第12話 帝都巡衛隊第三分隊
銀鹿亭の夜から、三日が経っていた。
その三日のあいだ、ハルト道場の離れには、普段よりも多くの人が出入りした。
怪我をした門弟を見舞う者。銀鹿亭での騒ぎを聞きつけ、詳しい話を聞こうとする者。いつもの護衛仕事を頼みに来て、道場の前に立つ騎士の姿を見て慌てて帰る者。屋台の親父は卵とレタスを挟んだパンを差し入れに持ってきたが、ロビンはそれを見た途端、少しだけ顔を赤くした。
リッカはその顔を見て、何も言わずに木槍の石突きで床を叩いた。
「何か言いたいなら言え」
「別に」
「別にという顔ではない」
「じゃあ、別にじゃない」
「どっちだ」
レイバーは隅で笑っていた。
「隊長殿は公爵家のお姫様を助けたんだ。卵パンくらいで動揺するなよ」
「動揺していない」
「してる顔だ」
ローレンスが包帯の残りを畳みながら、困ったように言った。
「レイバー、あまりからかわない方がいい。今日は公爵家へ行くんだから」
「だからこそだろ。緊張で槍を落とされたら困る」
「槍は落とさない」
ロビンはそう言ったが、自分でも声が少し硬いことはわかっていた。
今日は、フォンヴァルト公爵家の帝都屋敷へ呼ばれている。
銀鹿亭で救い出した少女――エレオノーラ・フォンヴァルト。
公爵家三女。
あの路地で、灰色の外套をまとい、卵とレタスの挟まったパンを落として、ロビンに弁償を求めた少女。
エリー。
その名を思い浮かべた瞬間、ロビンは胸の奥が妙に落ち着かなくなるのを感じた。
だが、今日会う相手はエリーではない。
北方公爵家の姫君だ。
そしてロビンは、町道場の離れに寝泊まりする没落貴族の子に過ぎない。
「服、曲がってる」
リッカが不意に言った。
「え?」
「襟」
ロビンが自分で直そうとすると、リッカは少し乱暴に手を伸ばし、上着の襟を正した。
彼女の指は稽古で固く、温かかった。
「……ありがとう」
「別に。公爵家に行くのに、みっともないと困るから」
「そうだな」
リッカはそれ以上何も言わず、短槍を肩に担いだ。
ローレンスは何度も自分の袖口を見直していた。彼の上着は新しくない。何度も繕った跡がある。けれど、きれいに洗われ、折り目も整っていた。
「ローレンス、緊張してるのか」
レイバーが言う。
「してるよ。君はしていないの?」
「してる」
「嘘だ」
「いや、してる。俺は場違いな場所に行く時ほど腹が減る」
「それはいつもじゃないか」
ローレンスが笑った。
笑い声は小さかったが、少しだけ離れの空気を軽くした。
その時、表からハルト師範の声がした。
「ロビン。迎えが来たぞ」
四人は顔を上げた。
戸の向こうに、フォンヴァルト公爵家の騎士が立っていた。
飾り気のない黒い外套。胸元に、北方の森をかたどった銀の留め具。
馬車ではない。
徒歩だった。
それがかえって、公爵家の気遣いなのだろうとロビンは思った。下町の道場へ仰々しい馬車を寄せれば、噂が広がる。公爵家は目立たぬように、しかし確かに迎えを寄越したのだ。
ロビンは槍を手に取った。
穂先は布で覆ってある。
公爵家の屋敷に武器を持って入ることが許されるかどうかはわからない。だが、バーゼルの者が槍を持たずに行くのも、どこか違う気がした。
ハルト師範は、いつものように腕を組んで立っていた。
「行ってこい」
「はい」
「頭を下げるところでは下げろ。だが、腰まで折るな」
ロビンは師範を見た。
ハルトは続けた。
「お前たちは下町の若造だ。だが、銀鹿亭で人を助けたのもお前たちだ。胸まで折ったら、助けた者の値打ちまで安くなる」
