第44話 森に眠る公爵
橋を落としてから、二日が過ぎた。
追手は遅れた。
レイバーの読みは正しかった。
古い谷橋を失った追撃勢は、谷を迂回するしかなかった。仮の橋を架けるには時間がかかり、雪でぬかるむ谷沿いの道は大人数の移動に向かなかった。
一日は稼げる。
レイバーはそう言った。
実際には、二日近く稼いだ。
だが、二日は永遠ではなかった。
稼いだ時間は、消費される。
橋が落ちたという報は、別の追手を呼んだ。街道側を進む革命派の民兵が北へ先回りし、チェシー軍の斥候も山裾へ出始めている。どこから来るのか、どれほどの数なのか、もう正確にはわからなかった。
ただ、包囲が狭まっていることだけはわかった。
北へ行くほど、道は少なくなる。
森と谷が深くなり、村は小さくなり、進める道は限られていく。グラウフェルトへ至る山道は、幼い頃には広く感じた。レイバーと走り、リッカと競い、ローレンスに水筒を持たせ、秘密基地へ向かった道。
だが、軍が通るには細い。
敗残兵が逃げるには、さらに細い。
ロビンたちは、その細い道へ押し込まれていた。
人数は、もう五十にも届かなかった。
灰鷹隊。
北部公爵軍。
騎士。
馬丁。
従卒。
負傷者。
名を数えるたび、何かが削れていく。
ローレンスの帳面は、もうここにはない。
だから、正確な数は誰にもわからなかった。
あるいは、誰も知りたくなかった。
ロビンは歩いた。
槍を杖のようにしながら、雪を踏んだ。
胸の内側には、小さな布片がある。
レイバーが渡した、少年時代の手書き旗の切れ端。
それは軽いはずなのに、鎧より重かった。
◇
シーベルト火山の影が、遠く見えた。
雪雲の切れ間、北の空に灰色の稜線が浮かんでいる。
グラウフェルトの火山。
故郷。
休火山の斜面は冬の雪をかぶり、麓には黒い森が広がっていた。その森の奥に、北部要塞がある。半島の付け根を塞ぐように建つ、古い城塞。
そこまで行けば。
そう何度も思った。
そこまで行けば、守れる。
そこまで行けば、立て直せる。
そこまで行けば、父に会えるかもしれない。
そこまで行けば、エレオノーラとローレンスがたどり着いているかもしれない。
そこまで行けば。
だが、そこまでが遠かった。
午後、リッカが斥候から戻った。
彼女は雪にまみれていた。
髪も、肩も、槍の柄も白い。頬には細い傷があり、血が凍って赤黒く固まっている。
「前」
彼女は短く言った。
「塞がれてる」
ロビンは息を呑んだ。
「どこだ」
「黒松峠。グラウフェルトへ降りる道」
「数は」
「多い。革命派だけじゃない。チェシーの斥候もいる。火薬筒。騎兵少し」
「迂回は」
「西の沢は崩れてる。東は街道に出る」
リッカは淡々と答えた。
淡々としているからこそ、絶望的だった。
「後ろは」
「追手が戻ってきた。橋を迂回したみたい。半日遅れくらい」
ロビンは目を閉じた。
前を塞がれ、後ろから追われる。
横へ逃げる道はない。
故郷は見えている。
だが、届かない。
それは残酷な距離だった。
遠すぎるなら諦められる。
見えないなら、まだ夢でいられる。
しかし、シーベルト火山は見えていた。
灰の野も、秘密基地も、少年時代の旗も、その向こうにある気がした。
見えているのに、届かない。
リッカはロビンを見た。
「どうする」
その問いは、隊長への問いだった。
幼馴染への問いではない。
だが、ロビンは答えられなかった。
その時、アルブレヒトが近づいてきた。
公爵は馬を降りていた。
ここ数日、彼もほとんど眠っていない。顔は痩せ、頬の線が深くなっている。それでも外套を整え、背筋を伸ばしていた。
「ロビン」
「閣下」
「報告は聞いた」
「はい」
「全員を集めよ」
ロビンは顔を上げた。
アルブレヒトの声は静かだった。
その静けさが、何より恐ろしかった。
「全員、ですか」
「動ける者は全員だ」
公爵は北の火山を見た。
「決めねばならぬ」
