第13話 灰鷹隊、帝都を駆ける
帝都巡衛隊第三分隊。
それが、ロビンたちに与えられた正式な名だった。
フォンヴァルト公爵家の書記官が作った任命書にも、オスカー・フォン・ヴァルトの署名が入った通達にも、そう記されている。
帝都北区および下町周辺の巡衛、騒乱の鎮圧、要人および公爵家関係施設の警護、必要に応じた帝都警備隊との連携。
文言は立派だった。
権限も、以前よりはずっと大きい。
だが、その名は長かった。
あまりにも長かった。
「帝都巡衛隊第三分隊、集合!」
朝のハルト道場の庭で、ロビンがそう声を張った時、集まった門弟たちは一斉に顔を見合わせた。
一拍遅れて、ばらばらと返事が返る。
「は、はい」
「第三……何でしたっけ」
「巡……ええと」
「灰鷹隊でいいんじゃないですか」
最後の一言を口にした若い門弟の脛に、リッカの木槍の石突きが軽く当たった。
「隊長が真面目に言ってる」
「す、すみません」
リッカはそう言いながらも、本人も少し面倒そうな顔をしていた。
レイバーは腕を組み、庭の隅で笑いをこらえている。
ローレンスは任務表を抱えながら、申し訳なさそうにロビンを見た。
「ロビン、正式名称は大事だけど、毎朝それを言うのは少し長いかもしれない」
「公爵閣下から賜った名だ」
「うん。だから書類にはちゃんと書こう」
「書類には?」
ローレンスは困ったように微笑んだ。
「朝礼では、灰鷹隊でもいいんじゃないかな」
ロビンは反論しようとした。
だが、集まった二十数人の門弟たちが、どう見ても「灰鷹隊」の方を望んでいる顔をしていた。
帝都巡衛隊第三分隊。
胸の奥では誇らしい。
しかし、町道場の庭で木槍を持った若者たちに呼びかけるには、いささか硬すぎる名でもあった。
レイバーが一歩前に出た。
「じゃあ、俺が現実的な案を出してやる。書類、報告、貴族や警備隊の前では帝都巡衛隊第三分隊。町では灰鷹隊。朝礼でも灰鷹隊。喧嘩の最中も灰鷹隊。長い名乗りをしている間に殴られたら、罰金」
「なぜ罰金が出てくる」
「規律には罰が要る」
レイバーは腰に手を当て、門弟たちを見回した。
「というわけで、今日から規則を決める。遅刻一回、銅貨三枚。任務中の飲酒、銀貨一枚。巡回中に町の女へちょっかいを出したら、俺が殴る。隊長の前で格好つけて失敗したら、リッカが殴る」
「私なの?」
「お前の方が効く」
門弟たちが小さく笑った。
レイバーは笑わなかった。
「笑っているが、本気だ。俺たちは昨日までの用心棒崩れじゃない。公爵家の名を背負う。町の連中は俺たちを灰鷹と呼ぶ。なら、灰鷹の名を汚すな。酒に酔って人を殴るな。弱い者から金を取るな。頼まれてもいないのに偉そうにするな」
庭が静かになった。
レイバーは続ける。
「俺たちは騎士じゃねえ。貴族様でもねえ。だからこそ、町の連中は俺たちを見ている。偉い奴らと同じことをしたら、ただの下手な真似だ。わかったか」
「はい!」
今度の返事は揃っていた。
ロビンはレイバーを見た。
普段は軽口を叩く男だ。
だが、こういう時のレイバーは、誰よりも灰鷹隊のことを考えている。
ロビンは一歩前へ出た。
「レイバーの言う通りだ。俺たちはまだ小さな部隊だ。だが、小さいからといって軽くあっていいわけではない。灰鷹の名を汚すな。町を守る。人を守る。任務を果たす」
言い終えると、レイバーが横から小声で言った。
「今、いいこと言ったつもりだろ」
「言ったつもりではない。言った」
「自信満々だな」
リッカが短槍を肩に担いだ。
「巡回、行くんでしょ」
「ああ」
ロビンは頷いた。
「灰鷹隊、出るぞ」
