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第14話 エリーの手紙


 フォンヴァルト公爵家から届いた包みは、思っていたよりも重かった。


 ハルト道場の離れにいた灰鷹隊の者たちは、夜の巡回記録を書き終える前に、そろって机の周りへ集まっていた。


 包みは二つ。


 一つは隊宛てのものだった。


 包みを解くと、中から出てきたのは、焼き菓子、薬包、清潔な包帯、それに小さな袋に分けられた見舞金だった。


 ローレンスが包帯を手に取り、目を丸くする。


「いい布だ。これなら傷に貼り付かない」


「値段の話をするなよ」


 レイバーが言った。


「いや、するよ。包帯も薬もただじゃない。これだけあれば、今日の火事で怪我をした人たちにかなり回せる」


 ローレンスは真面目に薬包の数を数え始めた。


 リッカは焼き菓子の方を見ている。


「食べていいの?」


「礼状を読んでからだ」


 ロビンが言うと、リッカは少し不満そうに菓子から視線を外した。


 レイバーはすでに一つ手に取ろうとしていた。


「レイバー」


「まだ取ってねえ」


「取ろうとした」


「取ろうとしただけなら罪は軽い」


「罰金」


「おい、俺の規則を俺に使うな」


 門弟たちが笑った。


 笑い声の中で、ロビンは封書を開いた。


 封蝋には、フォンヴァルト公爵家の印。


 中の紙は上質で、筆跡は整っている。


 だが、硬すぎない。


 公的な礼状でありながら、どこか人の温度があった。


 ロビンは声に出して読み始めた。


「帝都巡衛隊第三分隊、ならびに灰鷹隊の皆様へ」


 レイバーが小さく口笛を鳴らした。


「両方書いてあるぞ」


 ロビンは咳払いをした。


「先日の銀鹿亭におけるご尽力、ならびに巡衛任務において町の人々を守ってくださっていること、心より感謝申し上げます。昨日の職人街の火災にて救われた方々へ、同封の薬、包帯、見舞金が届きますようお願いいたします」


