第46話 落日の槍
夜明け前の森は、青かった。
黒松の幹も、雪をかぶった枝も、踏み固められた地面も、すべてが薄い青に沈んでいる。
火は消していた。
煙を上げれば見つかる。
見つかることは、もはや避けられない。
だが、見つかる時をこちらで選ぶために、火は消した。
残った者たちは、静かに支度をしていた。
灰鷹隊士。
北部公爵軍の兵。
名も知らぬ従卒。
馬丁。
負傷してなお槍を握る者。
数は、二十余り。
かつて帝都の詰め所に百を超える声が響いていたことを思えば、あまりにも少ない。
けれど、彼らはいた。
逃げることも、降ることも許されていた。
それでも残った者たちだった。
ロビンは、黒松の根元に置いていた槍を取った。
バーゼル家の槍。
かつて馬上で雷をまとい、一撃離脱のために振るわれた槍。
没落した家で、徒歩槍術として生き残った槍。
帝都の裏路地を駆け、銀鹿亭へ踏み込み、戦場の煙の中を走った槍。
穂先は欠けている。
柄には傷が多い。
雷を通す刻印のいくつかは、血と泥で黒く詰まっていた。
それでも、まだ槍だった。
ロビンは懐から、古い布片を取り出した。
レイバーが渡した手書きの旗の切れ端。
小さく、汚れ、ほつれ、何の価値もない布。
だが、正式な隊旗より重い。
彼はそれを槍の柄に巻いた。
一巻き。
もう一巻き。
布は短い。
旗とは呼べない。
ただ、槍の上の粗末な目印にしかならない。
それでも、ロビンは丁寧に巻いた。
最後に、布の端を自分の拳の上へ重ねる。
槍と拳を一つにするように、残っていた細い革紐で縛った。
手を離しても、槍が落ちないように。
あるいは、槍を離さないように。
ロビンは拳を握った。
古い布が手の甲に触れる。
その瞬間、懐かしい声が聞こえた気がした。
――おまえ、俺たちの旗持てよ。
ロビンは目を閉じた。
レイバーの声だった。
グラウフェルトの灰の野で聞いた声。
橋の向こうで聞いた気がした声。
怒鳴るようで、笑っている声。
「持ったぞ」
ロビンは小さく言った。
返事はない。
雪だけが降っている。
◇
リッカは、すでに支度を終えていた。
彼女の槍も傷だらけだった。
穂先は研ぎ直され、柄には血が染み込んでいる。小柄な体に似合わない長槍を、彼女はいつものように片手で軽く持っていた。
ただ、髪を少しだけ結び直していた。
戦の前に、そんなことをするのは珍しかった。
ロビンが見ると、リッカは目を細めた。
「何」
「いや」
「変?」
「変ではない」
「なら見ないで」
いつもの口調だった。
ロビンは少しだけ笑った。
「緊張しているのか」
「してる」
リッカは即答した。
「死ぬかもしれないから」
「そうだな」
「でも、怖いだけじゃない」
彼女は北の方を見た。
黒松峠の向こうに、グラウフェルトへ降りる道がある。
シーベルト火山は雪雲に隠れたり、見えたりしていた。
「もう少しで帰れる」
「ああ」
「だから行く」
ロビンは頷いた。
リッカはロビンの槍に巻かれた布片を見た。
「それ、変」
「そうか」
「うん。すごく下手な旗」
「最初の絵だからな」
「やっぱり」
リッカは少し笑った。
その笑いはすぐ消えた。
彼女はロビンの拳に巻かれた布を見て、静かに言った。
「落とさないで」
「ああ」
「最後まで」
「ああ」
「私が横にいるから」
ロビンは彼女を見た。
リッカは目を逸らさなかった。
昨夜の言葉を、もう繰り返さなかった。
エリーにはなれなかった。
でも、最後まで横にはいられる。
その言葉は、もう二人の間にあった。
「頼む」
ロビンが言うと、リッカは小さく頷いた。
「うん」
◇
残った者たちは、森の開けた場所に集まった。
正式な隊旗は掲げなかった。
重すぎたからではない。
持ち手がいなかったからでもない。
それは、ここまで来る間に何度も敵の目印になった。今さら隠しても意味は薄い。だが、ロビンはあえて掲げなかった。
正式な旗は、公爵家から与えられたものだった。