今度は返事が一つに揃った。
◇
帝都北区の朝は、騒がしい。
荷車が石畳を軋ませ、パン屋の煙突から白い煙が上がり、魚油を扱う倉庫の前では、早くも鼻を刺す匂いが漂っている。
市場の入り口では、野菜を積んだ荷車と布を運ぶ商人が互いに道を譲らず、怒鳴り合っていた。
「だから、こっちは夜明け前から場所を取ってたんだ!」
「場所代は払っている。書付もある。お前の荷車が勝手に半歩はみ出したんだろう!」
「半歩で商売ができるか!」
「なら足を短くしろ!」
周囲の商人たちが面白がって集まり始めている。
ロビンたちが近づくと、誰かが声を上げた。
「灰鷹さんだ!」
「ちょうどいい、仲裁してくれ!」
ロビンは二人の間に立った。
「まず、荷車を下げてください。道が塞がっています」
「こいつが先に」
「下げてください」
ロビンの声は穏やかだったが、槍の石突きが石畳を叩く音で、二人は黙った。
リオン・フォン・アルトベルクが、一歩後ろから書付を受け取った。
リオンは灰鷹隊に入ってからも、どこか他の者と違う空気をまとっている。没落貴族とはいえ、立ち居振る舞いは貴族のそれだった。指先で紙の端を整え、印章を確認し、露店の位置を示す古い図と照らし合わせる。
「布商人の主張が正しい。野菜の荷車が一尺、指定された位置を越えている」
「一尺くらいで」
野菜売りが食い下がろうとした瞬間、レイバーが肩に手を置いた。
「一尺くらいで揉めるから、俺たちが呼ばれるんだよ」
「いや、しかし」
「荷車を下げる。代わりに、今日は向かいの空き場所を半刻だけ使えるように市場役に話を通す。明日からは線を守れ」
「市場役が聞くか?」
リオンが淡々と言った。
「聞かせる。書付の不備は市場役にもある」
その一言で、野菜売りは黙った。
揉め事は収まった。
布商人が頭を下げる。
「助かったよ、灰鷹さん」
「正式には帝都巡衛隊第三分隊です」
ローレンスが律儀に訂正した。
布商人は真顔で聞き返した。
「何分隊?」
レイバーがローレンスの肩を叩いた。
「ほらな」
ローレンスは少しだけ肩を落とした。
◇
市場を抜けると、今度は酒場の前で声が上がっていた。
朝から酒を飲んでいる者など珍しくない。
だが、今日の声はただの酔っ払いの笑い声ではなかった。
「もう一度言ってみろ!」
「何度でも言ってやる。チェシー共和国では、平民でも兵になれるんだとよ!」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
共和国。
その名は、帝都ではまだ、声高に口にしてよい言葉ではない。
別の男が椅子を蹴って立ち上がった。
「共和国などと呼ぶな。チェシーは王国だ。王を弑した賊徒どもが、不法に居座っているだけだ」
「王様がいたって、病は治らなかった。腹も膨れなかった。なのに朝貢だけは取られた。違うか?」
「帝国への侮辱か!」
「侮辱? 負け戦を凱旋だと言い張る方が、よほど侮辱じゃないのか」
拳が飛ぶ寸前だった。
ロビンは間に入った。
「そこまでです」
「どけ、灰鷹。これは帝国の話だ」
「だから止めています」
ロビンは男たちを見回した。
「ここは酒場の前です。通行人もいる。殴り合いを始めれば、関係のない者が怪我をする」
共和国と言った若者は、痩せていた。
職人見習いだろうか。指先に染料が染み込んでいる。
彼はロビンを睨んだ。
「あんたらは町の味方じゃなかったのか」
「町の味方であるつもりです」
「なら聞けよ。税が上がった。粉の値も上がった。兄貴は徴発で馬を取られた。なのに宮廷は、勝った、勝ったと鐘を鳴らす。帝国は俺たちに何をくれる? 税と徴発と、負け戦の嘘だけじゃないか」