◇
森の中の開けた場所に、生き残った者たちが集められた。
黒松の木々が周囲を囲んでいる。
雪は細く降り続け、枝に積もった白がときおり落ちる。
そこに立つ者たちは、もはや軍勢ではなかった。
破れた外套。
へこんだ兜。
血の染みた包帯。
泥にまみれた槍。
空の火薬筒。
疲れ切った目。
それでも、彼らはアルブレヒトの前に立った。
北部公爵の前に。
アルブレヒトは一人ずつ見た。
長く仕えた騎士。
若い従卒。
灰鷹隊士。
帝都から付いてきた残兵。
名を知らぬ者もいただろう。
だが、彼は全員を見た。
「諸君」
公爵の声が森に響いた。
大きくはない。
だが、よく通った。
「ここまで、よく付いてきてくれた」
誰も返事をしなかった。
返事をすれば、声が崩れるとわかっていたのかもしれない。
「ヴァーレンハーフェンを退き、雪の森を越え、幾人もの仲間を失った。オスカーは門に残った。リオンは帝都へ戻った。ローレンスは娘を守るため離れた。レイバーは橋を落とした」
レイバーの名が出た時、ロビンの胸が痛んだ。
リッカは視線を落とさなかった。
ただ槍を握る手に力が入った。
「そして今、我らは故郷の前で包囲されている」
アルブレヒトははっきり言った。
誰も息を呑まなかった。
皆、知っていた。
「北部要塞へ全員で入ることは、もはや不可能だ」
雪が降る。
枝から落ちた雪が、誰かの肩に当たって崩れた。
「よって、北部公爵アルブレヒト・フォン・ヴァルトは、ここに命じる」
彼は一度、目を閉じた。
次に開いた時、その目は公爵のものだった。
「公爵軍を解散する」
ざわめきが起きた。
小さく、しかし確かに。
ロビンも思わず一歩前へ出た。
「閣下」
アルブレヒトは手で制した。
「もはや、諸君が私に従う義務はない」
彼は続けた。
「逃げる者は逃げよ。降る者は降れ。身分を隠し、村へ紛れる者はそうせよ。武器を捨て、ただの民として生きる者を、私は責めぬ」
「閣下!」
老騎士が叫んだ。
「我らは」
「聞け」
アルブレヒトの声が、初めて強くなった。
老騎士は口を閉じた。
「これは公爵としての最後の命令だ。生きられる者は、生きよ」
その言葉に、何人かの兵が顔を歪めた。
生きよ。
それは優しい言葉ではなかった。
重い命令だった。
「私に付き従い、名も墓もなく死ぬ必要はない。帝国は崩れた。皇帝はおらぬ。公爵家も、もはや諸君を守れぬ」
アルブレヒトは言った。
「だから、諸君を縛るものを、私の手で解く」
ロビンは公爵を見ていた。
アルブレヒトの顔は穏やかだった。
それが、かえって痛ましかった。
部下を見捨てるためではない。
部下を自由にするための解散。
それは領主としての敗北であり、最後の慈悲でもあった。
「閣下は」
ロビンは尋ねた。
「閣下は、どうなさるのです」
アルブレヒトはロビンを見た。
その目に、少しだけ父の色があった。
エレオノーラを雪の中へ送り出した時と同じ、痛みを押し殺した目。
「私は、ここで眠る」
誰かが息を呑んだ。
「敵に捕らえられ、晒され、フォンヴァルトの名を辱めるわけにはいかぬ」
「そんな」
若い兵が呟いた。
アルブレヒトは北の火山を見た。
「ヴァルトハイムの墓に入ることは叶わぬ。だが、この森も北部の森だ。ならば、ここでよい」
ロビンは言葉を失った。
止めるべきだ。
止めたい。
だが、止めてどうする。
公爵を連れて走るのか。
包囲を抜けるのか。
敵に捕らえられた時、公爵を守り切れるのか。
答えは、どれもなかった。
アルブレヒトは腰の短剣を抜いた。
儀礼用ではない。
実用の、よく手入れされた短剣だった。
ロビンが動こうとした。
リッカが腕を掴んだ。
彼女の手は冷たかった。
「駄目」
「リッカ」
「見届けるのも、役目」
ロビンは歯を食いしばった。
アルブレヒトは、残った者たちへ向き直った。
「ロビン」
「はい」
「娘を頼む、と言いたかった」
ロビンの胸が詰まった。
