第10話 北方公爵家の依頼
その日のロビンは、三度、リッカに脛を打たれた。
一度目は朝の稽古中だった。
ハルト道場の床板を踏み、門弟の突きを受け流しながら、ロビンは一瞬だけ昨日のことを思い出していた。
卵とレタスの挟まったパン。
白いソース。
灰色の外套。
ヴェールの奥で笑った少女。
エリー。
たぶん偽名か、愛称だ。身なりも言葉遣いも、ただの下町娘ではなかった。貴族か、少なくとも上流の家の娘だろう。
けれど、あの時の彼女は、サンドイッチを落として弁償を求める、少し変わった女の子だった。
そのことを思い出した瞬間、ロビンの踏み込みが半歩遅れた。
リッカの木槍が、容赦なく脛を払った。
「痛っ」
「遅い」
「今のは門弟相手の稽古で」
「稽古だから遅くていいの?」
「そういうわけではないが」
「じゃあ、もう一回」
リッカは不機嫌だった。
理由は、ロビンにはわからない。
いや、少しはわかっていた。
二度目は昼前、護衛仕事の打ち合わせ中だった。
行商人の護衛人数を決めている横で、ロビンがまた少しぼんやりしていたらしい。レイバーがにやにやし、ローレンスが笑いをこらえ、リッカが無言で槍の石突きをロビンの足元に落とした。
「踏んだら危ないだろう」
「危なくしたの」
「なぜ」
「なんとなく」
レイバーは肩を震わせていた。
「隊長にも春が来たか」
「春?」
「いや、なんでもねえ」
三度目は午後、ハルト道場の離れで帳簿を覗き込んでいる時だった。
ローレンスが今月の収入と支出を整理している。灰鷹の人数が増えた分、稼ぎも増えたが、出費も増えた。武器の補修、首布、宿代、怪我人の薬代、仕送り。
ローレンスは真面目な顔で言った。
「今月は、少し余裕があるかもしれない」
「本当か」
「レイバーが火薬筒に有り金を使わなければ」
「まだ言うのか」
レイバーが苦い顔をする。
「言うよ。帳簿は恨みを忘れない」
ロビンが笑いかけたところで、またエリーの言葉を思い出してしまった。
――次は、もっと高いものを持って歩くことにするわ。
その瞬間、リッカの木槍が脛を打った。
「痛い」
「なんとなく」
「さっきも聞いたぞ、それは」
「じゃあ、二度目のなんとなく」
ロビンは抗議しようとした。
だが、その時、道場の表がざわめいた。
いつもの門弟たちの声ではない。
足音が重い。
しかも、揃っている。
レイバーの表情が一瞬で変わった。
「騎士だ」
彼は小声で言った。
リッカが槍を握り直す。
ローレンスは帳簿を閉じた。
ロビンは立ち上がる。
離れの戸口に、ハルト師範が現れた。普段は何事にも慌てない老人が、少し困った顔をしている。
「ロビン」
「はい」
「お前に客だ」
「私に?」
「いや、正確には、灰鷹にだろうな」
その言い方に、ロビンは眉をひそめた。
ハルト師範の後ろに、大柄な男が立っていた。
騎士だった。
年は四十を越えているだろう。肩幅が広く、白髪の混じった金髪を短く刈り込んでいる。身につけている外套は地味だが、立ち姿だけでただの護衛ではないとわかる。
腰の剣は飾りではない。
目も、飾りを嫌う目だった。
その後ろには、二人の騎士が控えている。彼らも外套こそ目立たないが、動きに無駄がない。
男はロビンを見た。
しばらく、値踏みするように。
そして、口元をわずかに上げた。
「バーゼルの槍か」
ロビンの背筋が伸びた。
「父をご存じで?」
「父ではない。祖父の方だ」
男はそう言った。