ロビンは言葉に詰まった。
それは、無礼な言葉だった。
帝国への不敬でもある。
だが、若者の目にある怒りは、作られたものではなかった。
レイバーが横から入った。
「正しいかどうかと、今ここで人を殴っていいかは別だ」
若者はレイバーを見た。
「じゃあ、どこで言えばいい」
「少なくとも、相手の鼻を折る距離では言うな」
酒場の何人かが笑った。
張り詰めた空気が少しだけ緩む。
レイバーは続けた。
「言いたいことがあるなら、酔って叫ぶな。紙に書け。役所に出せ。仲間を集めたいなら、刃物を持つな。俺たちは思想まで罰するほど偉くねえ。だが、殴る奴は止める。燃やす奴は捕まえる。そこは覚えておけ」
若者は唇を噛んだ。
もう一人の男も、まだ怒りを収めきれていなかったが、リッカが短槍の石突きを足元に置くと、黙った。
「まだやる?」
「……やらん」
リッカは頷いた。
「賢い」
灰鷹隊は酒場前を離れた。
だがロビンの耳には、若者の言葉が残っていた。
税と徴発と、負け戦の嘘。
ロビンは帝国を信じている。
信じたい。
皇帝の御楯となることを夢見て、帝都へ来た。
だが、町の底から聞こえる声は、日に日に鋭くなっている。
リオンが隣に来た。
「気にしているのか」
「気にするなと言う方が無理だ」
「なら覚えておくといい。民の怒りは、正しいか間違っているかだけでは測れない。腹が減っているかどうかで燃える」
「どうすればいい」
リオンは少しだけ笑った。
「民を飢えさせないことだ」
ロビンは黙った。
リオンは続ける。
「もっとも、それは我々の仕事ではない」
その言葉は冷たかった。
だが、嘘ではなかった。
◇
昼過ぎ、職人街で迷子が出た。
泣いていたのは、五つか六つほどの男の子だった。
人混みの中で母親とはぐれたらしい。通りの隅にしゃがみ込み、両手で顔をこすっている。
リッカが近づくと、子どもはさらに泣いた。
「なんで」
「槍持ってるからじゃないかな」
ローレンスが苦笑し、膝をついた。
「大丈夫。お母さんを探そう。名前は?」
子どもはしゃくり上げながら名前を言った。
ローレンスは辛抱強く聞き取る。
弟妹たちにするように、声を低く、ゆっくりと。
「偉いね。ちゃんと言えた。どこから来たかわかる?」
「赤い……布……」
「赤い布の店だね」
ローレンスは周囲を見た。
「リオン、職人街で赤い布を扱う店は?」
「染物屋が三軒。市場寄りに一軒、裏通りに二軒」
「ありがとう。レイバー、二手に分けよう」
「お前が仕切る時は早いな」
「弟妹を探すのは慣れてる」
その言葉に、ロビンは少し胸を突かれた。
ローレンスは父を早くに亡くし、母と幼い弟妹を支えてきた。
帝都へ来てから得た金の多くは、故郷へ送っている。
今回、第三分隊として俸給が出るようになった時、誰よりも静かに喜んでいたのはローレンスだった。
迷子の母親は、裏通りの染物屋の前で見つかった。
青ざめた顔で息子を抱きしめ、何度も礼を言った。
「ありがとうございます、灰鷹さん。本当に、ありがとうございます」
ローレンスは照れたように首を振った。
「見つかってよかったです」
子どもはまだ泣きながら、ローレンスの首布を指差した。
「鳥さん?」
「灰鷹だよ」
ローレンスが答える。
「灰色の鷹」
「飛ぶの?」
「うん」
ローレンスは少しだけ笑った。
「たぶん、飛ぶよ」
その横で、リッカが小声で言った。
「たぶんって何」
「まだ練習中だから」
「私たちが?」
「うん」