「だが、それはもうローレンスに託した」
「……はい」
「ならば、お前には別のことを頼む」
アルブレヒトは静かに言った。
「生きられるなら生きよ。死ぬなら、己で選べ。だが、どちらにせよ、エレオノーラに恥じぬように」
ロビンは深く頭を下げた。
「承知しました」
アルブレヒトは少しだけ笑った。
「良き婿を得た」
その言葉が、最後の父の言葉だった。
公爵は膝をついた。
雪の上に。
背筋は伸びていた。
短剣を腹へ当てる。
老騎士が介錯に進み出た。
手が震えていた。
アルブレヒトはその震えを見て、言った。
「しっかりせよ」
「は」
「最後まで、私の騎士であれ」
老騎士は涙をこぼした。
それでも剣を構えた。
雪の森で、北部公爵アルブレヒトは自害した。
声は上げなかった。
介錯の刃が落ちた。
雪が、赤く染まった。
◇
遺体は、黒松の大木の下に埋められた。
掘る道具は少なかった。
凍った土は硬く、兵たちは槍の石突きや短剣、折れた板で穴を掘った。
深くは掘れなかった。
それでも、できる限り深くした。
敵に掘り起こされないように。
獣に荒らされないように。
名も標も立てなかった。
墓標を立てれば、見つかる。
だから、何も残さなかった。
ただ、老騎士が小さな木片を一本、根元に埋め込んだ。
誰にも見えないように。
自分だけがわかるように。
ロビンは土をかけた。
一掴み。
また一掴み。
公爵家の墓所ではない。
大聖堂でもない。
北部の森の黒松の下。
それが、アルブレヒトの墓になった。
全員が黙っていた。
祈りの言葉を口にする者もいなかった。
祈れば、声が震える。
声が震えれば、もう歩けない。
土をかけ終えると、老騎士が膝をついた。
そして剣を雪の上に置いた。
「私は、ここに残ります」
ロビンは彼を見た。
「閣下の墓を守るのですか」
「いいえ」
老騎士は首を振った。
「墓を守る者がいれば、墓だと知られる。私は少し離れた場所で、足跡を消します。それから、敵を別の方へ誘います」
「それでは」
「公爵軍は解散しました」
老騎士は静かに言った。
「これは私の意思です」
ロビンは止められなかった。
アルブレヒトが最後に解いたものを、再び縛ることはできなかった。
同じように、数名が去った。
降るために。
逃げるために。
村へ紛れるために。
ある者は泣きながら頭を下げた。
ある者は何も言わずに森へ消えた。
ある者は武器を置き、ただの旅人のように歩き出した。
誰も責めなかった。
責める資格は、もう誰にもなかった。
残った者は、さらに少なくなった。
灰鷹隊を中心に、二十数名。
北部公爵軍の兵が数名。
負傷してもなお槍を持つ者。
降ることを選べなかった者。
逃げる場所のない者。
そして、ロビン。
リッカ。
彼らは、黒松の下の何もない土を見た。
そこに公爵が眠っていることを、彼らだけが知っていた。
◇
夜が近づいていた。
森は暗く、雪は青みを帯び始める。
ロビンは一人、少し離れた場所に立っていた。
シーベルト火山が見える。
故郷は近い。
だが、道は塞がれている。
逃げるなら今だ。
少数で森へ散れば、生き延びる者はいるかもしれない。
降れば、命だけは助かる者もいるかもしれない。
それでも、ロビンの足は北を向いていた。
グラウフェルトへ。
火山の麓へ。
少年時代の灰の野へ。
リッカが隣に来た。
足音はほとんどしなかった。
「行くのね」
「ああ」
「正面から?」
「他に道はない」
「無謀」
「そうだ」
「死ぬよ」
「たぶん」
リッカは黙った。
彼女は槍を抱えていた。
小柄な体に似合わないほど長い槍。
少年時代から、彼女は槍だけは誰にも負けなかった。
ロビンは彼女を見た。
「リッカ」
「何」
「お前は、行かなくていい」
言った瞬間、殴られるかと思った。
だが、リッカは殴らなかった。
ただ、ロビンを見た。
その目が、ひどく静かだった。
