表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/47

第44話 森に眠る公爵



 橋を落としてから、二日が過ぎた。


 追手は遅れた。


 レイバーの読みは正しかった。


 古い谷橋を失った追撃勢は、谷を迂回するしかなかった。仮の橋を架けるには時間がかかり、雪でぬかるむ谷沿いの道は大人数の移動に向かなかった。


 一日は稼げる。


 レイバーはそう言った。


 実際には、二日近く稼いだ。


 だが、二日は永遠ではなかった。


 稼いだ時間は、消費される。


 橋が落ちたという報は、別の追手を呼んだ。街道側を進む革命派の民兵が北へ先回りし、チェシー軍の斥候も山裾へ出始めている。どこから来るのか、どれほどの数なのか、もう正確にはわからなかった。


 ただ、包囲が狭まっていることだけはわかった。


 北へ行くほど、道は少なくなる。


 森と谷が深くなり、村は小さくなり、進める道は限られていく。グラウフェルトへ至る山道は、幼い頃には広く感じた。レイバーと走り、リッカと競い、ローレンスに水筒を持たせ、秘密基地へ向かった道。


 だが、軍が通るには細い。


 敗残兵が逃げるには、さらに細い。


 ロビンたちは、その細い道へ押し込まれていた。


 人数は、もう五十にも届かなかった。


 灰鷹隊。


 北部公爵軍。


 騎士。


 馬丁。


 従卒。


 負傷者。


 名を数えるたび、何かが削れていく。


 ローレンスの帳面は、もうここにはない。


 だから、正確な数は誰にもわからなかった。


 あるいは、誰も知りたくなかった。


 ロビンは歩いた。


 槍を杖のようにしながら、雪を踏んだ。


 胸の内側には、小さな布片がある。


 レイバーが渡した、少年時代の手書き旗の切れ端。


 それは軽いはずなのに、鎧より重かった。





   ◇





 シーベルト火山の影が、遠く見えた。


 雪雲の切れ間、北の空に灰色の稜線が浮かんでいる。


 グラウフェルトの火山。


 故郷。


 休火山の斜面は冬の雪をかぶり、麓には黒い森が広がっていた。その森の奥に、北部要塞がある。半島の付け根を塞ぐように建つ、古い城塞。


 そこまで行けば。


 そう何度も思った。


 そこまで行けば、守れる。


 そこまで行けば、立て直せる。


 そこまで行けば、父に会えるかもしれない。


 そこまで行けば、エレオノーラとローレンスがたどり着いているかもしれない。


 そこまで行けば。


 だが、そこまでが遠かった。


 午後、リッカが斥候から戻った。


 彼女は雪にまみれていた。


 髪も、肩も、槍の柄も白い。頬には細い傷があり、血が凍って赤黒く固まっている。


「前」


 彼女は短く言った。


「塞がれてる」


 ロビンは息を呑んだ。


「どこだ」


「黒松峠。グラウフェルトへ降りる道」


「数は」


「多い。革命派だけじゃない。チェシーの斥候もいる。火薬筒。騎兵少し」


「迂回は」


「西の沢は崩れてる。東は街道に出る」


 リッカは淡々と答えた。


 淡々としているからこそ、絶望的だった。


「後ろは」


「追手が戻ってきた。橋を迂回したみたい。半日遅れくらい」


 ロビンは目を閉じた。


 前を塞がれ、後ろから追われる。


 横へ逃げる道はない。


 故郷は見えている。


 だが、届かない。


 それは残酷な距離だった。


 遠すぎるなら諦められる。


 見えないなら、まだ夢でいられる。


 しかし、シーベルト火山は見えていた。


 灰の野も、秘密基地も、少年時代の旗も、その向こうにある気がした。


 見えているのに、届かない。


 リッカはロビンを見た。


「どうする」


 その問いは、隊長への問いだった。


 幼馴染への問いではない。


 だが、ロビンは答えられなかった。


 その時、アルブレヒトが近づいてきた。


 公爵は馬を降りていた。


 ここ数日、彼もほとんど眠っていない。顔は痩せ、頬の線が深くなっている。それでも外套を整え、背筋を伸ばしていた。


「ロビン」


「閣下」


「報告は聞いた」


「はい」


「全員を集めよ」


 ロビンは顔を上げた。


 アルブレヒトの声は静かだった。


 その静けさが、何より恐ろしかった。


「全員、ですか」


「動ける者は全員だ」


 公爵は北の火山を見た。


「決めねばならぬ」





   ◇





 森の中の開けた場所に、生き残った者たちが集められた。


 黒松の木々が周囲を囲んでいる。


 雪は細く降り続け、枝に積もった白がときおり落ちる。


 そこに立つ者たちは、もはや軍勢ではなかった。


 破れた外套。


 へこんだ兜。


 血の染みた包帯。


 泥にまみれた槍。


 空の火薬筒。


 疲れ切った目。


 それでも、彼らはアルブレヒトの前に立った。


 北部公爵の前に。


 アルブレヒトは一人ずつ見た。


 長く仕えた騎士。


 若い従卒。


 灰鷹隊士。


 帝都から付いてきた残兵。


 名を知らぬ者もいただろう。


 だが、彼は全員を見た。


「諸君」


 公爵の声が森に響いた。


 大きくはない。


 だが、よく通った。


「ここまで、よく付いてきてくれた」


 誰も返事をしなかった。


 返事をすれば、声が崩れるとわかっていたのかもしれない。


「ヴァーレンハーフェンを退き、雪の森を越え、幾人もの仲間を失った。オスカーは門に残った。リオンは帝都へ戻った。ローレンスは娘を守るため離れた。レイバーは橋を落とした」