リッカは少し考え、そして納得したように頷いた。
「じゃあ、もっと速く飛ばなきゃ」
◇
午後になると、巡回はさらに忙しくなった。
倉庫街では、悪質な用心棒が荷運びの少年から金を巻き上げていた。
リッカが前に出る。
「やめなよ」
「何だ、嬢ちゃん。遊んでほしいのか」
男は笑った。
次の瞬間、笑い声は途切れた。
リッカの短槍が男の足首を払い、膝が石畳に落ちる。石突きが喉元に添えられた時には、男は息を呑むことしかできなかった。
「遊ぶ?」
リッカが尋ねる。
男は首を横に振った。
「賢い」
リッカは朝と同じ言葉を言った。
周囲の荷運びたちが歓声を上げる。
「灰鷹の姐さん、すげえ!」
「姐さんじゃない」
「じゃあ姉ちゃん!」
「それも違う」
リッカはむっとしたが、荷運びの少年が小さく礼を言うと、少しだけ表情を緩めた。
「次からは、すぐ呼びな」
「はい」
その後、レイバーが用心棒の男を引きずりながら言った。
「お前、最近少し怖さが増したな」
「悪い?」
「いいや。荒くれ者には効く」
リッカはロビンの方を見た。
ロビンは別の門弟に指示を出していて、こちらを見ていなかった。
リッカはすぐに視線を逸らした。
ロビンは上を見ている。
公爵家の屋敷。
騎士。
エレオノーラ。
自分は、隣で槍を振ることしかできない。
それでいい。
それでいいはずだった。
「リッカ」
不意にロビンに呼ばれた。
「何」
「助かった。お前がいてくれると、こういう時に早い」
リッカは一瞬だけ黙った。
「当然」
そう答える声が、少しだけ上ずった。
レイバーが見ていたが、何も言わなかった。
◇
夕刻近く、事件が起きた。
職人街の奥で、黒い煙が上がった。
「火事だ!」
叫び声が走る。
ロビンたちは同時に振り向いた。
煙は染物屋や木工所が並ぶ一角から立っている。
乾いた木材と布が多い場所だ。風向きによっては、あっという間に火が広がる。
「レイバー!」
「人を分ける!」
レイバーは即座に叫んだ。
「ローレンス、怪我人と子どもを見ろ! リオン、職人組合の水桶と人足を動かせ! リッカ、表の扉を開けろ! 隊長は中だ!」
「命令が早いな」
ロビンは槍を握った。
「文句は後で聞く!」
レイバーが怒鳴る。
灰鷹隊は走った。
火元は木工所の裏手だった。
積まれた端材に火が移り、黒い煙が低く流れている。中から咳き込む声が聞こえた。
「まだ人がいる!」
ロビンは布を口元に巻き、扉に駆け寄った。
扉は内側から何かが倒れて塞がっている。
リッカが短槍を構えた。
「下がって」
彼女は一息で踏み込み、槍の石突きで扉の蝶番を叩き壊した。
ロビンが肩で押し込む。
煙が噴き出した。
熱い。
目が焼ける。
だが、中に小さな影が見えた。
ロビンは体内に魔力を巡らせた。
神経を走る電気のような感覚。
雷槍の応用。
穂先に青白い光が宿るほどではない。だが、身体の反応を一瞬だけ引き上げることはできる。
燃えかけた梁が落ちる。
ロビンは踏み込み、槍の柄で梁を受けた。
腕に重さがのしかかる。
「早く!」
リッカが中へ滑り込み、倒れていた子どもを抱えた。
ロビンは梁を押し上げる。
青白い火花が指先を走った。
息が詰まる。
リッカが子どもを外へ出した瞬間、ロビンも後ろへ跳んだ。
梁が崩れ落ち、火の粉が舞う。
外ではレイバーが怒鳴り続けていた。
「水桶を右へ回せ! そこの親父、見てる暇があるなら手を貸せ! おい、泣くな、泣くなら水を運びながら泣け!」
職人たちが動く。
ローレンスは煙を吸った子どもを抱え、薬師の女のところへ運んだ。
「息はある。水を。布を濡らして」
