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第11話 銀鹿亭の踏み込み


 銀鹿亭は、思っていたよりも普通の宿だった。


 夕暮れの倉庫街に建つ三階建ての旅籠。表には古びた看板がかかり、角の欠けた銀色の鹿が描かれている。一階は酒場を兼ねているらしく、扉の隙間から酒と煮込みの匂いが漏れていた。


 旅人が泊まり、行商人が荷を預け、運び屋が酒を飲む。


 どこの街にもありそうな宿だ。


 ただし、裏手からは魚油の匂いがした。


 黒い樽。


 荷車置き場。


 水路へ続く細い路地。


 逃げるには都合がよすぎる。


 ロビンは宿の表を見上げた。


 中にエレオノーラがいる。


 確証はない。だが、銀鹿の焼き印、魚油の匂い、下働きの少年の証言。これ以上待てば、彼女は別の場所へ移されるかもしれない。


 援軍はまだ来ていない。


 レイバーも、オスカーも、間に合っていない。


 ロビンの隣で、リッカが短槍を握り直した。


「行くのね」


「ああ」


「正面から?」


「裏に回る人数が足りない」


「派手になるよ」


「静かに済むと思っていない」


 若い門弟たちの顔は硬かった。


 二人とも、灰鷹に入って一年ほどの若者だ。護衛仕事や路地の喧嘩なら経験している。だが、宿に潜む誘拐犯へ踏み込むのは初めてだった。


 ロビンは彼らを見た。


「怖ければ、ここで待て」


 二人は顔を見合わせた。


 そのうち一人、年若い門弟が首を振った。


「行きます」


「相手は賊だ。多いかもしれない」


「隊長が行くなら」


 ロビンは少しだけ息を吐いた。


「なら、勝手に死ぬな。互いの背を見る。リッカより前に出るな」


「なんで私が基準なの」


「一番前に出るからだ」


「わかってるじゃん」


 リッカは小さく笑った。


 その笑みに、門弟たちの緊張がわずかに緩む。


 ロビンは宿の扉へ向かった。


 扉を開けると、酒場の中の視線が一斉に向いた。


 十人ほどの客。


 宿の主人らしき太った男。


 給仕の女。


 酒を飲む行商人。


 だが、その中に混じっている何人かは、明らかに旅人ではなかった。


 腰の位置。


 手の置き方。


 こちらを見る目。


 ロビンは一歩、酒場へ入った。


「銀鹿亭の主人は」


 太った男が、愛想笑いを浮かべた。


「私ですが。お泊まりで?」


「人を探している」


「宿には多くの人が泊まりますので」


「灰色の外套を着た若い女性だ。昨日の夜、裏蔵へ運び込まれた」


 酒場の空気が変わった。


 ほんのわずか。


 だが、ロビンにはわかった。


 当たりだ。


 主人は笑顔を崩さなかった。


「何かの間違いでしょう。当宿は正当な旅籠でして」


「なら、裏蔵を見せてもらう」


「それは困りますな。お客様の荷もありますし」


「困るのはこちらも同じだ」


 ロビンがさらに一歩進んだ瞬間、酒場の奥にいた男が立った。


 椅子が倒れる。


 男の手が短剣へ伸びる。


 リッカの槍が走った。


 短い悲鳴。


 男の手首から短剣が落ちた。


「はい、一人」


 リッカが言う。


 それが合図になった。


 酒場が弾けた。


 客に見えた男たちが、一斉に立ち上がる。短剣、棍棒、小剣。給仕の女が悲鳴を上げ、主人が奥へ逃げようとする。


「押さえろ!」


 ロビンは叫んだ。


 槍を長くは使えない。


 天井は低く、卓が邪魔だ。ロビンは柄を短く持ち、穂先ではなく石突きと柄で相手を打った。喉ではなく手首。胸ではなく膝。殺すより、通路を開ける。


 リッカは狭い酒場で恐ろしく速かった。


 短槍を半身で構え、椅子の間を抜け、男の足を払い、肘を突く。彼女の小柄さが、ここでは武器になっていた。


 門弟たちは必死に続いた。


 一人が棍棒を受け損ね、肩を打たれて膝をつく。


「下がれ!」


 ロビンはその前へ出た。


 男の棍棒が振り下ろされる。


 槍の柄で受け、踏み込み、胸を突く。


 男が息を詰まらせて倒れた。


「裏蔵はどこだ!」


 主人の襟首を掴んだ門弟が叫ぶ。


 主人は震えながら、奥の扉を指差した。


 その扉の向こうから、足音がした。


 多い。


「リッカ!」


「わかってる!」


 奥の扉が開く。


 賊が三人、飛び出してきた。


 ロビンはその先頭へ踏み込んだ。


 雷は使わない。


 宿の中で放てば、味方まで巻き込む。


 だが、バーゼルの踏み込みは雷がなくとも速い。


 一人目の喉元へ穂先を突きつけ、寸前で反らして肩を打つ。二人目の刃を柄で弾き、三人目の膝を石突きで砕く。