 レイバーの名が出た時、ロビンの胸が痛んだ。


 リッカは視線を落とさなかった。


 ただ槍を握る手に力が入った。


「そして今、我らは故郷の前で包囲されている」


 アルブレヒトははっきり言った。


 誰も息を呑まなかった。


 皆、知っていた。


「北部要塞へ全員で入ることは、もはや不可能だ」


 雪が降る。


 枝から落ちた雪が、誰かの肩に当たって崩れた。


「よって、北部公爵アルブレヒト・フォン・ヴァルトは、ここに命じる」


 彼は一度、目を閉じた。


 次に開いた時、その目は公爵のものだった。


「公爵軍を解散する」


 ざわめきが起きた。


 小さく、しかし確かに。


 ロビンも思わず一歩前へ出た。


「閣下」


 アルブレヒトは手で制した。


「もはや、諸君が私に従う義務はない」


 彼は続けた。


「逃げる者は逃げよ。降る者は降れ。身分を隠し、村へ紛れる者はそうせよ。武器を捨て、ただの民として生きる者を、私は責めぬ」


「閣下!」


 老騎士が叫んだ。


「我らは」


「聞け」


 アルブレヒトの声が、初めて強くなった。


 老騎士は口を閉じた。


「これは公爵としての最後の命令だ。生きられる者は、生きよ」


 その言葉に、何人かの兵が顔を歪めた。


 生きよ。


 それは優しい言葉ではなかった。


 重い命令だった。


「私に付き従い、名も墓もなく死ぬ必要はない。帝国は崩れた。皇帝はおらぬ。公爵家も、もはや諸君を守れぬ」


 アルブレヒトは言った。


「だから、諸君を縛るものを、私の手で解く」


 ロビンは公爵を見ていた。


 アルブレヒトの顔は穏やかだった。


 それが、かえって痛ましかった。


 部下を見捨てるためではない。


 部下を自由にするための解散。


 それは領主としての敗北であり、最後の慈悲でもあった。


「閣下は」


 ロビンは尋ねた。


「閣下は、どうなさるのです」


 アルブレヒトはロビンを見た。


 その目に、少しだけ父の色があった。


 エレオノーラを雪の中へ送り出した時と同じ、痛みを押し殺した目。


「私は、ここで眠る」


 誰かが息を呑んだ。


「敵に捕らえられ、晒され、フォンヴァルトの名を辱めるわけにはいかぬ」


「そんな」


 若い兵が呟いた。


 アルブレヒトは北の火山を見た。


「ヴァルトハイムの墓に入ることは叶わぬ。だが、この森も北部の森だ。ならば、ここでよい」


 ロビンは言葉を失った。


 止めるべきだ。


 止めたい。


 だが、止めてどうする。


 公爵を連れて走るのか。


 包囲を抜けるのか。


 敵に捕らえられた時、公爵を守り切れるのか。


 答えは、どれもなかった。


 アルブレヒトは腰の短剣を抜いた。


 儀礼用ではない。


 実用の、よく手入れされた短剣だった。


 ロビンが動こうとした。


 リッカが腕を掴んだ。


 彼女の手は冷たかった。


「駄目」


「リッカ」


「見届けるのも、役目」


 ロビンは歯を食いしばった。


 アルブレヒトは、残った者たちへ向き直った。


「ロビン」


「はい」


「娘を頼む、と言いたかった」


 ロビンの胸が詰まった。


「だが、それはもうローレンスに託した」


「……はい」


「ならば、お前には別のことを頼む」


 アルブレヒトは静かに言った。


「生きられるなら生きよ。死ぬなら、己で選べ。だが、どちらにせよ、エレオノーラに恥じぬように」


 ロビンは深く頭を下げた。


「承知しました」


 アルブレヒトは少しだけ笑った。


「良き婿を得た」


 その言葉が、最後の父の言葉だった。


 公爵は膝をついた。


 雪の上に。


 背筋は伸びていた。


 短剣を腹へ当てる。


 老騎士が介錯に進み出た。


 手が震えていた。


 アルブレヒトはその震えを見て、言った。


「しっかりせよ」


「は」


「最後まで、私の騎士であれ」


 老騎士は涙をこぼした。


 それでも剣を構えた。