 ローレンスは静かに頷いた。


「ありがたいね」


「ああ」


 ロビンは読み進めた。


「灰青色の首布を巻いた皆様が町を駆ける姿を、下町の方々は頼もしく語っていると聞きました。どうかこれからも、その名に恥じぬ働きを――」


 そこで、ロビンは止まった。


 本文の下に、少しだけ余白を空けて、別の一文があった。


 同じ筆跡。


 だが、明らかに公的な文面ではない。


 ロビン様へ。


 その文字を見た瞬間、部屋の空気が変わった。


 レイバーが身を乗り出す。


「続きは?」


「読む必要はない」


「あるだろ。隊宛ての礼状の下に書いてあるんだ。隊の副長として内容を確認する義務が」


「お前は副長ではない」


「じゃあ今からなる」


 ロビンは手紙を折ろうとした。


 リッカが無言でこちらを見ている。


 ローレンスは困った顔をしながらも、少しだけ興味を隠せていない。


 リオン・フォン・アルトベルクは壁にもたれ、腕を組んで言った。


「貴族の手紙は難しい。私的な一文のようで、公的な意味を持つこともある。読み違えると痛い目を見る」


「なら、お前が読むか」


「いや、それは無粋だ」


「無粋だと思うなら黙ってくれ」


 リオンは薄く笑った。


 レイバーはにやにやしている。


「隊長、春だな」


「何の話だ」


「若き鷹たちの春だろ」


「そういう意味ではない」


 ロビンは手紙を持ったまま、少し離れた場所へ移動した。


 壁際で、改めてその一文を読む。


 ロビン様へ。


 あなたが守ろうとしている町を、私も見てみたいと思いました。


 次にお会いする時は、エリーではなく、エレオノーラとして。


 けれど、ほんの少しだけ、エリーとしても。


 短い文だった。


 それだけなのに、何度も目が同じ行へ戻る。


 エリーではなく、エレオノーラとして。


 けれど、ほんの少しだけ、エリーとしても。


 ロビンは手紙を閉じた。


 胸の奥が落ち着かない。


 銀鹿亭の暗い蔵で救い出した時よりも、公爵家の屋敷で再会した時よりも、なぜか今の方が距離が近く感じられた。


 文字というのは、不思議だ。


 相手はいないのに、声だけがすぐそばにある。


 ロビンは手紙を懐へしまった。


 戻ると、全員がこちらを見ていた。


「何が書いてあったんだ」


 レイバーが尋ねる。


「公爵家三女として、町を見たいと」


「それだけか?」


「それだけだ」


 リッカがじっと見ている。


「顔、赤い」


「赤くない」


「赤い」


 ローレンスが穏やかに言った。


「返事を書く必要があるね」


 その言葉で、ロビンは固まった。


 返事。


 考えていなかったわけではない。


 だが、考えないようにしていた。


「公爵家への返礼だ。失礼のないようにしなければ」


 ロビンは真面目に言った。


 レイバーは笑った。


「硬い手紙になるぞ、これは」


 リオンが頷いた。


「おそらく城門のような手紙になる」


「城門?」


「堅牢で、開かない」


 リッカが短く言った。


「槍みたいな手紙」


「槍ならまだ届くからましだ」


 レイバーが言う。


 ロビンは反論しようとしたが、何も言えなかった。


 その夜、ロビンは返事を書き始めた。




   ◇




 拝啓、フォンヴァルト公爵家三女エレオノーラ様におかれましては、ますますご清祥のことと――


「婚礼の挨拶か?」


 背後からレイバーの声がした。


 ロビンは紙を伏せた。


「見るな」


「見える場所で書くな」


「ここは俺の机だ」


「離れの共有机だ」


 ローレンスが横から覗き込み、少し考える。


「礼状としては間違っていないけど、少し硬いかな」


「公爵家への返礼だ。硬くて当然だろう」


「うん。でも、エレオノーラ様はたぶん、それだけを望んでいるわけではないと思う」


 ロビンは筆を止めた。


 リオンは椅子の背に肘を置き、面白がるように見ている。


「まず、公爵家宛ての正式な礼状と、エレオノーラ嬢個人への返事を分けた方がいい」


「分けるのか」


「その方が無難だ。公的な礼は公的に。私的な言葉は、私的に。ただし私的すぎると危ない」


「危ないとは」


「君と彼女の身分差を思い出すべきだということだ」


 その言葉で、ロビンの手が止まった。


 リオンは悪意なく、淡々と続けた。


「フォンヴァルト公爵家三女。皇室傍流に連なる家の姫君。君は没落したバーゼル家の子で、今は公爵騎士団隷下の第三分隊隊長。軽率な文言一つで、彼女に迷惑がかかる」


「わかっている」


「ならいい」


 リオンはそれ以上言わなかった。


 ロビンは紙を見下ろした。


 わかっている。


 わかっているから、筆が進まない。


 エリー、と書きかけた。


 すぐに消した。