「それ、本気で言ってる?」
「ああ」
「嘘」
「本気だ」
「じゃあ、馬鹿」
リッカは言った。
いつものように。
だが、声は少しだけ柔らかかった。
「私は最初から、そばにいた」
ロビンは何も言えなかった。
「グラウフェルトで、あんたが槍を振ってた時も。帝都へ行くって言った時も。灰鷹隊になった時も。エリーと結婚した時も」
エリーの名を出す時、リッカは一瞬だけ目を伏せた。
「嫌だった」
その言葉は小さかった。
「でも、嬉しかった」
ロビンはリッカを見た。
彼女は火山を見ていた。
「エリーは、あんたを幸せにした。だから、嫌いになれなかった」
「リッカ」
「言わなくていい」
彼女は首を振った。
「今さら、何か言われても困る」
雪が降る。
リッカの髪に白く積もる。
彼女はそれを払わなかった。
「私は、エリーにはなれなかった」
ロビンは息を止めた。
「でも、最後まで横にはいられる」
リッカは槍を握り直した。
「それでいい」
「よくない」
「いいの」
彼女は、少しだけ笑った。
子供の頃のような、勝ち気で、少し不器用な笑顔だった。
「あんたが旗を持つなら、私は横で槍を持つ。それが私の役」
レイバーの言葉を思い出した。
俺は道を作る。
お前は旗を持つ。
リッカは勝手に突っ込む。
ローレンスは泣きながら後始末する。
それが俺たちだったろ。
ロビンは胸の布片を握った。
「私は、お前たちに何も返せていない」
「返さなくていい」
「そうはいかない」
「じゃあ、最後まで格好つけて」
リッカは言った。
「レイバーも、そう言ったでしょ」
ロビンは苦く笑った。
「ああ」
「なら、そうして」
彼女は槍を肩に担いだ。
「私は、最後までそばにいる」
ロビンはしばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「頼む」
「うん」
リッカは満足そうに頷いた。
それから、少しだけ照れたように顔を背けた。
「やっと、ちゃんと頼んだ」
「そうか」
「そう」
二人は並んで、火山を見た。
雪はしんしんと降っている。
故郷の火山灰のように。
遠く、黒松峠の方から、敵の火がちらちらと見え始めていた。
包囲は完成していた。
残った道は、一つだけだった。
突き破る。
無謀でも。
愚かでも。
故郷は、もう目の前だった。
◇
夜半、ロビンは残った者たちを集めた。
正式な隊旗は、まだ巻かれたままだった。
掲げれば、敵に場所を知らせる。
だが、もはや隠れる意味も薄かった。
ロビンは懐から古い布片を取り出した。
レイバーが渡した、手書きの旗の切れ端。
それを見て、灰鷹隊士たちが息を呑む。
リッカは何も言わなかった。
ただ、槍を立てた。
「明朝」
ロビンは言った。
「黒松峠へ向かう」
誰も驚かなかった。
もう皆、知っていた。
「突破できる保証はない」
ロビンは続けた。
「いや、正直に言えば、ほとんどない」
雪が降る。
黒松の枝が揺れる。
「だが、私は行く。故郷へ帰るために。グラウフェルトへ。シーベルト火山の麓へ。あの灰の野へ」
彼は一人ずつ見た。
「ついて来いとは言わない。公爵閣下は我々を解散された。逃げる者は逃げていい。降る者は降っていい」
誰も動かなかった。
ロビンは息を吸った。
「それでも残る者は、明朝、私と共に行く」
灰鷹隊士の一人が、槍を立てた。
北部兵が続いた。
また一人。
また一人。
リッカが最後ではなかった。
彼女は最初から槍を立てていた。
ロビンは布片を握った。
雪の夜、森の中で、小さな旗の切れ端はあまりにも粗末だった。
正式な隊旗とは比べ物にならない。
だが、今の彼らには、その方が似合っていた。
レイバーの声が聞こえた気がした。
おまえ、俺たちの旗持てよ。
ロビンは目を閉じた。
そして、明日の突撃を決めた。
森の奥、名もなき黒松の下には、北部公爵が眠っている。
雪は、その土を静かに覆い始めていた。




