第43話 俺たちの旗
ローレンスとエレオノーラを見送った翌朝、また二人が消えた。
一人は北部公爵軍の兵だった。
夜明け前、見張りが交代する頃にはまだいた。だが、出立の時には荷の影から姿がなくなっていた。足跡は街道の方へ向かっていたが、すぐに降り積もる雪に紛れて途切れていた。
もう一人は灰鷹隊の若い隊士だった。
彼は逃げたのではなかった。
前夜から熱が上がり、朝には目を開けなくなっていた。ローレンスがいれば、もっと何かできたかもしれない。そう思った者は多かった。
だが、誰も口には出さなかった。
ローレンスはもういない。
エレオノーラを連れて北の街道へ向かった。
彼には彼の戦がある。
残された者たちは、残された者たちの戦を続けるしかなかった。
ロビンは隊列の先頭近くを歩いていた。
馬はいる。
だが、乗らなかった。
負傷者を乗せる荷車を引かせるためにも、馬の力は温存しなければならない。何より、自分だけ馬上にいることが、今はひどく似合わない気がした。
雪は相変わらず細く降っている。
森の枝に白く積もり、泥の道を隠し、足跡をぼかす。
追手を惑わせる雪。
同時に、自分たちの行く道も奪う雪。
隊列は、さらに小さくなっていた。
百を切った人数は、今や七十余り。
動ける者だけを数えれば、もっと少ない。
灰鷹隊の隊旗は、布を巻いて隠していた。
掲げる余裕はない。
見つかれば標的になる。
正式な隊旗は、今や誇りであると同時に危険物だった。
ロビンは時折、その巻かれた旗を見た。
帝都の詰め所で初めて広げられた時、皆が歓声を上げた旗。
交差する二枚の灰鷹の羽と、雷槍。
あの時、レイバーは言った。
上手くなりすぎたな、と。
何が、と聞くと、旗だよ、と笑った。
そのレイバーは、今、隊列のずっと前にいた。
斥候から戻らない。
予定より遅い。
ロビンは胸騒ぎを覚え始めていた。
◇
昼過ぎ、リッカが戻った。
馬を飛ばしてきたらしく、馬の鼻先から白い息が荒く噴き出している。リッカ自身も肩で息をしていた。
「追手」
それだけで十分だった。
ロビンはすぐに隊列を止めた。
「数は」
「多い。チェシーの騎兵じゃない。革命派と敗残兵が混じってる。たぶん、こっちを見つけた」
「距離は」
「半刻。急げばもっと早い」
周囲の兵たちに動揺が走った。
半刻。
逃げるには短い。
迎え撃つには少ない。
「レイバーは」
ロビンが尋ねると、リッカは北西の方を指した。
「あっち。谷道を見てる」
「谷道?」
「古い橋がある。川というより、雪解け水の谷。深い」
リッカは短く説明した。
「橋を渡れば、向こうの尾根道へ出られる。そこから森に入れば、しばらく姿を隠せる」
「橋は」
「狭い。荷車は一台ずつ。時間がかかる」
ロビンはすぐに理解した。
狭い橋。
深い谷。
追手。
渡り切れなければ終わる。
渡り切ったとしても、橋が残れば追いつかれる。
「レイバーは何と言っている」
リッカは少し目を逸らした。
「直接聞いた方がいい」
その言い方で、ロビンはほとんど察した。
彼は槍を握り直し、隊列へ命じた。
「全員、谷道へ。荷はさらに捨てろ。食料、水、火薬、負傷者だけを優先する。急げ」
兵たちは動き出した。
重い荷が雪の上へ捨てられる。
金具。
予備の鍋。
濡れた毛布。
壊れた盾。
誰かの余分な靴。
戦うために必要だったものも、生きるためには捨てられる。
ロビンはリッカと共に谷道へ向かった。
◇
橋は、思ったより古かった。
谷底には黒い水が流れている。
雪解けにはまだ早いが、南からの雨と山の湧き水が集まり、細い川が泡立っていた。落ちれば、助からないだろう。
橋は木造だった。
幅は荷車一台がやっと通れるほど。
両側に低い欄干があるが、片側は半分腐っている。床板は凍り、ところどころ軋む。支柱は太いが、長く手入れされていない。
橋の向こう側に、レイバーがいた。