 その間を、リッカが抜けた。


「奥!」


 彼女は叫んだ。


 ロビンは門弟たちに酒場を押さえさせ、奥へ走った。


 狭い廊下。


 油の匂い。


 黒い樽。


 階段。


 二階へ続く段の途中にも賊がいた。上から投げられた椅子が壁にぶつかり、砕ける。


「上にもいる!」


「裏蔵が先だ!」


 ロビンは廊下を進んだ。


 奥の扉には、外から閂が掛けられていた。


 リッカが短槍の石突きで叩く。


「硬い!」


「どけ」


 ロビンは槍を引いた。


 息を整える。


 穂先に、青白い光が宿る。


 雷槍。


 全身に雷を通すには狭すぎる。だが、穂先だけなら使える。


 一息。


 突き。


 閂が砕けた。


 扉が内側へ跳ねる。


 そこは裏蔵だった。


 樽と荷箱の間、柱に縄で縛られた女性がいた。


 灰色の外套は汚れ、髪は乱れている。だが、顔を上げた目は、まだ折れていなかった。


「ロビン……?」


 エレオノーラだった。


 ロビンは胸の奥が詰まるのを感じた。


 だが、立ち止まる暇はない。


「助けに来ました」


「ずいぶん早いのね」


 彼女の声は震えていた。


 それでも、冗談を言おうとしていた。


「次はもっと高いものを持って歩くと言ったけれど」


 エレオノーラはかすかに笑った。


「これは、高くつきすぎたかしら」


「弁償は後で」


 ロビンは短く答え、縄を切った。


 リッカが入口を守る。


 エレオノーラは立ち上がろうとして、少しふらついた。薬がまだ残っているのだろう。


 ロビンが支えると、彼女はすぐに自分の足で立とうとした。


「大丈夫ですか」


「歩けるわ。……男の一人、袖に赤茶の糸。もう一人は左手の薬指がなかった。荷車は水路側。逃げ道は裏」


 ロビンは一瞬、目を見開いた。


 彼女は怯えていただけではない。


 見ていたのだ。


 捕らえられている間も。


「助かります」


「助けられているのはこちらよ」


 その時、廊下から怒号が響いた。


 リッカが後退してくる。


「多い!」


 賊が集まっていた。


 酒場にいた者だけではない。二階からも、裏口からも、武装した男たちが押し寄せてくる。


 ロビンはエレオノーラを背にした。


「リッカ、入口を狭く使え」


「わかってる!」


 裏蔵の入口は狭い。


 それが救いだった。


 多勢でも、一度に入れるのは二人か三人。ロビンとリッカはそこに立ち、押し寄せる賊を食い止めた。


 だが、長くは持たない。


 門弟たちの姿は見えない。


 酒場側で足止めされているのだろう。


 賊の一人が、短弓を構えた。


 リッカが気づく。


「ロビン!」


 矢が飛んだ。


 ロビンは槍で弾いた。


 だが、その隙に別の男が踏み込む。


 リッカが割り込んだ。


 短槍が男の肩を突く。


 同時に、男の刃がリッカの腕をかすめた。


「リッカ!」


「かすっただけ!」


 血が袖を濡らしている。


 かすっただけではない。


 それでもリッカは下がらなかった。


 エレオノーラが息を呑む。


 ロビンは歯を食いしばった。


 このままでは押し切られる。


 援軍はまだか。


 そう思った瞬間だった。


 宿の表側から、雷とは違う轟音が響いた。


 空気が震えた。


 白い煙が廊下へ流れ込む。


 賊たちが一斉に身をすくませた。


「何だ!」


「魔術か!」


 煙の向こうから、聞き慣れた声がした。


「遅いが、最初の一発は悪くねえな」


 レイバーだった。


 彼は火薬筒を肩に担ぎ、煙の中から現れた。顔は煤で汚れ、目だけがぎらぎらしている。


 その後ろに、ローレンス、リオン、灰鷹の若者たち。


「隊長、無事か!」


「遅い!」


 リッカが叫ぶ。


「火薬を詰めるのに時間がかかるんだよ!」


 レイバーは怒鳴り返した。


 賊たちは火薬筒の轟音に怯んでいた。


 まだこの武器を見慣れていない者には、音と煙だけでも十分な恐怖になる。


 レイバーはすぐに火薬筒を下げた。


「次は間に合わねえ。押すぞ!」


 その言葉通り、彼は片手剣を抜いた。


 リオンが横を抜け、逃げようとした男の進路を塞ぐ。動きは冷静で無駄がない。ローレンスは負傷した門弟を引きずり、酒場側の退路を開けていた。


 形勢が変わった。


 ロビンはエレオノーラを若い門弟に預け、前へ出た。


 槍を構える。


 リッカが隣に立つ。


 腕から血を流しながら、笑っている。


「まだやれるか」


「誰に言ってるの」


「そうだったな」


