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第1話 灰の野と手書きの旗

実はメイン作品の方はある程度書き溜めてて、壁にぶつかってます(泣)

ということもあって、次に書こうと思ってたのを見切り発車しました。


 グラウフェルトの土は、春になっても黒かった。


 雪解けの水を吸った畑は、普通なら柔らかな茶色になるものらしい。だが、この土地の土は違う。鍬を入れれば、湿った灰の匂いが立ちのぼる。

 雨の後には靴底に黒い泥がこびりつき、乾いた日には細かな灰が風に舞って、子どもたちの髪や睫毛をうっすら白く染めた。


 村の北には、シーベルト火山があった。


 火を噴かなくなってから何百年も経つという休火山である。けれど山肌には今も黒々とした岩が剥き出しになり、春先にはその岩の割れ目に残った雪が白い筋を作る。

 晴れた日には、山の頂にかかる雲が、まるで薄い煙のように見えた。


 そして火山の麓、半島へ続く細い平野を睨むように、北部要塞が建っていた。


 古い石造りの城塞だった。帝国がまだ今ほど大きくなかった時代、北から来る敵を防ぐために築かれたものだという。今では国境はもっと遠く、海岸線の向こうまで押し広げられ、この要塞も内地の古い守りに過ぎないと大人たちは言う。


 だが、十二歳のロビン・フォン・バーゼルにとって、北部要塞は今でも世界で一番大きな城だった。


 灰色の山。


 灰色の畑。


 灰色の石壁。


 グラウフェルトは、どこを見ても灰の色をしていた。


 そしてロビンは、その灰の土地へ移ってきたばかりの、没落貴族の息子だった。


 バーゼル家。


 その名を父は誇らしげに口にする。かつて皇帝に槍を捧げ、雷をまとって戦場を駆けた家だと。先々代皇帝の御代には、バーゼルの槍が帝国の前線を切り開いたのだと。


 けれどグラウフェルトの子どもたちは、そんな話に敬意など払わなかった。


「おい、槍貴族」


 放課後の道場裏で、ロビンは三人の少年に囲まれていた。


 一番背の高い少年が、泥のついた木の枝を肩に担ぎ、にやにや笑っている。


「今日も歩いて帰んのか? 馬はどうしたよ」


 残りの二人が笑った。


「馬上槍の家なんだろ?」


「雷の槍なんだろ?」


「だったら馬くらい持ってこいよ、バーゼルの坊ちゃん」


 ロビンは黙っていた。


 言い返せないわけではなかった。言い返したところで、どうにもならないことを知っていただけだ。


 バーゼル家に馬はいない。


 いや、正確には一頭だけいる。年老いた栗毛の牝馬で、荷車を引くのが精一杯だった。父はその馬を「我が家の最後の軍馬だ」と冗談めかして呼ぶが、ロビンはその冗談があまり好きではなかった。


 バーゼル家の雷槍術は、本来、馬上で振るうものだ。


 槍に雷を宿し、馬の速度と魔力の一撃で敵陣を貫く。踏み込み、突き、離脱する。相手が振り返る頃には、もう次の標的へ向かっている。父はそう教えた。


 けれどロビンが稽古で握るのは、道場の古びた木槍だけだった。


 馬はいない。


 立派な甲冑もない。


 皇帝の軍旗もない。


 あるのは、父が磨き続けている古い槍の穂先と、灰だらけの庭だけだ。


「聞いてんのかよ、没落貴族」


 背の高い少年が、木の枝の先でロビンの肩を突いた。


 ロビンは一歩下がる。


「やめろ」


「あ?」


「その呼び方は、やめろ」


「なんだよ。怒ったのかよ、坊ちゃん」


 少年が笑い、枝をもう一度突き出した。


 ロビンはそれを払った。


 手の甲に枝が当たり、鈍い痛みが走る。だが、払った。払ってしまった。


 一瞬、少年たちの顔から笑みが消えた。


「やったな」


 次の瞬間、ロビンは胸を押され、道場裏の湿った土に尻餅をついた。


 灰混じりの泥が、服にべったりつく。


「やっぱ貴族様は泥が似合わねえな」


「謝れよ」


「馬も持ってない槍貴族ですって」


 ロビンは唇を噛んだ。


 泣きたくはなかった。


 泣けば父に申し訳ない気がした。父はいつも、バーゼルの者は背筋を曲げるなと言う。たとえ家が傾いても、槍を持つ者の背だけは折ってはならないと。


 だからロビンは立ち上がろうとした。


 その時だった。


「三人で一人囲んで、ずいぶん勇ましいじゃねえか」


 道場裏の板塀の上から、声がした。


 少年たちが振り返る。


 板塀の上に、一人の少年が座っていた。


 年はロビンより一つ上くらい。髪は灰をかぶったようなくすんだ茶色で、膝に擦り傷があり、袖口には木屑がついている。口の端を吊り上げた顔は、笑っているというより、喧嘩を見つけて楽しんでいるようだった。