 雪の森で、北部公爵アルブレヒトは自害した。


 声は上げなかった。


 介錯の刃が落ちた。


 雪が、赤く染まった。





   ◇





 遺体は、黒松の大木の下に埋められた。


 掘る道具は少なかった。


 凍った土は硬く、兵たちは槍の石突きや短剣、折れた板で穴を掘った。


 深くは掘れなかった。


 それでも、できる限り深くした。


 敵に掘り起こされないように。


 獣に荒らされないように。


 名も標も立てなかった。


 墓標を立てれば、見つかる。


 だから、何も残さなかった。


 ただ、老騎士が小さな木片を一本、根元に埋め込んだ。


 誰にも見えないように。


 自分だけがわかるように。


 ロビンは土をかけた。


 一掴み。


 また一掴み。


 公爵家の墓所ではない。


 大聖堂でもない。


 北部の森の黒松の下。


 それが、アルブレヒトの墓になった。


 全員が黙っていた。


 祈りの言葉を口にする者もいなかった。


 祈れば、声が震える。


 声が震えれば、もう歩けない。


 土をかけ終えると、老騎士が膝をついた。


 そして剣を雪の上に置いた。


「私は、ここに残ります」


 ロビンは彼を見た。


「閣下の墓を守るのですか」


「いいえ」


 老騎士は首を振った。


「墓を守る者がいれば、墓だと知られる。私は少し離れた場所で、足跡を消します。それから、敵を別の方へ誘います」


「それでは」


「公爵軍は解散しました」


 老騎士は静かに言った。


「これは私の意思です」


 ロビンは止められなかった。


 アルブレヒトが最後に解いたものを、再び縛ることはできなかった。


 同じように、数名が去った。


 降るために。


 逃げるために。


 村へ紛れるために。


 ある者は泣きながら頭を下げた。


 ある者は何も言わずに森へ消えた。


 ある者は武器を置き、ただの旅人のように歩き出した。


 誰も責めなかった。


 責める資格は、もう誰にもなかった。


 残った者は、さらに少なくなった。


 灰鷹隊を中心に、二十数名。


 北部公爵軍の兵が数名。


 負傷してもなお槍を持つ者。


 降ることを選べなかった者。


 逃げる場所のない者。


 そして、ロビン。


 リッカ。


 彼らは、黒松の下の何もない土を見た。


 そこに公爵が眠っていることを、彼らだけが知っていた。





   ◇





 夜が近づいていた。


 森は暗く、雪は青みを帯び始める。


 ロビンは一人、少し離れた場所に立っていた。


 シーベルト火山が見える。


 故郷は近い。


 だが、道は塞がれている。


 逃げるなら今だ。


 少数で森へ散れば、生き延びる者はいるかもしれない。


 降れば、命だけは助かる者もいるかもしれない。


 それでも、ロビンの足は北を向いていた。


 グラウフェルトへ。


 火山の麓へ。


 少年時代の灰の野へ。


 リッカが隣に来た。


 足音はほとんどしなかった。


「行くのね」


「ああ」


「正面から?」


「他に道はない」


「無謀」


「そうだ」


「死ぬよ」


「たぶん」


 リッカは黙った。


 彼女は槍を抱えていた。


 小柄な体に似合わないほど長い槍。


 少年時代から、彼女は槍だけは誰にも負けなかった。


 ロビンは彼女を見た。


「リッカ」


「何」


「お前は、行かなくていい」


 言った瞬間、殴られるかと思った。


 だが、リッカは殴らなかった。


 ただ、ロビンを見た。


 その目が、ひどく静かだった。


「それ、本気で言ってる?」


「ああ」


「嘘」


「本気だ」


「じゃあ、馬鹿」


 リッカは言った。


 いつものように。


 だが、声は少しだけ柔らかかった。


「私は最初から、そばにいた」


 ロビンは何も言えなかった。


「グラウフェルトで、あんたが槍を振ってた時も。帝都へ行くって言った時も。灰鷹隊になった時も。エリーと結婚した時も」