彼は橋の下を覗き込み、支柱を叩き、雪を払って木目を確かめていた。腰には斧。肩には縄。足元には火薬の小樽が二つ。
まるで戦場ではなく、親父の仕事場にいるようだった。
「遅えぞ」
レイバーは顔を上げずに言った。
「お前が戻らないから来た」
「戻る暇がなかった」
「何をしている」
「見りゃわかるだろ」
彼は支柱を斧の柄で叩いた。
「橋を落とす」
ロビンは黙った。
やはり、と思った。
「全員が渡ってからか」
「無理だな」
レイバーは即答した。
「追手が早い。こっちの荷車が全部渡る頃には、向こうが橋にかかる」
「なら、橋のこちら側で迎え撃つ」
「馬鹿言え。こっちは七十いるかどうか。半分は負傷者だ。向こうは百以上。しかも勢いがある。ここでまともに受けたら、橋を落とす前に押し切られる」
「ではどうする」
「敵を橋に乗せる」
レイバーは、ようやく顔を上げた。
その目は血走っていた。
だが、妙に澄んでいた。
「追手の先頭を引きつけて、橋に乗せる。支柱を切って、火薬で落とす。谷に落ちれば、後続は止まる。橋を掛け直すには時間がかかる。少なくとも一日は稼げる」
「誰が残る」
「俺」
答えは、最初から決まっていたようだった。
「駄目だ」
ロビンは言った。
声が低くなった。
「それは許さない」
「許可を取りに来たんじゃねえ」
「私は隊長だ」
「知ってる」
「なら、命令を聞け」
「だったら命令しろ」
レイバーは一歩近づいた。
雪を踏む音が、やけにはっきり聞こえた。
「俺に残れって命令しろ」
ロビンは息を詰めた。
言えなかった。
言えるわけがなかった。
レイバーは、ロビンの顔を見て、少しだけ笑った。
怒ったような、呆れたような、昔と同じ笑い方だった。
「ほらな」
「レイバー」
「隊長だろ。嫌な命令くらい出せ」
「違う」
「違わねえよ」
レイバーの声が少し荒くなった。
「お前はずっとそうだ。自分が傷つく命令は出せるくせに、俺たちが傷つく命令になると黙りやがる」
「当たり前だ」
ロビンも声を荒げた。
「お前たちは、私の」
言葉が止まった。
部下。
仲間。
幼馴染。
家族。
どれも正しくて、どれも足りなかった。
レイバーはその続きを待たなかった。
「俺たちは、お前の旗だろ」
ロビンは顔を上げた。
「何を」
「昔からそうだ」
レイバーは橋の向こう、雪の森を見た。
「グラウフェルトで、お前が浮いてた時。貴族の子だ何だって、みんなが距離を置いてた時。俺が言ったんだ。仲間に入れよって」
ロビンは何も言えなかった。
覚えている。
火山灰の積もる野。
秘密基地。
端材で作った壁。
下手な鳥の絵が描かれた手書きの旗。
レイバーが笑って言った。
お前、旗持ちな。
「あの時から、お前は旗持ちだった」
レイバーは言った。
「俺は道を作る。お前は旗を持つ。リッカは勝手に突っ込む。ローレンスは泣きながら後始末する。それが俺たちだったろ」
「今は違う」
「違わねえ」
レイバーは首を振った。
「何も違わねえよ。帝都だの公爵家だの正式部隊だの、旗が上手くなっただけだ。中身はあの頃と同じだ」
彼は懐に手を入れた。
取り出したのは、小さな布片だった。
古く、汚れ、端がほつれている。
灰色とも茶色ともつかない布。
だが、そこにかすかに黒い線が残っていた。
鳥の羽のような、ただの落書きのような線。
ロビンは息を呑んだ。
「それ」
「覚えてるか」
「忘れるわけがない」
「ならいい」
レイバーはそれをロビンへ差し出した。
「持っていけ」
ロビンは受け取れなかった。
手が動かなかった。
「まだ持っていたのか」
「馬鹿野郎」
レイバーは笑った。
「お前らが忘れても、俺は忘れねえよ」
「忘れていない」
「知ってる」
「なら」
「だから持っていけ」
レイバーは布片をロビンの胸に押しつけた。
「正式な隊旗は重すぎる。公爵家だ、バーゼル家だ、灰鷹隊だ、背負うもんが多すぎる」
彼の声が、少しだけ柔らかくなった。