 エレオノーラ様、と書いた。


 それは正しい。


 だが、彼女の手紙にあった「ほんの少しだけ、エリーとしても」という言葉が胸に引っかかった。


 ロビンはしばらく筆を握り続けた。


 リッカは少し離れた場所で槍の手入れをしていた。


 何も言わない。


 ただ時折、こちらを見ている気配だけがあった。


 結局、その夜の返事は完成しなかった。




   ◇




 翌朝、公爵家から新たな使者が来た。


 今度はオスカーからの命だった。


 エレオノーラが、公爵家の慈善活動として、帝都北区の施療院と孤児院を訪問する。


 本来なら公爵騎士団が護衛する。


 だが、騎士団が大人数で下町へ入れば目立つ。貴族街ならともかく、職人街や施療院の周辺では、鎧の音だけで人々が身構える。


 そこで、帝都巡衛隊第三分隊に護衛補助を命じる。


 使者はそう伝えた。


 そして最後に、オスカーの言葉をそのまま付け加えた。


「姪が町を見たいと言い出した。止めても聞かん。なら、お前たちが目と足になれ、とのことです」


 レイバーは使者が帰った後、笑いをこらえきれずに言った。


「叔父さん、完全に負けてるな」


「オスカー卿に向かって叔父さんと言うな」


「本人の前では言わねえよ」


「聞こえていなくても失礼だ」


「隊長は本当に律儀だな」


 ロビンは任務表を確認した。


 護衛は少人数。


 ロビン、リッカ、ローレンス、門弟数名。


 レイバーは周辺の裏道と退路確認。


 リオンは公爵家側との折衝、施療院側への連絡。


「俺は外か」


 レイバーが言った。


「不満か」


「いや。護衛の真ん中で姫様と隊長の会話を聞かされるよりは、屋根の上でも見ている方が性に合う」


 リッカが槍を持ったまま立ち上がった。


「私も外でいい」


「リッカは近接護衛だ」


 ロビンが言うと、リッカは少しだけ眉を寄せた。


「なんで」


「お前が一番速く動ける」


 リッカは黙った。


 それから短く言った。


「わかった」


 その声は、少しだけ硬かった。




   ◇




 エレオノーラは、派手な馬車では来なかった。


 灰色の外套をまとい、侍女のミラを一人連れ、目立たぬ小型の馬車で施療院の近くまで来た。


 ただし、お忍びではない。


 外套の留め具にはフォンヴァルト公爵家の小さな紋章があり、同行する者たちも、彼女が誰であるかを知っている。


 ロビンは馬車の前で礼をした。


「エレオノーラ様。本日は我ら第三分隊が護衛を務めます」


 エレオノーラは微笑んだ。


「よろしくお願いいたします、ロビン様」


 その声は公的だった。


 けれど、目だけが少し笑っていた。


 リッカはその横に立ち、短槍を手に周囲を見ている。


 ローレンスは薬包と包帯の入った箱を受け取った。


 エレオノーラは彼に言った。


「昨日の火事で怪我をされた方々にも、どうか行き届くようにお願いします」


「はい。必ず」


 ローレンスは深く頭を下げた。


 施療院は、古い礼拝堂を改装した建物だった。


 壁は白く塗られているが、ところどころ剥げている。中には薬草と汗と古い包帯の匂いが混じっていた。


 寝台には、傷病人が並んでいる。


 貧民。


 荷運び中に脚を折った者。


 流行病の後遺症で咳が止まらない老人。


 そして、軍服を着た男もいた。


 片脚がなかった。


 ロビンは思わず視線を止めた。


 男の軍服は帝国のものだ。


 だが胸の徽章は外されている。退役したのか、外されたのかはわからない。


 エレオノーラはその男の寝台の前で足を止めた。


「お身体の具合はいかがですか」


 男は顔を背けた。


「公爵家の姫様に見せるもんじゃありません」


「私は見に来ました」


 エレオノーラの声は柔らかい。


 だが、引かなかった。


「見ないふりをするために来たのではありません」


 男はゆっくりと彼女を見た。


 片脚のない毛布の下を、拳で叩く。


「チェシーでやられました」


 ロビンの胸が鳴った。


 チェシー。


 男は低く笑った。


「騎士様も、魔術師様も、あの音の前では倒れた。平民どもが筒を構えて、小さな火をつけるだけでな。雷でも何でもない。ただの音と煙だ。なのに、人が倒れる」


 リッカの手が槍を握り直す。


 ロビンは、レイバーの言葉を思い出した。


 怖い武器です。


 けど、遅い。


 エレオノーラは男の言葉を最後まで聞いた。


 そして、侍女ミラから包帯を受け取る。


 施療院の女医が慌てて言った。


「お嬢様、お手を汚されずとも」


「お金だけ置いて帰るなら、私でなくてもできます」


 エレオノーラはそう言って、男の寝台の横に膝をついた。


 男が目を見開く。


 ロビンも同じだった。