「若い頃、一度だけ見た。馬上から雷を落とすような槍だった。あれは、見た者の目に残る」
ロビンは息を呑んだ。
祖父の雷槍を知る者。
それだけで、この男がただ者ではないことは明らかだった。
「失礼ですが、お名前を」
男は、周囲を見た。
ハルト道場の門弟たちが、遠巻きにこちらを見ている。レイバーはそれに気づき、若い門弟に目で合図した。
「おい。表を閉めろ。見世物じゃねえ」
門弟たちは慌てて動いた。
戸が閉まる。
道場のざわめきが遠くなる。
男はそれを見届けてから、低い声で言った。
「オスカー・フォン・ヴァルト」
空気が止まった。
フォン・ヴァルト。
北方公爵家。
皇族外戚の大貴族。
ロビンは即座に膝を折ろうとした。
だが、オスカーは手で制した。
「形式は要らん。今は時間が惜しい」
「公爵家の……」
「公爵の兄だ。妾腹ゆえ家督は弟に譲ったがな。今は公爵騎士団長をしている」
レイバーが小さく息を吐く。
リッカもさすがに黙った。
ローレンスは背筋を正している。
オスカーはロビンの首布を見た。
「灰鷹。町道場の若い鷹たち。そう呼ばれていると聞いた」
「下町の方々が、勝手に」
「勝手に呼ばれる名ほど、本当の名になることがある」
オスカーは短く言った。
「お前たちに頼みがある」
その声は、騎士団長のものだった。
だが、次の一言だけは違った。
「姪が消えた」
ロビンは、一瞬意味を掴めなかった。
「姪、ですか」
「フォンヴァルト公爵家三女、エレオノーラ」
エレオノーラ。
知らない名のはずだった。
けれど、オスカーが特徴を続けた瞬間、ロビンの胸が冷えた。
「昨日、灰色の外套で下町に出た。侍女を一人連れていた。途中で卵を挟んだパンを買ったらしい。マヨネーズとかいう、妙な白いソースの」
レイバーが横目でロビンを見た。
リッカの目が細くなる。
ローレンスは小さく「あ」と声を漏らした。
ロビンは、言葉を失った。
エリー。
昨日の少女。
サンドイッチを落とし、弁償を求め、笑った人。
彼女が、フォンヴァルト公爵家三女。
エレオノーラ・フォンヴァルト。
「……私は、昨日、その方に会っています」
オスカーの目が鋭くなった。
「どこで」
ロビンは、昨日の通りと屋台を説明した。
ぶつかったこと。サンドイッチを落としたこと。弁償したこと。彼女がエリーと名乗ったこと。
オスカーは最後まで黙って聞いた。
そして、ほんの少しだけ肩を落とした。
「無事だったのだな。その時は」
「はい」
「その後、帰路で消えた。侍女は路地裏で見つかった。薬で眠らされていた。護衛の一人は負傷している。姪はまだ見つからん」
ロビンの手が、自然に槍の柄へ伸びた。
リッカがそれを見て、何も言わずに自分の槍を取った。
「帝都警備隊には」
ローレンスが慎重に尋ねる。
「知らせられん」
オスカーの声は硬かった。
「公爵家三女の誘拐が公になれば、姪の名誉に傷がつく。実際に何もなくとも、噂は勝手に肉をつける。警備隊の中に、敵派閥の耳がないとも限らん」
「敵派閥」
レイバーが呟いた。
「心当たりが?」
「ありすぎる」
オスカーは苦い顔をした。
「公爵家は帝都に滞在中だが、護衛騎士は少数しか連れてきていない。大部隊を動かせば、今度は公爵家が帝都で兵を集めていると騒がれる。面倒な時代だ」
面倒。
オスカーはそう言ったが、その目には怒りと焦りがあった。
「我らは貴族街と中央区を探る。だが、下町、宿屋、荷車置き場、闇市、職人街は、お前たちの方が鼻が利くと聞いた」