「でも、俺たちの旗は最初からこれだった」
ロビンは布片を握った。
古い布は冷たかった。
だが、手の中で奇妙に熱を持つような気がした。
「レイバー」
「おまえ、俺たちの旗持てよ」
その言葉は、少年の日と同じだった。
ロビンの胸が裂けそうになった。
「嫌だ」
思わず言った。
隊長ではない声だった。
少年の声だった。
「嫌だ。お前が持て」
「似合わねえよ」
「似合う」
「似合わねえって」
レイバーは、いつものように笑った。
「俺は大工の倅だ。旗を持つより、橋を落とす方が向いてる」
◇
橋を渡る準備は、すぐに始まった。
時間はなかった。
追手は近づいている。
谷のこちら側に、レイバーが選んだ者たちが残った。
灰鷹隊から六名。
北部公爵軍の兵が四名。
工兵崩れが一人。
全員が、動ける者だった。
つまり、本当なら逃げられる者たちだった。
ロビンは彼らに言った。
「志願は取り消せる」
誰も動かなかった。
若い灰鷹隊士が笑った。
「レイバーさん一人に任せたら、橋じゃなくて山まで落としそうです」
レイバーがその頭を叩いた。
「うるせえ」
別の兵が言った。
「一日稼げば、家族が北へ逃げる時間になります」
工兵崩れは肩をすくめた。
「支柱の切り方が雑だと、橋が変な方向へ落ちます。見ていられません」
レイバーが鼻を鳴らした。
「職人面しやがって」
「あなたもでしょう」
短い笑いが起きた。
笑いはすぐ消えた。
皆、わかっている。
これは冗談ではない。
ロビンは一人ずつ顔を見た。
名前を呼んだ。
呼べる者は。
知らない者には、名を聞いた。
レイバーが少し苛立ったように言った。
「時間がねえぞ」
「名を聞く時間はある」
ロビンは答えた。
レイバーは何も言わなかった。
ただ、少し目を細めた。
荷車が橋を渡り始めた。
床板が軋む。
馬が怯える。
負傷者が息を殺す。
リッカは橋の向こう側で誘導していた。
「急いで。でも走らない。馬を煽らない」
彼女の声は短い。
だが、不思議と人を落ち着かせた。
アルブレヒトは最後までこちら側に残ろうとした。
だが、レイバーが言った。
「公爵閣下が残ったら、俺が残る意味がねえです」
「しかし」
「行ってください。俺は、あんたらを通すために残るんで」
アルブレヒトは、レイバーを見た。
そして深く頭を下げた。
公爵が、大工の息子に頭を下げた。
「頼む」
レイバーは困った顔をした。
「そういうの、やめてくださいよ」
「頼む」
「……はい」
アルブレヒトは橋を渡った。
残るはロビンだけだった。
レイバーが眉をひそめる。
「何してる」
「最後に渡る」
「馬鹿言うな」
「隊長だ」
「だから行け」
二人は睨み合った。
遠くで、角笛のような音がした。
追手だ。
時間は尽きた。
レイバーはロビンの胸を拳で突いた。
「いいか、ロビン」
久しぶりに、名前だけで呼ばれた気がした。
「お前はここで残るな」
「レイバー」
「俺が残る。お前は行く。これは命令じゃねえ。昔から決まってた役割だ」
「そんな役割は知らない」
「知らなくてもいい。俺が知ってる」
レイバーは、ロビンの手を掴んだ。
その手には、古い布片が握られている。
「落とすなよ」
「落とさない」
「泣くなよ」
「泣いていない」
「今はな」
レイバーは笑った。
「最後まで格好つけろ。お前は、そういう役だ」
ロビンは何か言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
ありがとう。
行くな。
すまない。
また会おう。
どれも嘘のようで、どれも足りなかった。
だから、ロビンはただ言った。
「命令だ」
レイバーが顔を上げる。
「生きろ」
一瞬、レイバーは真顔になった。
それから、肩をすくめた。
「できるだけな」
ロビンは橋を渡った。
足元の板が軋む。