 公爵家の姫君が、膝をついた。


 薬草の匂いと血の匂いのする床に。


 彼女は包帯を直接巻いたわけではない。女医の手伝いをしただけだ。


 それでも、見ている者たちの空気が変わった。


 エレオノーラは守られるだけの令嬢ではなかった。


 ロビンはその横顔を見た。


 彼女は眉をひそめていた。


 痛みを見た者の顔だった。


 けれど、逃げる顔ではなかった。




   ◇




 施療院の次は、小さな孤児院だった。


 木造の古い家をつなげたような建物で、庭には洗濯物が干されている。


 子どもたちは最初、エレオノーラの姿を見て遠巻きにしていた。


 だが、リッカが一人の子どもに袖を引っ張られ、真顔でどうしていいかわからなくなっているのを見て、少しずつ笑い始めた。


「槍、重い?」


 子どもが尋ねる。


「軽い」


「持っていい?」


「だめ」


「なんで」


「危ない」


「お姉ちゃんは危なくないの?」


「私は危ない」


 子どもたちは笑った。


 リッカはむっとしたが、逃げなかった。


 ローレンスは子どもたちに焼き菓子を配り、名前を聞いて回っている。


 ロビンは庭の隅で、昨日火事から助けた男の子を見つけた。


 彼はまた紙を持っていた。


 今度はエレオノーラに見せている。


「灰鷹さん」


 紙には、前より少しだけ鳥らしい鳥が描かれていた。


 エレオノーラはそれを受け取り、微笑む。


「上手ですね」


「ロビン兄ちゃんが助けてくれた」


「そう」


 彼女はロビンを見た。


「あなたたちは、本当に町の方々に呼ばれているのですね」


「正式な名より、こちらの方が通じます」


「帝都巡衛隊第三分隊、でしたね」


「はい」


「長いですものね」


 エレオノーラは少し悪戯っぽく言った。


 ロビンは苦笑した。


「皆、そう言います」


「私もそう思います」


 ロビンは返す言葉に詰まった。


 彼女は笑い、子どもの絵を丁寧に返した。


 孤児院の院長が、エレオノーラに頭を下げる。


「ありがとうございます、お嬢様。最近は、子どもが増えております。病、火事、それに……兵に取られた親もおりますので」


 兵に取られた親。


 徴発。


 出征。


 第一の敗戦の影は、こんなところにも落ちていた。


 エレオノーラは静かに頷いた。


「足りないものを、後ほど書き出してください。すべてとは言えませんが、できる限り届けます」


「もったいないことでございます」


「もったいないのは、子どもが飢えることです」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 だがロビンには、昨日の壁書きが思い出された。


 王冠は飢えを救わない。


 ならば、王冠の下にいる者たちは何をするべきなのか。


 エレオノーラは、その問いから逃げていないように見えた。




   ◇




 孤児院の裏庭には、小さな菜園があった。


 冬を越した痩せた土に、青い芽がいくつか出ている。


 訪問が一段落した後、エレオノーラは少しだけ風に当たりたいと言った。


 ミラは遠くに控え、リッカが入口近くに立つ。


 レイバーは屋根の上か裏路地にいるはずだった。


 ローレンスは院長と物資の数を確認している。


 リオンは公爵家への報告に必要な項目をまとめていた。


 結果として、ロビンとエレオノーラは、菜園の横に二人で立つ形になった。


 完全な二人きりではない。


 だが、声を潜めれば、言葉は二人の間だけに落ちる。


 エレオノーラは芽を見下ろして言った。


「下町を見たいと書きました。けれど、見るというのは難しいものですね」


「難しい、ですか」


「ええ。施療院で脚を失った兵士の方を見ました。孤児院で親を待つ子どもを見ました。見た、と言うのは簡単です。けれど、本当に見たのかと問われると、自信がありません」


 ロビンは黙って聞いた。


「私は公爵家の娘です。薬や包帯を届けることはできます。見舞金を出すこともできます。けれど、それであの人たちの痛みを知ったことにはならない」


「それでも、見ようとされました」


 ロビンは言った。


「見ないより、ずっと」


 エレオノーラはロビンを見た。


「あなたは、帝国を信じているのですね」


 唐突な問いではなかった。


 今日見たすべてが、その問いにつながっていた。


 ロビンはゆっくりと息を吸った。


「信じています」


 そこで一度、言葉を切る。


 そして、正直に続けた。


「信じたいのです」


 エレオノーラは黙っていた。


「私の家は、そのために槍を振るってきました。バーゼルの槍は、皇帝陛下の御楯であったと、父から何度も聞かされました。私はその話を聞いて育ちました。帝国を守ること、皇帝陛下を守ること。それが、私の夢でした」