 ロビンは踏み込んだ。


 灰鷹が押し返す。


 廊下から酒場へ。


 酒場から表へ。


 賊たちは崩れ始めた。


 何人かが裏口へ走る。


 逃げ道があると思ったのだろう。


 だが、裏口の外で金属の音がした。


 剣が抜かれる音。


 重い足音。


 そして、低い声。


「そこまでだ」


 オスカー・フォン・ヴァルトが立っていた。


 その背後には、公爵騎士団。


 少数だが、精鋭だった。


 彼らはすでに裏口、水路側、荷車置き場を押さえていた。逃げ込もうとした賊は、公爵騎士の剣の前で立ち止まるしかない。


 オスカーの剣が、夕暮れの光を受けて鈍く光った。


「フォンヴァルト公爵家の令嬢に手を出した罪、軽いと思うな」


 賊の一人が、やけになって斬りかかった。


 オスカーは一歩も退かなかった。


 一閃。


 男の剣が弾かれ、次の瞬間、床に叩き伏せられていた。


 豪快というより、重い。


 戦場で人を止める剣だった。


 残った賊たちは、次々に武器を捨てた。




   ◇




 銀鹿亭の裏蔵から外へ出た時、空はすでに暗くなり始めていた。


 エレオノーラは公爵騎士団の外套を肩にかけられ、ミラと再会した。


 侍女は泣きながら膝をつこうとしたが、エレオノーラがそれを止めた。


「あなたも無事でよかった」


「お嬢様……」


「泣くのは、馬車に乗ってからにしましょう」


 声はまだ少し震えていた。


 それでも、エレオノーラは立っていた。


 ロビンは少し離れた場所でそれを見ていた。


 近づいてよいのか、わからなかった。


 昨日、彼女はエリーだった。


 卵サンドを落とした女の子だった。


 だが今、彼女はエレオノーラ・フォン・ヴァルト。


 公爵家三女。


 皇族外戚の令嬢。


 その距離を、ロビンは初めてはっきり感じた。


 エレオノーラがこちらを見た。


 歩み寄ろうとして、護衛に止められる。


 彼女は護衛に何かを言い、数歩だけロビンへ近づいた。


「助けてくれて、ありがとう」


 ロビンは頭を下げた。


「ご無事で何よりです、エレオノーラ様」


 彼女は一瞬だけ、寂しそうな顔をした。


「エリーでは、なくなったのね」


 ロビンは言葉に詰まった。


 エレオノーラはすぐに表情を戻した。


「当然ね。私が、隠していたのだもの」


「いえ」


「また、弁償の話をしましょう」


 彼女は小さく笑った。


「今度は、落としたものが高すぎたから」


「私に払えるものであれば」


「では、覚えておいて」


 それだけ言って、エレオノーラは騎士たちの方へ戻った。


 リッカが、少し離れたところでそれを見ていた。


 腕の手当てをローレンスに受けながら、何も言わない。


 レイバーは火薬筒を布で包み直し、ため息をついた。


「一発撃つだけで、耳が痛え」


「でも助かった」


 ロビンが言うと、レイバーは肩をすくめた。


「次はもっと上手く撃つ」


「次がない方がいい」


「それはそうだ」


 オスカーが歩いてきた。


 その顔には疲労と怒りが残っていたが、目には別の光がある。


 彼はロビンの前で足を止めた。


「ロビン・フォン・バーゼル」


「はい」


「よくやった」


 短い言葉だった。


 だが、重かった。


「姪を守り、我らが包囲するまで持ちこたえた。下町での鼻も利く。灰鷹の名、伊達ではないな」


「我々だけでは、逃がしていたかもしれません。公爵騎士団の包囲があってこそです」


「謙遜も過ぎれば嫌味だぞ」


 オスカーは少し笑った。


 そして、ロビンの槍を見た。


「馬はなくとも、雷は残っていたか」


 ロビンは息を呑んだ。


「祖父には、まだ及びません」


「当然だ。あれに簡単に及ばれては、俺の思い出が安くなる」


 オスカーは豪快に言った。


 それから、声を少し低くする。


「良き若者よ。必ず公爵閣下に伝えようぞ」


 ロビンは深く頭を下げた。


 灰青色の首布が、胸元で揺れた。


 銀鹿亭の前には、捕らえられた賊たちが並べられている。


 だが、その中の何人かは、妙に口を固く閉ざしていた。ある者は毒を呑もうとして取り押さえられ、また別の者は、問いに対して「知らぬ」とだけ繰り返す。


 黒幕は、まだ見えない。


 事件は終わった。


 だが、すべてが片づいたわけではない。


 それでも、その夜、灰鷹の名は確かにフォンヴァルト公爵家へ届いた。


 町道場の若い鷹たちは、初めて大貴族の空へ羽ばたくきっかけを得たのだった。


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