第3話 バーゼル家の雷槍
あの手書きの旗を掲げた日から、五年が過ぎた。
グラウフェルトの土は、相変わらず黒い。
春になれば灰混じりの泥が靴底に絡み、夏になれば乾いた風が火山灰を巻き上げる。秋には痩せた畑の麦が低く揺れ、冬にはシーベルト火山の斜面に白い雪が残る。
北部要塞も、昔と変わらずそこにあった。
ただ、俺たちは少しだけ変わった。
レイバーは背が伸び、父親譲りの大工仕事で鍛えた腕が太くなった。相変わらず口は悪いが、釘の打ち方と人の動かし方だけは妙に上手い。
ローレンスは穏やかな顔のまま、誰よりもよく働くようになった。家では母親を助け、弟妹の面倒を見て、余った時間だけ道場に来る。昔から優しかったが、その優しさは年々、責任の重さを帯びていった。
リッカは、もう小さな子どもではなかった。
いや、背丈はまだ小さい。だが、槍を持たせると誰よりも速い。勝ち気な目つきも、すぐに噛みつく癖も変わらない。ただし最近は、こちらが油断すると本当に突かれる。
そして俺、ロビン・フォン・バーゼルは十七になった。
没落貴族の息子。
馬を持たない槍の家。
そう呼ばれていた俺は、今も馬を持っていない。
だが、槍は振れる。
「踏み込みが浅い」
父の声が、道場に響いた。
俺は息を整え、木槍を構え直す。
バーゼル家の道場は、町道場だった。
貴族の屋敷にある立派な稽古場ではない。床板は何度も張り替えられ、壁には古い槍傷が残り、天井の梁には灰がうっすら積もっている。だが、この数年で門弟は増えた。
帝国の治安が、少しずつ悪くなっていたからだ。
北の街道には盗賊が出るようになった。戦で職を失った浪人、傭兵崩れ、債務から逃げた農民。そんな者たちが群れ、村や荷車を襲う。帝国軍は遠く、北部要塞の守備隊も昔ほど余裕がない。
だから有力な平民たちは寄り合い、自警団を作るようになった。
そして自警団には、槍がいる。
剣より長く、安く、並べれば強い。馬がなくとも扱える。門弟には商家の息子もいれば、粉屋の次男もいる。ローレンスのように家族を守るために通う者もいる。レイバーは「自警団ってのは名前を変えた喧嘩屋だ」と言っていたが、その喧嘩屋に槍を教えることで、バーゼル家の台所は少しだけましになった。
父はそれを恥とはしなかった。
「槍は戦場だけのものではない」
父はよくそう言った。
「家を守るのも槍だ。道を守るのも槍だ。皇帝陛下の御前で振るう槍だけが、バーゼルの槍ではない」
けれど、その声の奥に、時折消えないものがあるのを俺は知っていた。
父は、かつてのバーゼル家を忘れていない。
道場の正面には、古びた紋章板が掛けられている。
交差する二枚の鷹の羽。
その中央に、一本の槍。
バーゼル家の紋章だ。
子どもの頃から何度も聞かされた。先々代皇帝の時代、バーゼル家は雷をまとった槍で敵陣を裂いた。馬上で振るわれる一撃離脱の電撃槍術。側面を突き、指揮官を討ち、魔術師を黙らせ、敵が体勢を立て直す前に離れる。
聞き飽きた話だ。
聞き飽きたはずだった。
だが、その紋章を見るたび、胸の奥が熱くなるのも事実だった。
「もう一度だ、ロビン」
父が言った。
俺は木槍を構える。
相手は父だった。年を取ったとはいえ、まだ強い。片足をわずかに引き、穂先をこちらの喉に向けているだけで、近づく道がすべて塞がれたように感じる。
「馬上にこだわるな」
父は言った。
「馬は無くとも槍は振るえる」
これも、何度も聞いた言葉だった。
バーゼル雷槍術は、本来、馬上で振るうものだ。
だが、今のバーゼル家に軍馬はない。あるのは荷車を引く老馬だけ。だから父は、雷槍術を徒歩の槍として組み直した。
馬の速度を、人の踏み込みで補う。
馬上の高さを、穂先の角度で補う。
離脱の距離を、体捌きと地形で補う。