帝都巡衛隊第三分隊から、灰鷹隊が正式な独立部隊となった証だった。
それは誇りだった。
だが、今から彼らが行うのは、公爵家の命令ではない。
アルブレヒトは軍を解散した。
彼らはもう、命令で残っているわけではない。
自分の意思で残った。
ならば掲げる旗は、あの頃の旗でいい。
灰の野の、手書きの、下手な鳥の旗でいい。
ロビンは残った者たちを見た。
顔は少なかった。
帝都で見た若い門弟たちの多くはいない。
ヴァーレンハーフェンで倒れた。
帝都で死んだ。
橋で消えた。
森で離れた。
ここにいる者たちの顔にも、疲労と恐怖があった。
それでいいと思った。
怖くない者などいない。
オスカーが言った。
怖くても槍を離さぬことが勇気だ、と。
ロビンは槍を立てた。
古い布片が、雪の風に小さく揺れた。
「諸君」
声は、思ったよりよく通った。
「我々は、ここまで来た」
誰も返事をしなかった。
だが、全員が見ていた。
「帝都から来た者もいる。ヴァルトハイムから来た者もいる。名も知らぬ村から来た者もいる。灰鷹隊の者も、北部公爵軍の者もいる」
ロビンは北を見た。
「だが、今から向かう場所は一つだ」
雪雲の向こうに、シーベルト火山の影が見えた。
「グラウフェルトだ」
誰かが息を吸った。
「故郷へ帰る」
その言葉は、勝利の宣言ではなかった。
生還の約束でもなかった。
ただ、彼らがなぜ前へ進むのかを示す言葉だった。
「道は塞がれている。敵は多い。突破できる保証はない」
ロビンは一人ずつ見た。
「だが、ここで座して待つつもりはない。降るつもりもない。逃げる者を私は責めない。公爵閣下も責めなかった。だが、残った者には、残った者の意地がある」
リッカが槍を立てた。
他の者たちも、少しずつ槍を立てる。
「我々は、灰鷹隊だ」
その名を口にした時、胸が痛んだ。
灰鷹隊。
帝都の町道場から始まった名。
下町の人々が勝手に呼んだ名。
公爵家が認めた名。
革命政府が旧体制の犬として憎んだ名。
後世がどう呼ぶかなど、今は知らない。
「我々は、誰かに認められるために槍を取ったのではない」
ロビンは言った。
「騎士になりたかった。名を上げたかった。家を再興したかった。皇帝を守りたかった。帝都を守りたかった。大事な人を守りたかった」
息が白くなる。
「そのどれも、嘘ではなかった」
レイバー。
ローレンス。
リオン。
オスカー。
アルブレヒト。
エレオノーラ。
名が胸の中を通り過ぎる。
「時代は、我々より大きかった。銃も、革命も、帝国の崩壊も、我々の槍では止められなかった」
それを認めるのは、苦しかった。
だが、もう否定できない。
「それでも」
ロビンは槍を握り直した。
「それでも、我々はここまで来た」
古い布片が揺れる。
「ならば最後まで行こう」
誰かが頷いた。
「故郷へ帰るために。倒れた者たちの名を胸に。生き残った者たちの未来のために」
ロビンは槍を掲げた。
雷の魔力が、穂先に薄く走った。
青白い光。
弱い。
かつてのような激しい雷ではない。
体力も魔力も尽きかけている。
だが、光はまだあった。
「灰鷹隊」
ロビンは叫んだ。
「突撃する」
声が返った。
大軍の声ではない。
たった二十余りの声。
それでも森が震えた。
◇
黒松峠へ向かう道は、雪に覆われていた。
夜明けの光が、森の端を薄く照らしている。
敵の見張り火が前方に見えた。
革命派の民兵。
チェシーの斥候。
敗残兵。
彼らは完全な陣を敷いているわけではない。
だが、峠を塞ぐには十分だった。
灰鷹隊は、森の中を低く進んだ。
リッカが先頭近く。
ロビンは中央。
左右に槍持ち。
後ろに火薬筒を持つ者が数名。
残った火薬はわずかだった。
一度撃てば、二度目はないかもしれない。
それでよかった。
これは長い戦ではない。
一息の突撃。
バーゼル家の雷槍と同じだ。
一撃離脱。
ただし、離脱する先があるかはわからない。
リッカが手を上げた。