「今も?」


「今もです」


 ロビンは答えた。


 だが、少しだけ拳を握った。


「けれど、町を巡るようになってから、わからなくなることもあります。帝国を守ることと、町の人を守ることは同じだと思っていました。でも、町の人の怒りが帝国へ向いている時、私はどちらを守っているのかと」


 エレオノーラの表情がわずかに動いた。


「昨日、壁に書かれていました。王冠は飢えを救わない、と」


「聞いています」


「消しました」


「ええ」


「でも、消えた気がしません」


 エレオノーラは菜園の芽を見下ろした。


「文字は消せます。でも、飢えは消えません」


 その言葉は静かだった。


 ロビンは彼女を見た。


 公爵家三女。


 華やかな屋敷に住み、騎士に守られ、民から遠い場所にいるはずの人。


 だが彼女は、飢えという言葉を避けなかった。


「私は革命を望みません」


 エレオノーラは言った。


「王を殺し、秩序を壊し、血で新しい旗を立てることが正しいとは思いません。けれど、民が飢え、苦しみ、それでも貴族が何も見ないなら、怒りが生まれるのは当然です」


 ロビンは黙っていた。


「あなたは帝国を信じたいと言いました」


「はい」


「なら私は、あなたが信じる帝国を、少しでも恥ずかしくないものにしたい」


 風が吹いた。


 菜園の小さな芽が揺れる。


 ロビンは、胸の奥を強く打たれた。


 それは、恋というにはまだあまりにも真面目な感情だった。


 敬意。


 驚き。


 憧れ。


 そして、もっと近くでこの人の言葉を聞きたいという願い。


「エレオノーラ様」


「はい」


「私は、あなたのような方がいる帝国なら、やはり信じたいと思います」


 言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 だが、エレオノーラは目を逸らさなかった。


「では、私も励まなければなりませんね」


 彼女は微笑んだ。


「あなたに、信じるに足る帝国だと思っていただくために」


 ロビンは何も言えなかった。


 ただ深く頭を下げた。


 入口の近くで、リッカがその二人を見ていた。


 声までは聞こえない。


 けれど、空気はわかった。


 ロビンは、あの人と話す時、槍を構えていない。


 でも、どこか戦っているような顔をしている。


 リッカには、あんな言葉は出てこない。


 帝国を恥ずかしくないものにしたい、などと。


 信じるに足る帝国、などと。


 リッカにあるのは槍だけだ。


 ロビンの隣で槍を振ること。


 敵が来れば突くこと。


 ロビンが進むなら、その横を走ること。


 それでいい。


 それでいいはずだった。


 リッカは槍の柄を握り直した。




   ◇




 帰り道、帝都の空は夕暮れの色に染まり始めていた。


 エレオノーラの馬車は目立たぬ道を選んで進む。


 灰鷹隊は周囲を固めた。


 大きな事件は起きなかった。


 だが、何もなかったわけではない。


 路地の壁に、また新しい文字が書かれていた。


 民に議会を。


 チェシーの火は帝都にも届く。


 レイバーがそれを見て舌打ちした。


「増えてやがる」


 ロビンは足を止めかけたが、馬車の護衛中だった。


「後で消す」


「消すだけじゃ追いつかねえぞ」


「わかっている」


「ならいい」


 レイバーはそれ以上言わなかった。


 エレオノーラも馬車の窓からそれを見ていた。


 彼女の表情は読めなかった。


 公爵家の控え屋敷に着くと、エレオノーラは馬車を降りた。


「本日はありがとうございました」


「任務です」


 ロビンは答えた。


「任務としても、感謝いたします」


 彼女は少しだけ声を落とした。


「そして、ロビン様。今日、あなたの町を少し見ることができました」


「私の町、ですか」


「あなたが守ろうとしている町です」


 ロビンは言葉を失った。


 エレオノーラは微笑む。


「返事を、楽しみにしています」


 そう言って、彼女は屋敷の中へ入っていった。


 ロビンはしばらくその場に立っていた。


 レイバーが横に来る。


「隊長」


「何だ」


「今夜こそ書けよ」


「わかっている」


「城門みたいな手紙はやめろ」


「努力する」