レイバーがにやりとした。
「師範、たまに格好いいこと言いますね」
「たまにとは何だ」
「いつもだと嘘になります」
ハルトの拳がレイバーの頭に落ちた。
「痛っ」
「これで少しは礼儀が入っただろう」
リッカが小さく笑った。
ロビンも笑った。
そして、深く息を吸った。
灰青色の首布を巻き直す。
彼らは道場を出た。
◇
フォンヴァルト公爵家の帝都屋敷は、帝都の北寄り、貴族街の奥にあった。
帝都の中心に近づくにつれ、道の石畳は滑らかになり、家々の壁は高くなり、人々の声は低くなる。
下町では、鍋の音、荷車の軋み、子どもの叫び、屋台の呼び込みが絶えない。だが貴族街では、馬の蹄の音さえ抑えられているように聞こえた。
ロビンたちは明らかに浮いていた。
灰青色の首布。
使い込まれた槍。
繕い跡のある上着。
リッカの短槍を見た通行人が、眉をひそめて道の端へ寄る。レイバーはそれを見て、わざとらしく首布を直した。
「見られてるな」
「見られてるね」
ローレンスが小声で答える。
「胸を張れ」
ロビンは言った。
「師範に言われたばかりだ」
「隊長が一番硬い」
リッカが呟いた。
「そうか?」
「槍より硬い」
レイバーが吹き出しかけた。
やがて、灰色の石で築かれた大きな門が見えた。
派手な金飾りはない。
だが、門柱の太さと高さ、そこに立つ騎士たちの姿だけで、この家の力がわかる。
門の上には、北方の森と鷹を組み合わせた紋章が掲げられていた。
帝都にありながら、そこだけ空気が冷たい。
ロビンは思わず、グラウフェルトの朝を思い出した。
シーベルト火山の灰色の稜線。
風に揺れる草。
北の要塞。
あの土地もまた、フォンヴァルト公爵家の守りの下にあった。
かつてバーゼルの槍は、皇帝の戦列にあったという。
祖父は馬上で雷をまとい、戦場を駆けたという。
だが今、自分は借り物に近い上着を着て、下町の仲間たちと共に、公爵家の門の前に立っている。
誇らしいのか、悔しいのか、自分でもわからなかった。
門番の騎士が彼らを見た。
案内役の騎士が短く名を告げる。
「灰鷹の者たちだ。オスカー卿の命で参上した」
門番の視線が、ロビンの顔、槍、首布へ移った。
ほんの一瞬、値踏みするような間があった。
それから騎士は頷いた。
「通れ」
門が開いた。
石畳の先に、広い中庭があった。
華美な花壇ではなく、低く刈られた常緑樹と、訓練用の砂地。屋敷の一角には小さな厩舎があり、よく手入れされた馬が数頭、静かに首を振っている。
リッカの目が馬に止まった。
ロビンも見た。
筋肉の張った、北方産らしい強い馬だった。
あの馬に乗り、槍を構えたなら。
そんな想像が、一瞬だけ胸を突いた。
だが、すぐに消した。
今の自分たちにはまだ遠い。
「見るなよ、隊長」
レイバーが小声で言った。
「何を」
「欲しそうな顔してたぞ」
「していない」
「してた」
リッカが短く言った。
ロビンは黙った。
屋敷の玄関前に、オスカー・フォン・ヴァルトが立っていた。
黒い礼服に身を包んでいるが、その立ち姿は鎧を着ている時と変わらない。幅広い肩、短く刈り込まれた白混じりの金髪、飾りを嫌う鋭い目。
彼はロビンたちを見ると、口元をわずかに上げた。
「来たか」
ロビンは膝を折ろうとした。
だがオスカーは手を上げた。
「ここでは礼を受ける立場だが、まだ中庭だ。膝は要らん」
「はい」
「よく来た、灰鷹」
灰鷹。
公爵騎士団長の口からその名が出ると、下町で呼ばれる時とは違う重さがあった。
オスカーはリッカ、レイバー、ローレンスにも視線を向けた。
