表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/23

第2話 チェシー王国の流行り病


 チェシー王国の春は、白い花ではなく、黒い布から始まった。


 窓辺に黒布を垂らした家には、病人がいる。


 扉に黒布を結んだ家には、死者が出た。


 王都から東へ三日の地方都市、リトミシュの旧市街では、そんな布が日に日に増えていた。石畳の路地に面した小さな家々。赤い屋根。古い教会の尖塔。春になれば市場には卵と若菜と羊毛が並び、子どもたちが川辺で走り回るはずだった。


 だが、その年の春、市場で一番よく売れたのは、薬草でもパンでもなかった。


 棺だった。


 痘瘡とうそうと呼ばれる病が流行っていた。


 最初は、熱だ。次に、赤い発疹。やがて顔も手足も膿んだ水疱に覆われる。助かる者もいる。助からない者もいる。助かったとしても、顔には深い痕が残った。


 人々は祈った。


 司祭は聖水を撒き、医師は薬草を煎じ、母親たちは夜通し子どもの額を拭いた。


 それでも、黒い布は増えた。


 石造りの小さな家の中で、ひとりの女が子どもを抱いていた。


 子どもはまだ五つだった。頬には水疱が浮かび、息は浅い。母親は何度も何度もその名を呼んだが、返事はなかった。


「司祭様は」


 隣家の老婆が、戸口で小さく言った。


「もう呼びました。医師様も。けれど……」


 女は答えなかった。


 答えれば、泣いてしまうと思ったからだ。


 外では荷車の音がした。


 棺を運ぶ車ではない。もっと大きく、重く、車輪の軋みが太い。


 朝貢の荷車だった。


 チェシー王国は、トゥーゲンフルス帝国へ毎年、穀物と銀と織物を納める。帝国の言葉では、それは秩序維持のための当然の負担だった。帝国の庇護を受ける小国が、地域の平和のために捧げるもの。帝国の使者はそう言った。


 チェシーの民は、別の言葉で呼んだ。


 搾り取り、と。


 その日も、リトミシュの広場には荷車が並んでいた。


 袋詰めの麦。塩漬け肉。羊毛。銀貨の入った小箱。王都から派遣された役人たちが帳簿をつけ、帝国の朝貢監督官が退屈そうにそれを見下ろしている。


 監督官は、見事な外套を着た男だった。胸にはトゥーゲンフルス帝国の紋章。腰には飾りの多い剣。靴には泥ひとつない。


 彼は、広場の隅で咳き込む少年を見て、眉をひそめた。


「病人を近づけるな。荷に穢れがつく」


 チェシーの役人が慌てて頭を下げた。


「申し訳ございません。ただちに」


「まったく。毎年のことだが、この国は衛生というものを知らんのか」


 その言葉に、広場にいた数人が顔を上げた。


 だが、誰も何も言わなかった。


 言えなかった。


 帝国の監督官は、彼らにとって災害に似ていた。怒らせれば、王都に報告が行く。報告が行けば、次の年の朝貢が増える。あるいは、国境沿いに帝国軍の小隊が来る。


 だから人々は、黙って麦袋を積んだ。


 病で子を失った家の麦も。


 畑を耕す者を失った家の麦も。


 帝国へ向かう荷車に積まれていった。


 広場の隅、井戸のそばで、男たちが小声で話していた。


「姫様が戻られたそうだ」


 一人が言った。


「本当か」


「ああ。王都から来た商人が見たと。夜明け前に馬車で城へ入ったらしい」


 声が、少し低くなる。


「なぜ今さら」


「帝国に新しい寵姫ができた」


 その場の空気が変わった。


 誰かが唾を吐いた。


 チェシー王の娘、イレナ王女。


 三年前、彼女は帝国へ送られた。名目は友好の証。実際には、皇帝の側に侍る女としてだった。


 王国は祝ったことにした。


 王女が帝国宮廷へ迎えられるのは、チェシー王国にとって名誉である。王都の広場では楽師が鳴り、教会では鐘が鳴った。王は民に向かって、これは両国の絆を深める慶事であると告げた。


 その日、民衆は拍手した。


 拍手しなければならなかった。


 けれど、イレナ王女の馬車が城門を出る時、沿道の女たちはみな俯いていた。男たちは拳を握り、子どもたちはなぜ大人が泣いているのかわからず、ただ黙っていた。


 そして三年後。


 王女は戻された。


 皇帝が新しい若い娘を気に入ったからだという。


 壊れた家具でも返すように。


 季節外れの贈り物でも送り返すように。


 チェシー王国の王女は、戻された。


「王は、何か言ったのか」


「何も」


「抗議は」


「するわけがない」


 笑い声が漏れた。


 笑いではなかった。


 喉の奥から漏れた、乾いた怒りだった。


「我らが王は、帝国の靴音を聞いただけで玉座から落ちる」


「やめろ。聞かれたら」


「聞かれたら何だ。麦を取られるか。銀を取られるか。娘を取られるか。もう全部取られている」


 老人が、ぼそりと言った。


「王女様までな」


 誰も言い返さなかった。


 帝国への怒りは、重い石のように人々の腹の底に沈んでいた。


 だが、その石はもう一つの方向にも向いていた。


 なぜ、王は耐えるのか。


 なぜ、抗わないのか。


 なぜ、チェシーはいつも頭を下げるのか。


 王が愚かだからではないと、誰もが知っていた。弱いのだ。小さな国の王にできることなど限られている。帝国に逆らえば、国境を越えて軍が来る。王都は焼かれ、畑は踏まれ、今より多くの子が死ぬ。