 リッカは少し離れた場所から言った。


「いい人だね」


 ロビンは振り返った。


「エレオノーラ様のことか」


「うん」


 リッカは夕暮れの道を見ていた。


「弱くない」


 それだけ言って、歩き出した。


 ロビンはその背を見送った。


 リッカらしい褒め言葉だった。


 そして、とても大きな褒め言葉でもあった。




   ◇




 その夜、ロビンはまた机に向かった。


 レイバーは巡回記録を書いているふりをしながら、ちらちらとこちらを見ている。


 ローレンスは包帯と薬の配分表を作っている。


 リオンは余計な口を出さず、本を読んでいる。


 リッカは槍の手入れをしていた。


 ロビンは新しい紙を出した。


 まず、公爵家への正式な礼状を書いた。


 それは硬かった。


 硬くてよい手紙だった。


 銀鹿亭以来の礼、差し入れへの感謝、火災被害者への配分報告、護衛任務完了の報告。


 それを書き終えてから、別の小さな紙を出した。


 筆先が止まる。


 エリー、と書きそうになる。


 エレオノーラ様、と書いた。


 それでよい。


 今はまだ、それが正しい。


 ロビンはゆっくりと書き始めた。


 エレオノーラ様。


 本日は、町を見てくださったこと、ありがとうございました。


 今日あなたが見た町は、私が守りたい町です。


 火事で泣いた子どもも、酒場で怒鳴る若者も、脚を失った兵も、皆この帝都に生きています。


 私は帝国を信じたいと思っています。


 けれど、ただ信じるだけでは足りないのだと、今日あなたの言葉を聞いて思いました。


 あなたが恥じぬものにしたいと願った帝国は、私が槍を捧げたい帝国でもあります。


 いつか、胸を張って、あなたをエリーと呼べる日が来るよう、私は励みます。


 ロビン・フォン・バーゼル


 書き終えると、ロビンはしばらく紙を見つめた。


 硬い。


 やはり硬い。


 だが、嘘はなかった。


 レイバーが近づいてきた。


「できたか」


「見るな」


「見ない。顔を見ればわかる」


「何が」


「今度は城門じゃなくて、槍くらいにはなった」


 ロビンは手紙を伏せた。


「褒めているのか」


「かなり」


 ローレンスが微笑んだ。


「よかったね」


 リッカは何も言わなかった。


 ただ、槍の手入れをする手が、一瞬だけ止まった。




   ◇




 翌日、手紙は公爵家へ届けられた。


 エレオノーラは自室でそれを受け取った。


 机の上には、昨日孤児院の子どもから借りて写した灰鷹の絵が置かれている。


 侍女のミラが茶を淹れながら言った。


「お嬢様、嬉しそうです」


「そう見える?」


「はい。とても」


 エレオノーラは封を開いた。


 まず、公的な礼状。


 丁寧で、正しく、少し硬い。


 彼女は微笑んだ。


 それから、小さな紙を開く。


 読み始めると、笑みは少しずつ静かなものへ変わった。


 今日あなたが見た町は、私が守りたい町です。


 あなたが恥じぬものにしたいと願った帝国は、私が槍を捧げたい帝国でもあります。


 いつか、胸を張って、あなたをエリーと呼べる日が来るよう、私は励みます。


 エレオノーラは最後の一文を、もう一度読んだ。


 それから、さらにもう一度。


 ミラがそっと言う。


「やはり、嬉しそうです」


「ええ」


 エレオノーラは手紙を胸元に寄せ、少しだけ笑った。


「とても硬い手紙なのに、不思議ね」


「おしまいになりますか」


 ミラは鍵のかかる小箱を指した。


 エレオノーラは少し迷い、それから首を振った。


「いいえ。机の上に置いておきます」


「よろしいのですか」


「ええ」


 彼女は手紙を丁寧に折り、机の上、灰鷹の絵の隣に置いた。


「何度も読み返すでしょうから」


 窓の外では、帝都の空が淡く晴れていた。


 下町では今日も、灰青色の首布を巻いた若者たちが走っているだろう。


 火種を抱えた町を。


 不安と怒りの底に、それでも日々の暮らしが続く町を。


 エレオノーラは手紙に指を添えた。


 若い鷹たちの春は、まだ穏やかに見えた。


 だがその春の風の中には、すでに遠い戦の匂いが混じり始めていた。


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