「銀鹿亭ではよくやった。少人数で踏み込み、姪を生かして連れ戻した。あれは無謀だ」
リッカの眉が動いた。
「無謀、ですか」
「ああ。無謀だ」
オスカーは即答した。
「だが、無能ではできん」
リッカは少し黙った。
レイバーが小声で言った。
「褒められてるぞ」
「わかってる」
「わかってない顔だ」
オスカーはそのやり取りを見て、わずかに笑った。
「若いな」
ローレンスが恐縮して頭を下げる。
「お見苦しくて申し訳ありません」
「いや、いい。若い者が若いのは罪ではない。若いくせに死んだ目をしている方が問題だ」
そう言うと、オスカーの目が少しだけ暗くなった。
帝都には今、若いくせに死んだ目をした者が増えている。
ロビンは、そんな言葉が続くのではないかと思った。
だがオスカーはそれ以上言わず、屋敷の中へ向かった。
「来い。弟が待っている」
弟。
つまり、フォンヴァルト公爵本人である。
ロビンの背筋が、自然と伸びた。
◇
通された部屋は、豪奢ではなかった。
高い天井。厚い絨毯。壁には北方の地図と、古い戦の絵。暖炉の上には剣と槍が交差して飾られている。
金細工や香水の匂いよりも、磨かれた革と古い紙の匂いがした。
武門の家の部屋だった。
その奥に、一人の男が立っていた。
年はオスカーより少し若い。髪は同じ金だが、長めに整えられ、服装も柔らかい。けれど、目は似ていた。
人を見る目。
ただ優しいだけではない。領地、人、兵、金、名誉、恨み――そうしたものを秤に乗せてきた者の目だった。
案内役が告げる。
「フォンヴァルト公爵閣下であらせられます」
ロビンたちは今度こそ膝を折った。
「ロビン・フォン・バーゼル、ならびに灰鷹の者たち、召しにより参上いたしました」
声が少し硬い。
自分でもわかった。
公爵は穏やかに言った。
「顔を上げてくれ」
ロビンは顔を上げた。
「私はアルブレヒト・フォン・ヴァルト。北方公爵家を預かる者だ」
アルブレヒト。
フォンヴァルト公爵。
この帝国において、皇室の傍流に連なる大貴族。北方の森と海を押さえ、ヴァルトハイムを治める者。
その男が、ロビンたちに向かって静かに頭を下げた。
「娘を救ってくれたこと、フォンヴァルト家は忘れない」
ロビンは息を呑んだ。
公爵が、頭を下げた。
ほんのわずかだ。形式としては礼の範囲だろう。だが、それでも、公爵が下町の若者たちに礼を示した事実は重かった。
「もったいなきお言葉です」
ロビンはそう言うのが精一杯だった。
アルブレヒトは椅子を示した。
「座ってくれ。今日は礼だけで呼んだのではない」
ロビンたちは互いに一瞬だけ目を合わせた。
椅子に座ることすら緊張する。
レイバーはいつもより少しだけ動きがぎこちなかった。ローレンスは背筋を伸ばしすぎている。リッカは座らずに立っていたそうだったが、ロビンが目で促すと渋々腰を下ろした。
オスカーは公爵の隣に立ったままだった。
アルブレヒトはまず、銀鹿亭事件の処理について語った。
「捕らえた賊の多くは、まだ口を割っていない。中には捕縛直後に毒を呑もうとした者もいた」
「毒を」
ローレンスが小さく呟いた。
「単なる身代金目的ではない、ということだ」
オスカーが言った。
「姪を傷つけ、フォンヴァルト家の名誉を汚す。あるいは、我らに帝都で兵を動かさせ、謀反の疑いをかける。狙いは一つではないだろう」
レイバーが眉をひそめた。
「厄介ですね」
「そうだ。厄介だ」
オスカーはレイバーを見た。
「だが、お前たちはその厄介事に首を突っ込んだ」