渡り切るまで、一度も振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまう。
向こう岸へ着いた時、リッカが待っていた。
彼女はロビンの顔を見て、何も言わなかった。
ただ、橋の向こうを見た。
レイバーが手を振っていた。
昔と同じように。
秘密基地の入口で、また明日な、と言う時のように。
◇
追手の先頭が、谷道へ現れた。
赤い腕章をつけた民兵。
帝国軍から離れた敗残兵。
中にはチェシー製の火薬筒を持つ者もいた。
彼らは飢えていた。
疲れていた。
だが、獲物を見つけた者の目をしていた。
谷の向こうには、逃げる敗残兵の列がある。
荷車がある。
馬がいる。
食料があるかもしれない。
貴族がいるかもしれない。
捕らえれば手柄になる。
奪えば生き延びられる。
彼らは叫びながら迫ってきた。
レイバーは橋の手前に立っていた。
残った者たちは、支柱の下や橋の脇に散っている。
斧で入れた切れ目。
楔。
縄。
火薬の小樽。
導火線。
すべては準備されていた。
だが、まだ早い。
敵を橋へ乗せなければならない。
「撃つな」
レイバーは言った。
灰鷹隊士が火薬筒を握りしめる。
「まだだ」
追手が近づく。
五十歩。
三十歩。
火薬筒の射程。
敵の一人が撃った。
弾は橋の欄干に当たり、木片を散らした。
北部兵の一人が肩を撃たれ、倒れかける。
それでも、彼は縄を離さなかった。
「まだだ!」
レイバーが怒鳴る。
追手の先頭が橋へ足をかけた。
一人。
二人。
三人。
後続が押す。
橋の上に人が増える。
床板が軋む。
欄干が揺れる。
「今だ!」
レイバーの声が谷に響いた。
斧が支柱へ入る。
楔が打ち込まれる。
縄が引かれる。
火薬筒が撃たれる。
火が導火線へ移る。
敵が異変に気づいた。
「下がれ!」
誰かが叫んだ。
だが、後ろから押されて下がれない。
橋の上で人がもつれた。
レイバーは橋の脇で、最後の縄を掴んでいた。
こちら岸と向こう岸をつなぐ、補助の留め縄。
これを切れば、支えを失った橋は谷へ落ちる。
だが、縄は凍っていた。
斧が弾かれる。
「くそっ」
もう一度。
木の繊維が裂ける。
敵が迫る。
赤い腕章の男が銃剣を構え、レイバーへ突っ込んできた。
灰鷹隊士がその前に立ち、撃たれた。
倒れながらも敵の足にしがみつく。
「レイバーさん!」
「離すな!」
レイバーは叫んだ。
斧を振る。
三度目。
縄が半分切れる。
導火線の火が小樽へ近づく。
橋の上の敵が悲鳴を上げる。
ロビンは向こう岸で見ていた。
体が動く。
戻ろうとする。
リッカが腕を掴んだ。
「駄目」
「離せ」
「駄目」
リッカの声は震えていた。
それでも、手は離さなかった。
レイバーがこちらを見た。
遠い。
雪と煙の向こう。
だが、確かに目が合った。
レイバーは笑った。
そして、何かを叫んだ。
音は銃声と怒号に消えた。
けれど、ロビンには聞こえた気がした。
おまえ、俺たちの旗持てよ。
レイバーは斧を振り下ろした。
縄が切れた。
同時に火薬が爆ぜた。
大きな爆発ではなかった。
オスカーの北門を吹き飛ばした火とは違う。
だが、橋の支えを失わせるには十分だった。
床板が裂ける。
支柱が折れる。
橋が、ゆっくり傾いた。
上にいた者たちが叫ぶ。
敵も味方も、橋の破片も、雪も土も、一斉に谷へ落ちていく。
レイバーの姿も、その中にあった。
最後に見えたのは、斧を握った腕だった。
それから、白い雪煙と黒い水飛沫がすべてを隠した。
谷に轟音が響いた。
橋は落ちた。
向こう岸とこちら岸は、断たれた。
◇
しばらく、誰も動かなかった。
追手の怒号が向こう岸で響く。
だが、もう渡れない。
谷は深く、橋は砕け、黒い水が木片と人影を飲み込んで流れている。
敵は撃ってきた。
何発かの弾がこちら岸の木に当たった。
だが、距離がありすぎる。
当たらない。
レイバーは見えなかった。
