第2話 チェシー王国の流行り病
チェシー王国の春は、白い花ではなく、黒い布から始まった。
窓辺に黒布を垂らした家には、病人がいる。
扉に黒布を結んだ家には、死者が出た。
王都から東へ三日の地方都市、リトミシュの旧市街では、そんな布が日に日に増えていた。石畳の路地に面した小さな家々。赤い屋根。古い教会の尖塔。春になれば市場には卵と若菜と羊毛が並び、子どもたちが川辺で走り回るはずだった。
だが、その年の春、市場で一番よく売れたのは、薬草でもパンでもなかった。
棺だった。
痘瘡と呼ばれる病が流行っていた。
最初は、熱だ。次に、赤い発疹。やがて顔も手足も膿んだ水疱に覆われる。助かる者もいる。助からない者もいる。助かったとしても、顔には深い痕が残った。
人々は祈った。
司祭は聖水を撒き、医師は薬草を煎じ、母親たちは夜通し子どもの額を拭いた。
それでも、黒い布は増えた。
石造りの小さな家の中で、ひとりの女が子どもを抱いていた。
子どもはまだ五つだった。頬には水疱が浮かび、息は浅い。母親は何度も何度もその名を呼んだが、返事はなかった。
「司祭様は」
隣家の老婆が、戸口で小さく言った。
「もう呼びました。医師様も。けれど……」
女は答えなかった。
答えれば、泣いてしまうと思ったからだ。
外では荷車の音がした。
棺を運ぶ車ではない。もっと大きく、重く、車輪の軋みが太い。
朝貢の荷車だった。
チェシー王国は、トゥーゲンフルス帝国へ毎年、穀物と銀と織物を納める。帝国の言葉では、それは秩序維持のための当然の負担だった。帝国の庇護を受ける小国が、地域の平和のために捧げるもの。帝国の使者はそう言った。
チェシーの民は、別の言葉で呼んだ。
搾り取り、と。
その日も、リトミシュの広場には荷車が並んでいた。
袋詰めの麦。塩漬け肉。羊毛。銀貨の入った小箱。王都から派遣された役人たちが帳簿をつけ、帝国の朝貢監督官が退屈そうにそれを見下ろしている。
監督官は、見事な外套を着た男だった。胸にはトゥーゲンフルス帝国の紋章。腰には飾りの多い剣。靴には泥ひとつない。
彼は、広場の隅で咳き込む少年を見て、眉をひそめた。
「病人を近づけるな。荷に穢れがつく」
チェシーの役人が慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。ただちに」
「まったく。毎年のことだが、この国は衛生というものを知らんのか」
その言葉に、広場にいた数人が顔を上げた。
だが、誰も何も言わなかった。
言えなかった。
帝国の監督官は、彼らにとって災害に似ていた。怒らせれば、王都に報告が行く。報告が行けば、次の年の朝貢が増える。あるいは、国境沿いに帝国軍の小隊が来る。
だから人々は、黙って麦袋を積んだ。
病で子を失った家の麦も。
畑を耕す者を失った家の麦も。
帝国へ向かう荷車に積まれていった。
広場の隅、井戸のそばで、男たちが小声で話していた。
「姫様が戻られたそうだ」
一人が言った。
「本当か」
「ああ。王都から来た商人が見たと。夜明け前に馬車で城へ入ったらしい」
声が、少し低くなる。
「なぜ今さら」
「帝国に新しい寵姫ができた」
その場の空気が変わった。
誰かが唾を吐いた。
チェシー王の娘、イレナ王女。
三年前、彼女は帝国へ送られた。名目は友好の証。実際には、皇帝の側に侍る女としてだった。
王国は祝ったことにした。
王女が帝国宮廷へ迎えられるのは、チェシー王国にとって名誉である。王都の広場では楽師が鳴り、教会では鐘が鳴った。王は民に向かって、これは両国の絆を深める慶事であると告げた。
その日、民衆は拍手した。
拍手しなければならなかった。
けれど、イレナ王女の馬車が城門を出る時、沿道の女たちはみな俯いていた。男たちは拳を握り、子どもたちはなぜ大人が泣いているのかわからず、ただ黙っていた。
そして三年後。
王女は戻された。
皇帝が新しい若い娘を気に入ったからだという。
壊れた家具でも返すように。
季節外れの贈り物でも送り返すように。
チェシー王国の王女は、戻された。
「王は、何か言ったのか」
「何も」
「抗議は」
「するわけがない」
笑い声が漏れた。
笑いではなかった。
喉の奥から漏れた、乾いた怒りだった。
「我らが王は、帝国の靴音を聞いただけで玉座から落ちる」
「やめろ。聞かれたら」
「聞かれたら何だ。麦を取られるか。銀を取られるか。娘を取られるか。もう全部取られている」
老人が、ぼそりと言った。
「王女様までな」
誰も言い返さなかった。
帝国への怒りは、重い石のように人々の腹の底に沈んでいた。