「突っ込まざるを得なかったので」
「理由は?」
「待っていたら、あの方が移されていた」
「他には」
レイバーは少しだけ黙り、それから肩をすくめた。
「隊長が行く顔をしていた」
リッカが頷いた。
「してた」
ローレンスも困ったように笑った。
「していました」
ロビンは仲間たちを見た。
「お前たち」
アルブレヒトが微笑んだ。
「良い仲間を持っているな、バーゼルの子」
「はい」
ロビンは迷わず答えた。
その答えに、レイバーが少しだけ目を逸らした。
公爵は表情を引き締めた。
「帝都の治安は悪くなっている」
部屋の空気が変わった。
「第一の征伐以来、表向きには何も変わっていないことになっている。帝国軍はチェシー王国の反乱分子に十分な打撃を与えた。宮廷はそう言っている」
チェシー王国。
公爵もまた、共和国とは呼ばない。
ロビンは凱旋式の日を思い出した。
凱旋という名の帰還。
歓声の裏で、行商人たちが囁いていた敗走の噂。
「だが、民は耳を持っている」
アルブレヒトは続けた。
「帝国が敗れたのではないか。平民どもの火薬筒が、騎士を倒したのではないか。王権を否定する者たちが、神の秩序に傷をつけたのではないか。そうした声は、酒場や市場や裏通りで増えている」
オスカーが低く言った。
「帝都警備隊だけでは足りん。いや、足りないだけならまだいい。中には、誰の耳かわからん耳も混じっている」
ロビンは銀鹿亭事件の時を思い出した。
公爵家は警備隊に知らせられなかった。
それはエレオノーラの名誉のためだけではない。
帝都の公式な目と耳が、すでに清らかではなくなっているからだ。
「そこでだ」
アルブレヒトはロビンたちを見た。
「君たちを、オスカーの指揮下に置きたい」
ロビンは一瞬、意味を掴めなかった。
「我らを、ですか」
「そうだ」
公爵は机の上の書状に手を置いた。
「君たちは下町を知っている。町の者に名を知られている。腕もある。そして何より、銀鹿亭で示した。危険を前にしても動ける者たちだ」
ローレンスの喉が鳴った。
リッカは黙っている。
レイバーは、いつものように軽口を叩かなかった。
アルブレヒトは続けた。
「もっとも、いきなり騎士に取り立てるわけではない。帝国の秩序には、段階というものがある」
ロビンの胸に、小さな痛みが走った。
騎士。
その言葉を聞いただけで、どうしようもなく反応してしまう。
幼い頃から見上げてきたもの。
皇帝の御楯。
祖父の槍がいた場所。
だが、目の前の公爵は正しい。
ロビンたちはまだ騎士ではない。
田舎の道場から出てきた若者たちだ。
オスカーが、その顔を見逃さなかった。
「不満か」
「いえ」
「嘘が下手だな」
ロビンは言葉に詰まった。
オスカーは少しだけ口元を上げた。
「騎士になりたかった顔だ」
「……はい」
ロビンは正直に答えた。
「私は、騎士に憧れて帝都へ来ました。皇帝陛下の御楯となる者に」
「なら、ここから上がってこい」
オスカーの声は硬かった。
だが、突き放す硬さではなかった。
「槍を持つ場所が、馬上だけとは限らん。皇帝の御楯だけが、民を守る盾でもない。下町の路地で、泣いている子を守る槍もある」
ロビンは息を呑んだ。
「お前の祖父は、馬上で雷を振るった。だが今のお前は、馬を持たずとも雷を残している。それをどこで振るうかは、お前が決めろ」
リッカがロビンを見た。
レイバーも、ローレンスも。
ロビンは、膝の上で拳を握った。
「……はい」
アルブレヒトが書状を開いた。
「ロビン・フォン・バーゼル」