没落は、家から多くのものを奪った。
だが、父は奪われた場所に、別の技を植えた。
「雷を外へ放つな。内へ通せ」
父の声が低くなる。
「穂先だけを光らせるな。腕に、脚に、背骨に通せ。お前の身体を動かす命令は、頭から指先へ走る。その道を雷で押せ」
俺は息を吸った。
道場の空気が冷たく感じた。
槍を握る手の中で、小さく魔力を練る。
雷は、扱いを誤れば自分を焼く。火より速く、水より気まぐれだ。初めて稽古した頃、俺は何度も指を痺れさせた。リッカに笑われ、レイバーに「焦げ貴族」と呼ばれ、ローレンスに薬草を塗られた。
今は違う。
槍の穂先に、青白い光が宿る。
ぱち、と小さな音がした。
道場の隅で見ていた門弟たちが息を呑む。
「雷槍」
父が呟いた。
それは奥義の名だった。
雷をまとった穂先で突く。ただそれだけなら、魔術師でも似たことはできる。バーゼルの雷槍は違う。
体内を走る神経の命令を、雷魔法で補強する。
一瞬だけ、身体が速くなる。
一瞬だけ、視界が鋭くなる。
一瞬だけ、全身が一本の槍になる。
俺は踏み込んだ。
床板が鳴る。
青白い光が線を引く。
父の穂先が動いた。俺の喉を狙う牽制。いつもの俺なら、そこで止まる。だが今日は止まらなかった。左足を滑らせ、上体を沈め、父の槍の下をくぐる。
穂先が父の胸元へ届く。
寸前で止めた。
息が切れた。
身体中が痺れる。
道場が静まり返った。
父は、自分の胸元で止まった木槍を見ていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「よし」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
父は槍を下ろし、正面の紋章板へ向き直った。
「ロビン・フォン・バーゼル」
門弟たちの前で、父は俺の名を呼んだ。
「本日をもって、バーゼル雷槍術の免許を許す」
俺は膝をついた。
頭を下げる。
床板の木目が見えた。古い傷。染み込んだ汗。門弟たちの足跡。そのすべてが、急に遠く見えた。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。
父は俺の肩に手を置いた。
「だが、忘れるな。免許は終わりではない」
「はい」
「お前はまだ、馬上の雷槍を知らない」
その言葉に、胸が痛んだ。
父は責めているのではない。わかっている。それでも、バーゼルの槍がまだ半分しか戻っていないと言われた気がした。
「いつか」
父は続けた。
「お前が本物の軍馬を得た時、この槍はもう一度変わる。その時まで、今の槍を磨け」
「はい」
「馬が無いことを言い訳にするな。無いなら、無い時の槍を極めろ。バーゼルは、そうして残ってきた」
父の手は重かった。
その重さを、俺は忘れたくないと思った。
その夜、俺たちは秘密基地に集まった。
古い見張り台跡の板壁は、五年前より少しだけ立派になっている。レイバーが父親の仕事場から端材を運び、ローレンスが古い布で隙間を塞ぎ、リッカが勝手に槍立てを作った。俺たちの手書きの旗は、壁の一番奥に掛けてある。
灰鷹隊。
そう呼ぶには相変わらず大げさで、けれど俺たちは、今でもその名を気に入っていた。
「免許皆伝様のお越しだぞ」
俺が入ると、レイバーが茶化した。
「膝でもつくか?」
「やめろ」
「おめでとう、ロビン」
ローレンスが笑った。
リッカは木槍を持って立ち上がった。
「じゃあ勝負しよ」
「今日くらい休ませろ」
「免許もらったんでしょ。なら強くなったか確かめないと」
「お前は何でも勝負にするな」
レイバーが呆れたように言う。
「で、どうだったんだ。奥義ってやつは」
俺は少し迷った。
雷槍の感覚を、言葉で説明するのは難しい。