 それでも、民の怒りは理屈では消えなかった。


 病が家を奪う。


 帝国が麦を奪う。


 王は誇りを守れない。


 ならば、民は何にすがればいいのか。


 リトミシュの外れに、古い養鶏所があった。


 白壁はところどころ剥がれ、鶏舎の屋根は何度も修理されている。だが、庭はよく掃かれ、水桶は清潔で、鶏たちは丸々としていた。


 その一角を、臨時の診療所として使っている男がいた。


 名をシャルルという。


 歳は三十に届くかどうか。地方役人であり、亡き父から継いだ養鶏所の主でもあった。役人らしい黒い上着の袖をまくり、手には帳面と小さな針を持っている。


「次の子を」


 彼は短く言った。


 母親に手を引かれた少女が、おずおずと前に出る。


 少女の腕には、まだ病の痕はない。怯えた目でシャルルを見上げていた。


「痛い?」


「少しだけ」


 シャルルは答えた。


「けれど、熱に焼かれて何日も苦しむよりはずっといい」


 そばにいた司祭が、苦い顔をした。


「シャルル殿。病に似たものを身体へ入れるなど、本当に神の御心に反しないのですか」


「神が人に知恵を与えたのなら、使わない方が反しているのでは」


「詭弁に聞こえますな」


「結果で判断してください」


 シャルルは少女の腕を消毒し、浅く傷をつけた。小さな容器から、白く濁った液をほんのわずかに取る。


 母親が息を呑んだ。


「本当に、この子は助かるのですか」


「絶対とは言えません」


 シャルルは顔を上げずに言った。


「けれど、何もしないよりはずっといい。去年、牛飼いの家の子たちに同じ処置をしました。発熱した子はいましたが、痘瘡で死んだ子はいない」


「牛飼い……」


「牛に出る軽い病に触れた者は、重い痘瘡にかかりにくい。記録を取れば、そう見えます」


 司祭は眉をひそめた。


「記録、記録と。あなたはいつも帳面ばかりだ」


「祈りも大切です」


 シャルルは淡々と言った。


「ただ、祈りだけでは数を比べられません」


 少女が小さく泣いた。


 処置はすぐに終わった。


 母親は、泣きながら何度も頭を下げた。


 シャルルは礼を受け取らず、帳面に日付と名前を書き込んだ。年齢、家族、発熱の有無、接触した病人の数。細かな文字が紙面を埋めていく。


 庭の隅では、鍋に卵が茹でられていた。


 手伝いの少年が、木匙で白っぽいソースを混ぜている。卵の黄身と油と酢と塩を合わせたものだ。まだ分離しやすく、味も安定しない。


「旦那様、また固まりません」


「油を急ぎすぎだ。少しずつ入れろと言っただろう」


「こんなの、本当に売れるんですか」


「卵に合う」


「それだけで?」


「それだけで十分なこともある」


 シャルルは帳面を閉じ、遠くの広場を見た。


 朝貢の荷車が出ていくところだった。


 麦袋を積み、銀貨を積み、チェシーの春を積んで、帝国へ向かっていく。


 その向こう、王都へ続く街道には、もう一台の馬車が走っているという。


 イレナ王女を乗せた馬車だった。


 民は病に怯え、帝国に奪われ、王の弱さに失望している。


 シャルルは、そのすべてを救えるなどとは思っていなかった。


 ただ、死ななくていい子どもを死なせたくなかった。


 飢えなくていい家を飢えさせたくなかった。


 奪われるばかりの国で、人がただ耐えるだけなのを見ていたくなかった。


「旦那様」


 少年が鍋を掲げる。


「今度は少し、それっぽいです」


 シャルルは匙で白いソースをすくい、茹で卵につけて口に運んだ。


 少し酸っぱい。


 塩も足りない。


 だが、悪くない。


「名前を考えないとな」


「薬のですか?」


「いや」


 シャルルは、ほんの少しだけ笑った。


「こっちの方だ」


 その笑みは、広場の怒号にも、教会の鐘にも、帝国監督官の帳簿にも届かなかった。


 その日、リトミシュの片隅で、数人の子どもが痘瘡から遠ざけられた。


 ひとつの鍋の中で、卵に合う白い調味料が失敗しかけた。


 そしてチェシー王国の民の胸には、また一つ、消えない屈辱が積もった。


 だが、トゥーゲンフルス帝国の宮廷はまだ知らなかった。


 北の灰の野で、手書きの旗を掲げた少年たちのことも。


 東の小国で、帳面を抱えた養鶏所の男が静かに数を数え始めたことも。


 帝国にとってチェシー王国は、相変わらず、朝貢を怠りがちな小国の一つに過ぎなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