「はい」
「ならびに、灰鷹と呼ばれる若者たち」
その名が、公爵の口から出た。
「汝らを、フォンヴァルト公爵騎士団長オスカー・フォン・ヴァルトの指揮下に置く。帝都巡衛隊第三分隊として、帝都北区および下町周辺の治安維持にあたれ」
帝都巡衛隊第三分隊。
長い名だった。
だが、確かに公式の名だった。
「任務は、巡衛、暴徒の鎮圧、誘拐・武装集団への対応、公爵家関係施設の警護。必要に応じ、帝都警備隊と連携する。ただし、越権は許さない。剣を抜く時は、責任も抜くものと思え」
「承知しました」
ロビンは深く頭を下げた。
仲間たちも続いた。
胸の奥が熱かった。
騎士ではない。
皇帝直属でもない。
だが、初めて帝都の秩序の中に、自分たちの立つ場所ができた。
町道場の離れに集まった、田舎者と平民と没落貴族たち。
手書きの旗を掲げて走った悪ガキたち。
その延長に、今、公式の名が置かれた。
その時、部屋の奥の扉が静かに開いた。
ロビンは顔を上げた。
エレオノーラが立っていた。
◇
彼女は薄い青のドレスをまとっていた。
銀鹿亭で見た灰色の外套はない。
髪は丁寧に結われ、首元には小さな宝石が光っている。顔色はまだ少し白かったが、背筋はまっすぐだった。
公爵家の姫君だった。
だが、ロビンにはどうしても、あの日の少女が重なって見えた。
卵とレタスのサンドイッチを落とし、ヴェールの奥で笑った少女。
エリー。
エレオノーラは公爵に一礼し、オスカーに目を向け、それからロビンたちへ歩み寄った。
リッカの身体が、わずかに硬くなった。
ローレンスは慌てて視線を伏せた。
レイバーは珍しく黙っている。
ロビンは立ち上がり、深く礼をした。
「エレオノーラ様。ご無事で何よりでございました」
その言葉を口にした瞬間、自分の声が遠く聞こえた。
エリーではない。
エレオノーラ様。
それが正しい。
正しいはずだった。
エレオノーラは微笑んだ。
「ロビン様。先日は、弁償の続きをする前に助けられてしまいましたね」
公爵が少しだけ眉を上げた。
オスカーは面白そうにロビンを見た。
レイバーの肩が震えた。
リッカの視線が鋭くなった。
「弁償、ですか」
アルブレヒトが娘に尋ねる。
「はい、お父様。私が下町で買ったサンドイッチを、こちらのロビン様が落とされたのです」
「ぶつかったのは偶然で」
ロビンは思わず言った。
エレオノーラは楽しそうに目を細めた。
「もちろん、偶然です。けれど弁償はしていただきました」
「銀貨一枚で足りたのか」
オスカーが言う。
「叔父様、そういう問題ではありません」
「そうか」
オスカーは笑った。
部屋の空気が少し緩んだ。
だが、エレオノーラの目はロビンから離れなかった。
「もう、エリーとは呼んでくださらないのですね」
ロビンは言葉を失った。
その一言は、柔らかかった。
責めているわけではない。
けれど、確かに間にある距離を指でなぞるような言葉だった。
リッカが俯いた。
ローレンスは息を止めている。
レイバーも茶化さなかった。
ロビンは答えを探した。
「あの時のあなたは、エリーでした」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど真面目だった。
「けれど今のあなたは、フォンヴァルト公爵家の姫君です。私が軽々しくお呼びしてよい方ではありません」
エレオノーラは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「律儀なのですね」