レイバーが軽く肩をすくめた。
「鼻が利くというより、泥に慣れてるだけです」
「それで十分だ」
オスカーはロビンを見た。
「頼めるか」
公爵家騎士団長が、町道場の若者に頭を下げるわけではない。
だが、その言葉には、頼むという重さがあった。
ロビンは深く息を吸った。
昨日の笑顔を思い出す。
次は、もっと高いものを持って歩くことにするわ。
軽口だった。
もう一度会えたなら、こちらも何か返せると思っていた。
こんな形で再び名前を聞くとは思っていなかった。
「灰鷹は、協力します」
ロビンは言った。
「必ず見つけます」
「ありがたい」
オスカーは頷いた。
「ただし、慎重に動け。姪の名を外で出すな。公爵家の名も、必要な時以外は使うな」
「承知しました」
「もう一つ」
オスカーは低く言った。
「これは、公爵家の令嬢を探す依頼であると同時に、私の姪を探す願いでもある」
ロビンは顔を上げた。
オスカーの目は、騎士団長のものではなかった。
叔父の目だった。
「無事に連れ戻したい」
「はい」
その一言で、ロビンの中の何かが決まった。
◇
灰鷹は、すぐに動いた。
公爵騎士団は中央区と貴族街へ向かう。
オスカーの部下たちは少数だが精鋭だった。門衛、馬車番、貴族街の裏門、高級宿。彼らは騎士の威圧と公爵家の名を最小限に使いながら、上の道を探る。
一方、灰鷹は下へ潜った。
下町。
宿屋。
荷車置き場。
魚油の匂う倉庫街。
闇市。
職人組合。
安酒場。
灰青色の首布を巻いた若者たちは、数人ずつに分かれて散った。
「名前は出すな」
レイバーが言った。
「探してるのは、身なりのいい女。灰の外套。侍女連れ。昨日の夕方。薬か荷車。これだけで聞け」
「公爵家は?」
若い門弟が尋ねる。
「口にしたら、その口を縫う」
「冗談ですよね」
「針ならローレンスが持ってる」
ローレンスは困ったように笑った。
「持ってるけど、人の口は縫わないよ」
リッカは槍を肩に担いだ。
「聞き込みって苦手」
「お前は脅し込みになるからな」
レイバーが言う。
「失礼な。ちゃんと聞くよ」
「相手が答えなかったら?」
「槍で壁を突く」
「それを脅し込みと言う」
ロビンは苦笑する余裕もなかった。
胸の奥に焦りがある。
時間が経てば経つほど、エレオノーラは遠くなる。
相手が単なる身代金目的ならまだいい。
だが、オスカーの言葉から察するに、政治的な臭いがする。公爵家三女の名誉を傷つけること自体が目的かもしれない。そうなれば、一刻の遅れが取り返しのつかない傷になる。
灰鷹は二手に分かれた。
ロビン班は、ロビン、リッカ、若い門弟三人。
レイバー班は、レイバー、ローレンス、リオン、数名。
リオンはレイバー班に入ると聞いて、少し眉を上げた。
「私を信用していないのか」
「信用してるから、俺の方に来い」
レイバーは即答した。
「お前は貴族街の匂いも、裏の匂いも嗅げる。便利だ」
「便利扱いか」
「褒めてる」
「君の褒め言葉は、いつも安いな」
「金がないからな」
リオンは小さく笑った。
その笑みは薄かったが、ないよりはよかった。
ロビン班は、昨日エレオノーラと出会った屋台へ向かった。
屋台の主人は、ロビンを見るなり顔をしかめた。
「また卵サンドかい」
「今日は違います」
「じゃあ何だ」
「昨日、灰色の外套を着た女性を見ませんでしたか。私がぶつかった方です」
「ああ、あの綺麗な……いや、あんた、何かあったのか」
「少し探しています」