 エリーの名を出す時、リッカは一瞬だけ目を伏せた。


「嫌だった」


 その言葉は小さかった。


「でも、嬉しかった」


 ロビンはリッカを見た。


 彼女は火山を見ていた。


「エリーは、あんたを幸せにした。だから、嫌いになれなかった」


「リッカ」


「言わなくていい」


 彼女は首を振った。


「今さら、何か言われても困る」


 雪が降る。


 リッカの髪に白く積もる。


 彼女はそれを払わなかった。


「私は、エリーにはなれなかった」


 ロビンは息を止めた。


「でも、最後まで横にはいられる」


 リッカは槍を握り直した。


「それでいい」


「よくない」


「いいの」


 彼女は、少しだけ笑った。


 子供の頃のような、勝ち気で、少し不器用な笑顔だった。


「あんたが旗を持つなら、私は横で槍を持つ。それが私の役」


 レイバーの言葉を思い出した。


 俺は道を作る。


 お前は旗を持つ。


 リッカは勝手に突っ込む。


 ローレンスは泣きながら後始末する。


 それが俺たちだったろ。


 ロビンは胸の布片を握った。


「私は、お前たちに何も返せていない」


「返さなくていい」


「そうはいかない」


「じゃあ、最後まで格好つけて」


 リッカは言った。


「レイバーも、そう言ったでしょ」


 ロビンは苦く笑った。


「ああ」


「なら、そうして」


 彼女は槍を肩に担いだ。


「私は、最後までそばにいる」


 ロビンはしばらく黙っていた。


 そして、頷いた。


「頼む」


「うん」


 リッカは満足そうに頷いた。


 それから、少しだけ照れたように顔を背けた。


「やっと、ちゃんと頼んだ」


「そうか」


「そう」


 二人は並んで、火山を見た。


 雪はしんしんと降っている。


 故郷の火山灰のように。


 遠く、黒松峠の方から、敵の火がちらちらと見え始めていた。


 包囲は完成していた。


 残った道は、一つだけだった。


 突き破る。


 無謀でも。


 愚かでも。


 故郷は、もう目の前だった。





   ◇





 夜半、ロビンは残った者たちを集めた。


 正式な隊旗は、まだ巻かれたままだった。


 掲げれば、敵に場所を知らせる。


 だが、もはや隠れる意味も薄かった。


 ロビンは懐から古い布片を取り出した。


 レイバーが渡した、手書きの旗の切れ端。


 それを見て、灰鷹隊士たちが息を呑む。


 リッカは何も言わなかった。


 ただ、槍を立てた。


「明朝」


 ロビンは言った。


「黒松峠へ向かう」


 誰も驚かなかった。


 もう皆、知っていた。


「突破できる保証はない」


 ロビンは続けた。


「いや、正直に言えば、ほとんどない」


 雪が降る。


 黒松の枝が揺れる。


「だが、私は行く。故郷へ帰るために。グラウフェルトへ。シーベルト火山の麓へ。あの灰の野へ」


 彼は一人ずつ見た。


「ついて来いとは言わない。公爵閣下は我々を解散された。逃げる者は逃げていい。降る者は降っていい」


 誰も動かなかった。


 ロビンは息を吸った。


「それでも残る者は、明朝、私と共に行く」


 灰鷹隊士の一人が、槍を立てた。


 北部兵が続いた。


 また一人。


 また一人。


 リッカが最後ではなかった。


 彼女は最初から槍を立てていた。


 ロビンは布片を握った。


 雪の夜、森の中で、小さな旗の切れ端はあまりにも粗末だった。


 正式な隊旗とは比べ物にならない。


 だが、今の彼らには、その方が似合っていた。


 レイバーの声が聞こえた気がした。


 おまえ、俺たちの旗持てよ。


 ロビンは目を閉じた。


 そして、明日の突撃を決めた。


 森の奥、名もなき黒松の下には、北部公爵が眠っている。


 雪は、その土を静かに覆い始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