「レイバー」


 背の高い少年が、露骨に嫌な顔をした。


「関係ねえだろ」


「関係あるかどうかは俺が決める」


 レイバーと呼ばれた少年は、ひょいと塀から飛び降りた。


 着地した拍子に、腰に挟んでいた小さな木槌がからんと鳴った。


「そいつ、うちの道場に来てんだろ。じゃあ関係ある」


「道場はお前のもんじゃねえ」


「親父が直した板塀だ。つまり半分はうちのもんだ」


「意味わかんねえよ」


「お前にわかるように言ってねえよ」


 レイバーは笑って、地面に落ちていた木の枝を拾った。


 少年たちが身構える。


 ロビンは慌てて立ち上がった。


「僕は――」


「黙ってろ、槍貴族」


 レイバーはロビンを見ずに言った。


「今、助けてやってる最中だ」


「助けてなんて――」


「言ってねえな。だから勝手にやってる」


 そう言うと、レイバーは枝を肩に担ぎ、背の高い少年の前へ出た。


「で? やるか?」


 背の高い少年は、歯を剥いた。


「調子乗んなよ、大工の小僧が」


「おう。大工の小僧だ。釘と板ならお前より上手く使えるぞ」


「枝だろ、それ」


「お前相手なら十分だ」


 睨み合いは、長くは続かなかった。


 最初に飛びかかったのは、背の高い少年だった。枝を振り上げて突っ込んでくる。レイバーは真正面から受けなかった。半歩ずれて、相手の足元に枝を引っかけた。


 少年は見事に転んだ。


 灰混じりの泥が跳ねる。


「ぎゃっ」


「お前、足元見ろよ。ここグラウフェルトだぞ。泥で滑るに決まってんだろ」


 レイバーは偉そうに言った。


 残りの二人は顔を見合わせ、倒れた少年を起こすと、悪態をつきながら逃げていった。


「覚えてろよ!」


「忘れる努力はしてやる!」


 レイバーは大声で返した。


 その背中を、ロビンは呆然と見ていた。


 強い、というより、慣れている。


 喧嘩に慣れている。泥に慣れている。相手がどう動くか、地面がどこで滑るか、そういうことを最初から知っている動きだった。


「で」


 レイバーは枝を捨て、ロビンの方を向いた。


「お前、なんであいつらにやられてたんだ?」


「やられてたわけじゃない」


「泥まみれで言う台詞じゃねえな」


 ロビンは黙った。


 レイバーはロビンの服を上から下まで眺めた。


「いい服だな」


「……そうでもない」


「そうか? 俺のよりはいい」


 ロビンは自分の服を見た。


 確かに仕立ては悪くない。母が丁寧に繕ってくれたものだ。けれど袖口はもう擦り切れ、泥もついている。帝都の貴族なら笑うだろうし、村の子どもたちは「貴族ぶっている」と笑う。


 どちらにも入れない服だった。


「お前、名前は?」


「ロビン・フォン・バーゼル」


「長い」


「ロビンでいい」


「じゃあロビン」


 レイバーは、当たり前のように言った。


「仲間に入れよ」


 ロビンは目を瞬かせた。


「……何に?」


「俺たちの」


「俺たち?」


「来ればわかる」


 レイバーは背を向け、歩き出した。


 ロビンはその場に立ったままだった。


「来ねえのか?」


 レイバーが振り返る。


「いや、その」


「貴族だから、平民の遊びには混ざれませんってか?」


「違う」


 ロビンは即座に言った。


 少し強すぎる声だった。


 レイバーはにやりと笑う。


「じゃあ来いよ」


 ロビンは迷った。


 父に怒られるかもしれない。服はすでに泥だらけだ。母にも心配をかけるかもしれない。そもそも、さっきまで名乗りもしなかった相手について行くのは、貴族の子としてどうなのか。