主人は周囲を見て、声を落とした。
「あのあと、細い通りの方へ行った。侍女さんと一緒だったな。後ろに、変な男が二人ついていた」
「なぜその時言わなかったんです」
「下町じゃ、変な男が誰かについてることなんざ珍しくない。貴族のお忍びには護衛もいるし、逆に見張りもいる。面倒は避けるもんだ」
「特徴は」
「ひとりは赤茶の糸で袖を直していた。あと、魚油臭かったな」
ロビンは顔を上げた。
「魚油」
「倉庫街の連中だろう。黒樽を扱うところは大抵臭う」
リッカが身を乗り出した。
「倉庫街、行こう」
「待て」
ロビンは店主に礼を言い、銀貨を置いた。
「これは?」
「迷惑料です」
「昨日といい、あんた律儀だな」
「昨日、そういう話になりましたので」
店主は首をかしげたが、銀貨は受け取った。
◇
魚油の匂いは、倉庫街へ近づくほど濃くなった。
黒い樽が積まれた路地。
荷車の車輪跡。
水路に浮かぶ油膜。
リッカは鼻をつまんだ。
「くさい」
「声に出すな」
「くさいものはくさい」
若い門弟のひとりが、荷車置き場の奥を指差した。
「隊長、あれ」
そこに、焼き印があった。
荷車の側面に押された、銀の鹿の印。
塗料は剥げかけているが、鹿の角の形ははっきりしていた。
「銀鹿」
ロビンは呟いた。
荷車の持ち主を探すと、すぐに名が出た。
銀鹿亭。
宿屋だ。
表向きは旅籠だが、裏に倉庫と荷車置き場を持ち、行商人や運び屋がよく使う。評判は悪くない。ただし、裏口が多く、金を払えば余計なことを聞かれないとも言われている。
ロビンはすぐにレイバーへ使いを出そうとした。
だが、その前に声をかけられた。
「灰鷹の隊長さん」
振り返ると、宿屋の下働きらしい少年がいた。
顔に見覚えがある。
以前、悪質な用心棒に殴られていたところを、リッカが助けた少年だ。
「君は」
「その節は、どうも」
少年は早口で言った。
「銀鹿亭の裏蔵に、昨日の夜、女の人が運び込まれたって。身なりのいい人です。顔は見てないけど、荷物じゃない運び方だったって、厨房の奴が言ってました」
「今もいるのか」
「たぶん。でも、今夜には移すかもしれないって」
ロビンの中で、迷いが消えた。
「案内できるか」
少年は顔を青くした。
「近くまでなら」
「十分だ」
リッカが槍を握り直す。
「行くのね」
「ああ」
「レイバーは」
「呼ぶ」
ロビンは若い門弟の一人を見た。
「走れるか」
「はい」
「レイバーに伝えろ。銀鹿亭だ。裏蔵にいる可能性が高い。俺たちは踏み込む」
門弟は一瞬だけ躊躇した。
「援軍を待たないのですか」
「待てば移される」
ロビンは言った。
「公爵騎士団にも伝えろ。オスカー卿へ。銀鹿亭、裏蔵。急げ、と」
「はい!」
門弟は走り出した。
ロビンは銀鹿亭の方角を見た。
宿屋の屋根が、倉庫街の向こうに見える。
池のように油膜の浮く水路。
黒い樽。
夕暮れの湿った空気。
エレオノーラは、あのどこかにいる。
昨日、卵サンドを落として笑った人。
自分をエリーと名乗った人。
公爵家の令嬢である前に、ロビンにとっては、助けなければならない一人の人だった。
「リッカ」
「何」
「無茶をするな」
「それ、私の台詞じゃない?」
リッカは少しだけ笑った。
そして、槍を構え直す。
「でも、助けるんでしょ」
「ああ」
「なら行こう」
ロビンは頷いた。
灰青色の首布が、夕暮れの風に揺れた。
ロビン班は、銀鹿亭へ向かった。
援軍はまだ来ない。
だが、待つ時間もなかった。