敵の見張りが近い。
ロビンは頷いた。
火薬筒兵が構える。
息を殺す。
雪が降る。
見張りの一人が、何かに気づいたように顔を上げた。
その瞬間、火薬筒が鳴った。
白煙が森に広がる。
見張りが倒れる。
同時に、リッカが走った。
彼女の動きは、雪の上でも速かった。
小柄な体が低く沈み、槍が水平に伸びる。
敵兵が銃剣を構える前に、リッカの槍が胸を突いた。
ロビンも走る。
雷を体に巡らせる。
神経が焼けるように熱い。
足が軽くなる。
視界が狭まる。
世界が、槍の穂先へ集まる。
「灰鷹だ!」
敵の誰かが叫んだ。
「灰鷹隊だ!」
その声には、恐怖より驚きがあった。
まだいたのか。
まだ来るのか。
そんな声だった。
ロビンは返事をしなかった。
槍で答えた。
最初の敵を突き、二人目を払う。
槍に巻かれた古い布片が、視界の端で揺れる。
正式な旗ではない。
ただの布。
だが、ロビンには、それが旗に見えた。
手書きの鳥。
灰の野。
少年たちの笑い声。
そのすべてが、槍の先にあった。
敵陣が混乱する。
夜明け前の奇襲。
少数の突撃。
灰青色の布を巻いた者たち。
雷の光。
リッカが横にいた。
彼女は本当に、横にいた。
敵の銃剣を払い、ロビンの死角へ入る者を突く。
彼女の槍は鋭い。
昔からそうだった。
道場で脛を打たれた痛みを、ロビンは一瞬思い出した。
今も、彼女はロビンの遅れを許さない。
「遅い!」
リッカが叫んだ。
戦場で聞くその声に、ロビンは笑った。
「すまない!」
「謝るな!」
リッカは槍を振る。
敵兵が倒れる。
灰鷹隊士たちも続いた。
数は少ない。
だが、勢いはあった。
捨て身の勢い。
帰るための勢い。
後ろがない者たちの勢い。
敵の第一線を破った。
黒松峠の入口が見える。
その向こうに、下り道。
さらに向こうに、グラウフェルトの谷。
見えた。
届くかもしれない。
その一瞬、ロビンは本当にそう思った。
だが、銃声が重なった。
峠の上からだった。
チェシー兵が並んでいる。
火薬筒。
いや、後装式。
装填の隙は短い。
紙薬莢。
銃剣。
時代の新しい音が、雪の森に響いた。
灰鷹隊士が倒れる。
北部兵が胸を撃たれ、槍を落とす。
火薬筒を持っていた若者が膝をつく。
それでも、前へ。
ロビンは雷を強めた。
体が悲鳴を上げる。
筋肉が裂けそうになる。
心臓が暴れる。
それでも、前へ。
雷槍。
バーゼル家の奥義。
馬上で駆け、一撃で敵を貫き、離脱するための技。
今は馬もない。
離脱する先もない。
それでも、槍は雷をまとった。
青白い光が、雪を照らす。
敵兵が叫んだ。
ロビンは突っ込んだ。
銃声。
雷光。
雪。
血。
リッカの声。
誰かの叫び。
レイバーの笑い声。
ローレンスの泣き声。
エレオノーラの「帰ってきて」という声。
すべてが重なる。
ロビンは槍を振るった。
落日の槍だった。
◇
雪は、強くなっていた。
しんしんと降る雪は、グラウフェルトの火山灰に似ていた。
幼い頃、灰の野に立つと、風が吹くたびに細かな灰が舞った。
髪につき、服につき、口に入ると少しざらついた。
レイバーはそれを嫌がり、リッカは平気な顔をし、ローレンスは水筒を差し出した。
ロビンは、あの灰の中で初めて旗を持った。
今、雪の中で、彼はまた旗を持っている。
古い布片を巻いた槍。
拳に縛りつけた旗。
ロビンは前へ進んだ。
敵の姿が霞む。
リッカが横にいる。
いたはずだ。
いや、少し前にいた。
彼女の声が聞こえた。
遅い。
その声に、ロビンはまた笑った。
遅いと言われるなら、まだ走れる。
故郷は近い。
シーベルト火山は、雪の向こうにある。
グラウフェルトの灰の野も。
秘密基地も。
手書きの旗も。
ロビンは槍を掲げた。
青白い雷が、最後に一度だけ強く光った。
その光の中へ、灰鷹隊は消えていった。
◇
この物語を、共に青春を捧げた仲間たちに捧げる。
――ローレンス・ミュラー