リオンは貴族街側から来た消防人足の前に立ち、書状を突きつけていた。
「フォンヴァルト公爵騎士団隷下、帝都巡衛隊第三分隊の命である。水路の仕切りを開けろ。責任は我々が持つ」
「しかし、規則では」
「規則を守って街を燃やすつもりか」
その冷たい一言で、人足たちは動いた。
火は半刻ほどで収まった。
木工所の裏手は焼けたが、隣の染物屋へは移らなかった。
死者はいなかった。
それだけで、十分だった。
ロビンは煤だらけの顔で座り込んだ。
手が少し震えている。
リッカも隣に座った。髪の先が少し焦げている。
「大丈夫か」
「そっちこそ」
「俺は平気だ」
「嘘。手、震えてる」
ロビンは自分の手を見た。
「……少しだけだ」
リッカは何も言わず、自分の水袋を差し出した。
ロビンは受け取った。
「ありがとう」
「別に」
その時、昼に迷子になっていた男の子が、母親に手を引かれてやって来た。
彼は小さな紙切れをロビンに差し出した。
「灰鷹さん」
「ん?」
「これ」
紙には、子どもの手で描かれた鳥があった。
灰色ではない。
墨でぐしゃぐしゃに塗られた、羽の大きな鳥。
その下に、曲がった字で「ありがとう」と書かれている。
ロビンは紙を受け取った。
「上手だな」
子どもは照れたように母親の後ろへ隠れた。
ロビンはその紙を見つめた。
手書きの鳥。
ふと、グラウフェルトの秘密基地を思い出した。
レイバーの父の大工仕事から出た端材で作った、小さな基地。
子どもたちだけの王国。
そして、布に描いた灰鷹の旗。
おまえ、俺たちの旗持てよ。
遠い日の声が、ほんの少しだけ耳の奥で響いた。
「隊長」
レイバーが近づいてきた。
顔は煤だらけで、片袖が濡れている。
「被害は?」
「裏手が焼けた。怪我人は三人。死者なし」
「よかった」
「ああ。だが火元が妙だ」
ロビンは顔を上げた。
「妙?」
「端材に火が移ったにしては、広がりが早すぎる。油の匂いがした」
「放火か」
「まだわからん」
レイバーは声を落とした。
「それと、裏壁に落書きがあった」
ロビンは立ち上がった。
レイバーに案内され、焼け焦げた裏壁へ向かう。
そこには、煤の下からかろうじて読める文字が残っていた。
王冠は飢えを救わない。
ロビンは黙った。
火事がその落書きと関係あるのかはわからない。
誰かが以前に書いたものかもしれない。
放火犯が残したものかもしれない。
あるいは、ただの不満の吐き捨てかもしれない。
だが、その言葉は酒場の若者の声と重なった。
税と徴発と、負け戦の嘘。
王冠は飢えを救わない。
ロビンは拳を握った。
「消そう」
レイバーはロビンを見た。
「今すぐか」
「町の者に見せたくない」
「見えなくしたところで、書いた奴の腹は減ったままだぞ」
ロビンは返事ができなかった。
レイバーはため息をつき、濡れた布を壁に押し当てた。
「まあ、今は消す。火種を増やしても仕方ねえ」
ロビンも手伝った。
煤と墨が布に移る。
文字は少しずつ滲み、読めなくなっていった。
だが、消えたわけではない。
ロビンにはそう思えた。
◇
夜、ハルト道場の離れには、疲れ切った空気が沈んでいた。
門弟たちは次々に眠り込み、床に転がっている者もいる。
リッカは槍を抱えたまま壁にもたれていた。
ローレンスは今日の怪我人の名を帳面に書き、必要な薬代を計算している。
リオンは外套の煤を払いながら、何か考え込んでいた。
レイバーは机に向かい、巡回記録を書いている。
「市場の場所代揉め、酒場前の口論、迷子一件、用心棒による恐喝未遂、職人街の火災、放火の疑いあり、壁書き一件」