 だが、レイバーは待たなかった。


 どんどん歩いていく。


 ロビンは慌てて後を追った。


 道場裏の小道を抜け、畑の脇を走り、黒い石垣を越える。風が火山灰を運び、二人の髪を白くした。シーベルト火山が大きく見える方へ、レイバーは進んでいった。


 やがて村外れの雑木林に入る。


 そこには、古い見張り台の跡があった。


 北部要塞へ続く旧街道を見張るための小さな石造りの塔だったらしい。今は半分崩れ、壁の隙間から草が伸びている。だが、その崩れた壁に板が打ちつけられ、屋根代わりの布が張られ、入口には古びた扉らしきものまでついていた。


 秘密基地だった。


「すごい」


 思わず、ロビンは声を漏らした。


「だろ」


 レイバーは少し得意げに鼻を鳴らした。


「親父の仕事場から端材をもらってきた」


「もらって?」


「捨てるやつをな」


「本当に?」


「細けえこと聞くなよ。大工の家の特権だ」


 レイバーが扉を蹴るように開けると、中から声がした。


「遅い!」


 飛び出してきたのは、小さな少女だった。


 十歳くらい。髪は短く、頬に泥がつき、手には自分の背丈より少し短い木槍を持っている。目が大きく、いかにも怒っているという顔をしていた。


「レイバー、見張り番交代って言ったでしょ!」


「新入り拾ってきた」


「犬みたいに言うな」


 ロビンが抗議すると、少女はじろりと彼を見た。


「誰?」


「ロビン。槍貴族」


「槍貴族?」


 少女の目が、ぱっと輝いた。


「あんた、槍使えるの?」


「少しだけ」


「じゃあ勝負しよ!」


「え?」


「リッカ、やめろ」


 基地の奥から、穏やかな声がした。


 背の高い少年が一人、布を畳みながら出てくる。レイバーと同じ十三歳くらいだが、雰囲気はずいぶん違う。優しげな目をしていて、袖は丁寧にまくってあった。


「初対面でいきなり勝負はないだろ」


「だって槍貴族だよ」


「だからって突くな」


「突いてない。まだ」


 リッカと呼ばれた少女は、不満そうに木槍を肩に担いだ。


 少年は苦笑して、ロビンに手を差し出した。


「僕はローレンス。よろしく」


「ロビン・フォン・バーゼルです」


「そんなにかしこまらなくていいよ。ここにいる時は、みんな同じだから」


 その言葉に、ロビンは少し戸惑った。


 みんな同じ。


 そんな言葉を、彼はあまり聞いたことがなかった。


 バーゼル家では、家名を忘れるなと言われる。村では、貴族ぶるなと言われる。道場では、貴族でも平民でも腕次第だと言われるが、それでも人の目がなくなるわけではない。


 だが、この崩れた見張り台の中では、リッカは木槍を振り回し、レイバーは大工の端材を勝手に持ち込み、ローレンスは破れた布を畳んでいる。


 誰も、ロビンに頭を下げない。


 誰も、ロビンを遠ざけない。


「おい、ロビン」


 レイバーが基地の奥を指差した。


「これ見ろ」


 そこには、一枚の布があった。


 布といっても、元は穀物袋か何かだったのだろう。黄ばんでいて、端はほつれ、ところどころに黒い染みがある。その中央に、子どもの手で鳥の絵が描かれていた。


 鷹、だろうか。


 少なくとも、描いた本人は鷹のつもりなのだろう。翼は左右で大きさが違い、嘴は妙に長く、足は三本あるように見える。その下には、槍らしき線が一本、斜めに引かれていた。


「これは?」


「旗」


 レイバーが言った。


「俺たちの旗だ」


「……鳥?」


「鷹だ」


 リッカが胸を張った。


「あたしが描いた」


「上手いだろ」とレイバーが言う。


 ロビンは返答に困った。


 上手いかと問われれば、たぶん上手くはない。


 だが、不思議と目を引く絵だった。


 灰色の炭で描かれた翼。赤土を水で溶いたような色で引かれた槍。布の染みやほつれも含めて、それはひどく頼りなく、それでいて何かを始めようとしているように見えた。


「なんのための旗?」


 ロビンが尋ねると、三人は顔を見合わせた。


「なんのためって」


 レイバーが首をかしげる。


「旗は掲げるためにあるだろ」


「どこに?」


「高いところ」


「何をする時に?」


「何かをする時だよ」


 レイバーの答えは、何一つ答えになっていなかった。


 けれどリッカは大きく頷いているし、ローレンスも困ったように笑っているだけだった。


 ロビンはもう一度、布の鳥を見た。


 灰の鷹。