「身体の中に、雷が走る」
「そのままだな」
「他に言いようがない」
「速くなるの?」
リッカが身を乗り出す。
「ああ。一瞬だけ」
「ずるい」
「ずるくはない」
「ずるい。あたしもやりたい」
「お前、雷魔法は苦手だろ」
「槍で何とかする」
「ならない」
ローレンスが笑った。
外では夜風が吹いていた。火山灰を含んだ風が板壁を撫で、古い旗がかすかに揺れる。
レイバーは端材で作った椅子に腰かけ、天井を見上げた。
「なあ、ロビン」
「何だ」
「お前、これからどうすんだ」
「どうって」
「免許もらったんだろ。いつまでもここで自警団に槍教えて終わりってわけじゃねえだろ」
俺は、壁の旗を見た。
不格好な灰の鷹。
リッカが描いた鳥は、五年経ってもやはり上手くはない。だが、俺にはもう、それ以外の旗は考えられなかった。
「帝都へ行きたい」
口に出すと、胸の奥が熱くなった。
「騎士になりたい。バーゼル家をもう一度、中央に戻したい。先祖のように、皇帝陛下の御楯となりたい」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
大きすぎる夢だ。
没落貴族の息子が、軍馬も持たず、地方の町道場で免許をもらっただけで語るには、あまりに大きい。
だが、レイバーは笑わなかった。
リッカも、ローレンスも。
レイバーはしばらく黙って、それから口の端を上げた。
「いいじゃねえか」
「笑わないのか」
「笑うかよ」
彼は立ち上がり、壁の旗を指で弾いた。
「俺も帝都へ行く」
「レイバーも?」
「ああ。こんな灰だらけの町で、大工の息子のまま終わる気はねえ。帝都で名を上げる。金も稼ぐ。親父が腰抜かすくらい、でかい仕事をしてやる」
「騎士になるのか?」
「騎士でも何でもいい。要するに、俺の名前を連中に覚えさせれば勝ちだ」
レイバーらしい言い方だった。
ローレンスは少し困ったように笑った。
「帝都か。僕も行けたらいいけど、家のことがあるしな」
「稼げば仕送りできるだろ」
レイバーが言った。
「帝都の方が仕事も金もある」
「簡単に言うなあ」
「簡単に言わなきゃ、難しいことなんて始められねえよ」
リッカは木槍を肩に担ぎ、当然のように言った。
「あたしも行く」
「お前はまだ小さい」
俺が言うと、リッカは即座に睨んだ。
「五年前からそればっかり。あたし、もう十五だから」
「十五でも小さい」
「槍はあんたより速い」
「それは……まあ」
「認めたね」
リッカは満足そうに笑った。
「なら行く。帝都に。あたしの槍がどこまで通じるか、試したい」
四人の間に、静かな熱が満ちていった。
帝都。
皇帝のいる都。
騎士団があり、宮殿があり、帝国中の才能が集まる場所。
父が語る先祖の栄光も、バーゼル家の再興も、レイバーの野心も、リッカの槍も、ローレンスの仕送りも、すべてそこへ続いているように思えた。
俺たちはまだ、何も知らなかった。
帝国の外で積もる怒りも。
遠い小国で、帳面を抱えた男が静かに名を上げ始めていることも。
火薬の匂いも、紙薬莢の音も、後装式の冷たい機構も。
何も知らなかった。
ただ、灰の野の見張り台跡で、手書きの旗を見上げていた。
「じゃあ決まりだな」
レイバーが言った。
「いつか帝都へ行く。俺たちで名を上げる」
彼は俺を見る。
「旗持ちは、お前だぞ」
五年前と同じ言い方だった。
俺は笑った。
「ああ」
壁の布が、夜風に小さく揺れた。
交差する鷹の羽と中央の槍。
バーゼル家の紋章。
子どもの手で描かれた、灰の鷹。
その二つが、俺の中で重なった。
いつか、必ず帝都へ行く。
この槍で家を再興する。
皇帝陛下の御楯となる。
そして、俺たちの旗を、もっと高い場所に掲げる。
その夜、俺は本気でそう信じていた。