「よく言われます」
「誰に?」
ロビンは思わず仲間たちを見た。
レイバーが手を上げた。
「主に俺です」
ローレンスも小さく手を上げた。
「僕も、少し」
リッカは手を上げなかった。
「私は言ってない」
「言っているだろう」
「言ってない。硬いとは言った」
エレオノーラが笑った。
銀鹿亭の暗い蔵で見た時とは違う、明るい笑みだった。
「良い仲間ですね」
ロビンは頷いた。
「はい。私の誇りです」
その言葉に、リッカが少しだけ目を伏せた。
エレオノーラはそれを見たかもしれない。
だが何も言わなかった。
代わりに、ロビンへ向き直る。
「では、いつかまた、エリーと呼んでいただける日を待つことにします」
ロビンは胸を打たれたような気がした。
その「いつか」は、あまりにも遠い。
公爵家の姫君と、没落したバーゼル家の子。
帝都巡衛隊第三分隊の隊長と、公爵家三女。
身分差は、目に見えない壁としてそこにあった。
だが、その壁の向こうから、彼女は手を伸ばすように言ったのだ。
いつか、と。
「……その日が来るよう、励みます」
ロビンはそう答えるのが精一杯だった。
エレオノーラは満足げに頷いた。
オスカーが咳払いをした。
「若い者同士の話はそこまでだ」
レイバーが小声で言った。
「叔父さん、邪魔したな」
ローレンスが肘でレイバーを突いた。
オスカーの目がレイバーへ向いた。
「聞こえているぞ」
「失礼しました」
レイバーは即座に頭を下げた。
アルブレヒトは笑みを隠すように書状を閉じた。
「第三分隊の詳細は、後ほどオスカーから伝えさせる。俸給、詰め所、巡衛区域、権限。すべて段階的に整える」
俸給。
その言葉に、ローレンスの目がわずかに動いた。
家への仕送り。
母と弟妹たち。
ロビンはそれに気づいた。
この任命は、夢だけではない。
仲間たちの生活にも関わる。
「ありがたく拝命いたします」
ロビンは再び頭を下げた。
その横で、レイバーがふと腰の火薬筒に手を触れた。
オスカーはそれを見逃さなかった。
「レイバー」
「はい」
「あれを撃ったのはお前だな」
「銀鹿亭での一発ですか」
「そうだ」
「壊れかけを直しただけです。まともな品じゃありません」
「どう見た」
レイバーは少し考えた。
軽口ではなく、本気で。
「怖い武器です」
部屋が静かになった。
「平民でも撃てる。小さな火を灯す程度の魔法があれば、貴族の魔術師でなくても人を殺せる。あれが数百、数千と並べば、戦場は変わると思います」
オスカーの目が細くなる。
「続けろ」
「けど、遅い」
レイバーは言った。
「一発撃った後、次を撃つまでに時間がかかる。煙も出る。手元も忙しい。雨にも弱そうだ。音はでかいが、神の雷じゃない。人間が作ったものです」
その言葉に、オスカーはしばらく黙った。
やがて、低く笑った。
「面白い」
「面白いですかね」
「少なくとも、怖がるだけの者よりは面白い」
レイバーは肩をすくめた。
「怖いですよ。だから調べるんです」
オスカーは頷いた。
「後で話を聞く」
「俺からですか」
「お前からだ」
レイバーは少し困った顔をした。
「隊長、俺だけ怒られる流れじゃないよな」
「怒られる理由があるのか」
「闇市で火薬筒を買ったこととか」
ローレンスが即座に言った。
「あります」
リッカも頷いた。
「ある」
エレオノーラがまた笑った。
その笑い声は、部屋の重さを少しだけ溶かした。
◇
公爵家の屋敷を出る頃、空は薄く曇っていた。
帝都の貴族街の石畳は、夕方の光を受けて鈍く光っている。