 そう思った。


 グラウフェルトの空を飛ぶなら、きっと白い鷹ではない。金色の鷹でもない。灰の風を浴び、黒い山を越え、城塞の石壁を見下ろすなら、こんな鳥なのかもしれない。


「お前」


 レイバーが、急に布をロビンへ押しつけた。


「旗持ちな」


「え?」


「貴族なんだろ。似合うじゃねえか」


「そんな理由で?」


「十分だろ」


「僕は今日、入ったばかりで」


「だからだよ」


 レイバーは当然のように言った。


「新入りには役目がいる」


 リッカが木槍で地面を突いた。


「旗を落としたら罰だからね」


「罰?」


「勝負」


「それは君がしたいだけだろう」


「そうとも言う」


 ローレンスが笑った。


「いいんじゃないかな。ロビン、背がまっすぐだし。旗を持ったら映えるよ」


「そういうもの?」


「そういうもの」


 三人が、ロビンを見ていた。


 馬も持たない槍貴族。


 没落した家の息子。


 村の子どもたちに笑われ、道場裏で泥をつけられた少年。


 そんな自分に、彼らは旗を渡している。


 ロビンは布を受け取った。


 思ったより軽かった。


 けれど、両手で持つと、妙に手が震えた。


「棒がいるな」


 レイバーが辺りを見回した。


「待ってろ」


 彼は基地の隅から細い木材を持ってきた。端材にしては長く、先端は少し曲がっている。大工の父が見れば怒るのではないかとロビンは思ったが、レイバーは気にする様子もなく、布を木材に結びつけた。


 結び目は雑だった。


 だが、旗になった。


「よし」


 レイバーは満足げに頷いた。


「行くぞ」


「どこへ?」


「高いところ」


 それだけ言って、レイバーは走り出した。


 リッカが歓声を上げて続く。ローレンスも「待って」と言いながら追いかけた。


 ロビンは旗を抱え、慌てて後を追った。


 雑木林を抜け、火山岩の転がる斜面を登る。風が吹く。灰が舞う。足元は滑りやすく、何度も転びそうになった。そのたびにリッカが笑い、ローレンスが手を貸し、レイバーが「旗持ちが遅いぞ」と叫んだ。


 やがて四人は、小さな丘の上に出た。


 グラウフェルトの村が見えた。


 黒い畑。灰色の屋根。遠くに北部要塞。さらにその向こう、薄い雲をまとったシーベルト火山。


 ロビンは息を切らしながら、旗を掲げた。


 布が風を受けた。


 リッカの描いた不格好な鷹が、ぱたぱたと震える。槍の線が歪み、ほつれた端が空へ跳ねた。


「おお」


 ローレンスが小さく声を漏らした。


「いいじゃん!」


 リッカが笑った。


 レイバーは腕を組み、満足そうに頷いた。


「ほらな。似合う」


 ロビンは何も言えなかった。


 胸の奥が、少し熱かった。


 父が語る皇帝の軍旗ではない。バーゼル家に伝わる紋章旗でもない。貴族の広間に飾られるような美しい旗でもない。


 ただの布切れだ。


 子どもの絵だ。


 それでも、ロビンはその時、生まれて初めて、自分の手で掲げたいと思える旗を持った。


「今日からお前も仲間な」


 レイバーが言った。


「仲間」


 ロビンは繰り返した。


「そう。俺たちの」


 リッカが木槍を掲げた。


「じゃあ、隊の名前決めよう!」


「隊?」


「旗があるんだから隊でしょ」


「何隊?」


 ローレンスが尋ねる。


 四人は、風に揺れる布を見上げた。


 灰の鷹。


 ロビンは、そう思った。


 だが口にするより先に、レイバーが言った。


「灰鷹」


 リッカが目を輝かせる。


「灰鷹隊!」


「ちょっと大げさじゃないかな」


 ローレンスは笑った。


「大げさなくらいでいいんだよ」


 レイバーは言った。


「どうせ俺たち、まだ何者でもねえんだから」


 その言葉に、ロビンは旗を握る手に力を込めた。


 まだ何者でもない。


 没落貴族でも、平民の子でも、父を亡くした長男でも、槍を振り回す小さな少女でもない。


 まだ何者でもないから、何にだってなれる。


 灰色の風が吹いた。


 手書きの旗が鳴った。


 ロビン・フォン・バーゼルにとって、生涯の友であり、仲間と呼ぶべき者たちは、こうして集まった。


 それは、帝国北部の灰の野に立つ、ほんの小さな旗から始まった。

ひねり無く「はいたか」と読みます。

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