が、窓から差す光の中で揺れている。
やがて父は、車輪の横に置いてあった木槌を手に取った。
そして、私の方へ投げた。
「わっ」
慌てて受け止める。
重い。
父が仕事で使う、小さな木槌だった。柄の部分には古い傷があり、母の名の頭文字が小さく彫られている。
「持っていけ」
「え?」
「帝都の槍が折れたら、それで直せ」
「父さん」
「許したわけじゃない」
父はそっぽを向いた。
「俺は反対だ。今でも反対だ。明日になっても反対だ」
「うん」
「だが、お前は行くんだろう」
「行く」
「なら、手ぶらで行くな」
私は木槌を握りしめた。
急に目の奥が熱くなった。
泣くものかと思った。
泣いたら、父が勝ったような顔をする。
「ロビンに言っておけ」
父は低い声で言った。
「うちの娘を泣かせたら、槍ごと叩き折ると」
「自分で言えば」
「言ったら本当に折る」
思わず笑ってしまった。
父も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その夜、私は荷物をまとめた。
替えの服。手拭い。小さな財布。木槌。そして、使い慣れた木槍ではなく、父が物置の奥から出してきた短めの実槍。
「母さんの兄が使っていたものだ」
父はそう言った。
「穂先は古いが、手入れはしてある」
「ありがとう」
「礼は要らん。返せ」
「折れたら?」
「だから木槌を持たせた」
また少し笑った。
出発の朝、私は父に背を向けた。
振り返らないつもりだった。
でも、門の前で一度だけ振り返った。
父は腕を組んで立っていた。
泣いてはいない。
笑ってもいない。
ただ、いつもの頑固な顔で私を見ていた。
「行ってきます」
「転ぶな」
「子どもじゃない」
「子どもだ」
「もう」
私は槍を肩に担いだ。
道の先には、ロビンたちがいる。
ロビンの背中がある。
腹が立つ。
追いかけたくなる。
だから私は走った。
私には槍しかない。
でも、槍がある。
なら、帝都までだって行ける。