ロビンの懐には、正式な任命書の写しがある。
帝都巡衛隊第三分隊。
その文字は重かった。
重いのに、どこかくすぐったい。
「帝都巡衛隊第三分隊」
レイバーが歩きながら呟いた。
「長いな」
ローレンスが真面目に言う。
「正式名称だから、大事だよ」
「喧嘩の仲裁中に名乗ってみろ。『我ら帝都巡衛隊第三分隊は』って言ってる間に殴られるぞ」
「名乗り終わるまで待ってくれる相手もいるかもしれない」
「いねえよ」
リッカが短く言った。
「灰鷹でいい」
「だよな」
レイバーが頷く。
「でも、正式には第三分隊だ」
ロビンは言った。
「公爵閣下からいただいた名だ。軽んじるな」
「軽んじてはいない」
レイバーはにやりとした。
「ただ、町の連中が呼べるかどうかは別だ」
その言葉は、道場へ戻る頃には証明された。
ハルト道場の前には、いつもより多くの人が集まっていた。
門弟たち。近所の子ども。屋台の親父。行商人。以前助けた宿屋の下働きの少年。怪我人を運んだことのある薬師の女。
誰かがロビンたちを見つけると、声を上げた。
「帰ってきたぞ!」
「おう、灰鷹の隊長!」
「公爵様に呼ばれたって本当か!」
「お姫様を助けたんだろ!」
「静かにしろ」
ハルト師範が一喝したが、あまり効いていなかった。
屋台の親父が身を乗り出す。
「それで、何て名になったんだ?」
ロビンは少し胸を張った。
「正式には、帝都巡衛隊第三分隊――」
「長えな」
親父は即答した。
周囲が笑った。
ロビンは言葉に詰まる。
ローレンスが助け舟を出そうとした。
「帝都の北区および下町周辺の治安維持を担当する、フォンヴァルト公爵騎士団隷下の――」
「もっと長くなったぞ」
レイバーが言った。
子どもたちが笑う。
リッカが面倒そうに言った。
「灰鷹隊でいい」
その一言に、屋台の親父が手を叩いた。
「そうだ、それでいいじゃねえか。灰鷹隊だ」
「灰鷹隊!」
子どもが真似して叫んだ。
「灰鷹の兄ちゃんたち!」
「灰鷹の姉ちゃんもいる」
リッカが子どもを睨んだ。
子どもは笑って逃げた。
レイバーがロビンの肩を叩く。
「だとよ、隊長」
「正式名称も大事だ」
「わかってる。書類にはそう書く」
「書類には?」
「人には灰鷹で通す」
ロビンは反論しようとした。
だが、目の前の人々を見て、言葉を止めた。
彼らは公爵家の任命書を見て集まったのではない。
灰青色の首布を巻いた若者たちが、帰ってきたから集まっている。
下町の喧嘩を止め、行商人を守り、迷子を探し、悪質な用心棒を追い払い、そして銀鹿亭で攫われた少女を助けた者たち。
彼らにとっての名は、最初から一つだった。
灰鷹。
ロビンは懐の任命書に手を当てた。
重い紙だった。
だが、目の前の呼び声もまた、同じくらい重かった。
ハルト師範が近づいてきた。
「良い顔をしているな」
「そうでしょうか」
「少しだけ、夢に近づいた顔だ」
ロビンは苦笑した。
「騎士には、まだ遠いです」
「遠いなら歩け。槍を持っているのだろう」
ハルトはそう言って、道場の奥へ戻っていった。
ロビンは空を見上げた。
帝都の空は、グラウフェルトより狭い。
屋根と煙突と塔に切り取られている。
それでも、その空の下で、自分たちの名が呼ばれている。
灰鷹隊。
手書きの旗を掲げた悪ガキたちの名が、帝都の下町で息をし始めていた。
こうして、帝都巡衛隊第三分隊は生まれた。
だが帝都の人々は、その名をほとんど呼ばなかった。
灰青色の首布を巻いた若者たち。
町を駆ける、若い鷹たち。
彼らはただ、灰鷹隊と呼ばれた。