だが、その石はもう一つの方向にも向いていた。
なぜ、王は耐えるのか。
なぜ、抗わないのか。
なぜ、チェシーはいつも頭を下げるのか。
王が愚かだからではないと、誰もが知っていた。弱いのだ。小さな国の王にできることなど限られている。帝国に逆らえば、国境を越えて軍が来る。王都は焼かれ、畑は踏まれ、今より多くの子が死ぬ。
それでも、民の怒りは理屈では消えなかった。
病が家を奪う。
帝国が麦を奪う。
王は誇りを守れない。
ならば、民は何にすがればいいのか。
リトミシュの外れに、古い養鶏所があった。
白壁はところどころ剥がれ、鶏舎の屋根は何度も修理されている。だが、庭はよく掃かれ、水桶は清潔で、鶏たちは丸々としていた。
その一角を、臨時の診療所として使っている男がいた。
名をシャルルという。
歳は三十に届くかどうか。地方役人であり、亡き父から継いだ養鶏所の主でもあった。役人らしい黒い上着の袖をまくり、手には帳面と小さな針を持っている。
「次の子を」
彼は短く言った。
母親に手を引かれた少女が、おずおずと前に出る。
少女の腕には、まだ病の痕はない。怯えた目でシャルルを見上げていた。
「痛い?」
「少しだけ」
シャルルは答えた。
「けれど、熱に焼かれて何日も苦しむよりはずっといい」
そばにいた司祭が、苦い顔をした。
「シャルル殿。病に似たものを身体へ入れるなど、本当に神の御心に反しないのですか」
「神が人に知恵を与えたのなら、使わない方が反しているのでは」
「詭弁に聞こえますな」
「結果で判断してください」
シャルルは少女の腕を消毒し、浅く傷をつけた。小さな容器から、白く濁った液をほんのわずかに取る。
母親が息を呑んだ。
「本当に、この子は助かるのですか」
「絶対とは言えません」
シャルルは顔を上げずに言った。
「けれど、何もしないよりはずっといい。去年、牛飼いの家の子たちに同じ処置をしました。発熱した子はいましたが、痘瘡で死んだ子はいない」
「牛飼い……」
「牛に出る軽い病に触れた者は、重い痘瘡にかかりにくい。記録を取れば、そう見えます」
司祭は眉をひそめた。
「記録、記録と。あなたはいつも帳面ばかりだ」
「祈りも大切です」
シャルルは淡々と言った。
「ただ、祈りだけでは数を比べられません」
少女が小さく泣いた。
処置はすぐに終わった。
母親は、泣きながら何度も頭を下げた。
シャルルは礼を受け取らず、帳面に日付と名前を書き込んだ。年齢、家族、発熱の有無、接触した病人の数。細かな文字が紙面を埋めていく。
庭の隅では、鍋に卵が茹でられていた。
手伝いの少年が、木匙で白っぽいソースを混ぜている。卵の黄身と油と酢と塩を合わせたものだ。まだ分離しやすく、味も安定しない。
「旦那様、また固まりません」
「油を急ぎすぎだ。少しずつ入れろと言っただろう」
「こんなの、本当に売れるんですか」
「卵に合う」
「それだけで?」
「それだけで十分なこともある」
シャルルは帳面を閉じ、遠くの広場を見た。
朝貢の荷車が出ていくところだった。
麦袋を積み、銀貨を積み、チェシーの春を積んで、帝国へ向かっていく。
その向こう、王都へ続く街道には、もう一台の馬車が走っているという。
イレナ王女を乗せた馬車だった。
民は病に怯え、帝国に奪われ、王の弱さに失望している。
シャルルは、そのすべてを救えるなどとは思っていなかった。
ただ、死ななくていい子どもを死なせたくなかった。
飢えなくていい家を飢えさせたくなかった。
奪われるばかりの国で、人がただ耐えるだけなのを見ていたくなかった。
「旦那様」
少年が鍋を掲げる。
「今度は少し、それっぽいです」
シャルルは匙で白いソースをすくい、茹で卵につけて口に運んだ。
少し酸っぱい。
塩も足りない。
だが、悪くない。
「名前を考えないとな」
「薬のですか?」
「いや」
シャルルは、ほんの少しだけ笑った。
「こっちの方だ」
その笑みは、広場の怒号にも、教会の鐘にも、帝国監督官の帳簿にも届かなかった。
その日、リトミシュの片隅で、数人の子どもが痘瘡から遠ざけられた。
ひとつの鍋の中で、卵に合う白い調味料が失敗しかけた。
そしてチェシー王国の民の胸には、また一つ、消えない屈辱が積もった。
だが、トゥーゲンフルス帝国の宮廷はまだ知らなかった。
北の灰の野で、手書きの旗を掲げた少年たちのことも。
東の小国で、帳面を抱えた養鶏所の男が静かに数を数え始めたことも。
帝国にとってチェシー王国は、相変わらず、朝貢を怠りがちな小国の一つに過ぎなかった。