彼は書きながら鼻を鳴らした。
「公式になると、書くことが増えて面倒だな」
「記録は大事だよ」
ローレンスが言う。
「わかってる。だから書いてる」
ロビンは窓辺に立っていた。
帝都の夜は、昼よりも広く見える。
灯りが点々と続き、遠くに宮殿の塔が黒く浮かんでいる。
今日一日、灰鷹隊は走った。
市場を収め、喧嘩を止め、迷子を探し、恐喝を止め、火事から子どもを助けた。
町の人々は笑い、礼を言い、灰鷹と呼んだ。
嬉しかった。
誇らしかった。
だが、同時に耳の奥で別の声も消えない。
税と徴発と、負け戦の嘘。
王冠は飢えを救わない。
ロビンは帝国を信じている。
皇帝を守りたいと願っている。
けれど、町を守るということは、町の怒りも聞くということだった。
リオンが近づいてきた。
「隊長」
「何だ」
「今日の壁書きだが、報告にはどう書く」
「そのまま書く」
「そのまま書けば、上は思想犯の捜索を命じるかもしれない」
「隠すわけにはいかない」
「そうだな。君ならそう言うと思った」
リオンは窓の外を見た。
「思想は剣より厄介だ。斬っても血が出ない。倒した気になれない」
「なら、どうすればいい」
「昼にも言った。民を飢えさせないことだ」
「それは俺たちの仕事ではない、と?」
リオンは薄く笑った。
「そう。だが、我々が仕事ではないと言っている間に、誰かが別の答えを配る」
ロビンはリオンを見た。
その横顔は冷静だった。
冷静すぎるほどに。
「リオン、お前は帝国をどう思う」
問いは、思わず口から出た。
リオンはすぐには答えなかった。
やがて、小さく言う。
「古い屋敷だと思う」
「屋敷?」
「あちこちに雨漏りがあり、柱も傷んでいる。だが、中にはまだ人が住んでいる。燃やしてしまえば暖は取れるかもしれないが、明日の寝床はなくなる」
「なら、直すべきだ」
「直せる者がいればね」
リオンはそう言って、机の方へ戻っていった。
ロビンは窓の外を見続けた。
帝都は大きい。
大きすぎるほどに。
そのどこかで、まだ誰かが腹を空かせ、誰かが帝国を呪い、誰かが革命という言葉に希望を見ている。
自分たちは、その町を駆ける灰鷹になった。
守るべきものは、思っていたより複雑だった。
その時、道場の表で声がした。
「公爵家より、お届け物です」
離れの中にいた者たちが顔を上げた。
ハルト師範が取り次ぎ、やがて小さな包みと封書が運ばれてきた。
封蝋には、フォンヴァルト公爵家の印が押されている。
宛名は、帝都巡衛隊第三分隊。
ローレンスが丁寧に封を確認する。
「正式な届け物だね」
レイバーが包みを持ち上げた。
「差し入れか?」
「勝手に開けるな」
ロビンは封書を受け取った。
中には、礼状が入っていた。
銀鹿亭での働き、そして正式任命後の巡衛開始を祝う言葉。
筆跡は柔らかく、整っている。
灰鷹隊の皆様へ。
そう書かれていた。
そして、その下にもう一行。
ロビン様へ。
ロビンの指が止まった。
レイバーが目ざとく覗き込もうとする。
「何だ、隊長宛てか?」
「見るな」
「隠すなよ」
リッカが無言で立ち上がった。
レイバーは一歩下がった。
「いや、俺は別に」
ロビンは封書を閉じた。
胸の奥が、今日一日の疲れとは違う熱を持っていた。
窓の外では、帝都の灯りが揺れている。
町には火種がある。
不満がある。
嘘がある。
それでも、今日助けた子どもは笑った。
町の者は灰鷹と呼んだ。
そして、遠い場所にいるはずの公爵家の姫君から、一枚の手紙が届いた。
若い鷹たちの春は、まだ始まったばかりだった。