残った者たちも見えなかった。
谷底には雪煙が漂い、水音だけが聞こえていた。
ロビンは一歩前へ出た。
リッカがまだ腕を掴んでいる。
今度は強くではなかった。
ただ、離さなかった。
「レイバー」
ロビンは呟いた。
返事はない。
当たり前だ。
返事があるはずがない。
それでも、もう一度呼びたかった。
「レイバー!」
谷に声が落ちた。
水音が返ってきただけだった。
ロビンの手の中には、古い布片があった。
握りしめすぎて、指が白くなっている。
リッカがそれを見た。
「それ」
「昔の旗だ」
ロビンは言った。
声がかすれていた。
「レイバーが持っていた」
リッカの顔が歪んだ。
彼女は泣かなかった。
泣き方を忘れたような顔だった。
「ばか」
小さく言った。
「ずっと持ってたの」
「ああ」
「ばか」
もう一度言った。
それきり、言葉はなかった。
アルブレヒトが近づいてきた。
彼は谷を見下ろし、深く頭を下げた。
北部公爵軍の兵たちも、灰鷹隊士たちも、誰からともなく頭を下げた。
ロビンは頭を下げなかった。
下げられなかった。
頭を下げれば、終わりを認めることになる。
終わりを認めれば、足が動かなくなる。
レイバーは、それを望まないだろう。
怒鳴るだろう。
何してんだ、さっさと行け、と。
ロビンは布片を懐へしまった。
胸の奥へ押し込むように。
「進む」
彼は言った。
誰も反論しなかった。
「橋が落ちた今、時間は稼げた。だが、長くはない。北へ行く」
声は震えていなかった。
震えないように、必死で抑えた。
リッカが槍を握り直した。
「行こう」
それだけだった。
隊列は再び動き出した。
橋を失い、道を失い、また一人を失って。
それでも、北へ。
ロビンは最後に一度だけ振り返った。
谷の向こうには、落ちた橋の残骸と、雪煙と、怒号があった。
レイバーの姿はなかった。
だが、ロビンの胸には、古い手書きの旗の切れ端があった。
それだけが、妙に重かった。
◇
【レイバー・ツィンマー】
レイバー・ツィンマーは、トゥーゲンフルス帝国末期の灰鷹隊初期隊士であり、同隊の実質的な参謀、戦術担当として知られる人物である。グラウフェルト出身。父は頑固な大工であったとされ、レイバー自身も少年期から木材、縄、釘、工具の扱いに親しんでいた。
少年期のレイバーは、ロビン・フォン・バーゼル、リッカ、ローレンス・ミュラーらと共に、グラウフェルトの灰の野で遊んだ悪童集団の中心人物であった。没落貴族の子として周囲から浮きがちであったロビンを仲間に入れたのは、レイバーであったと伝えられている。
また、灰鷹隊伝承において重要な「手書きの旗」は、少年時代のレイバーたちが秘密基地に掲げた旗に由来するとされる。この旗をロビンに持たせたのもレイバーであり、後の灰鷹隊の象徴性を考える上で、この逸話は大きな意味を持つ。
帝都に出た後、レイバーは灰鷹隊において規律、実務、戦術を担った。荒っぽく口も悪かったが、隊士たちからの信頼は厚く、ロビンが表の隊長であるなら、レイバーは隊の骨組みを支える存在であったと評される。
彼の名を大きく高めたのは、火薬筒への対策である。
第一次チェシー征伐後、帝都に持ち込まれた新兵器である火薬筒をいち早く入手し、構造と弱点を研究した。初期火薬筒の装填速度の遅さ、煙による視界不良、近距離での白兵突撃への脆さを見抜き、枝束の盾や土籠を用いた接近戦術を考案した。
第二次チェシー征伐において、灰鷹隊はこの戦術により局地的勝利を収め、北部公爵軍の撤退支援に大きく貢献した。後世、この戦術は一時的な対症療法に過ぎなかったと評価されることもあるが、当時の帝国側において火薬筒を正面から分析し、現場の兵士に扱える対策へ落とし込んだ例は少ない。
ヴァーレンハーフェン市街戦においても、レイバーは重要な役割を果たした。市街を迷路化し、食料を分散し、井戸と倉庫を確保し、荷車や土嚢による即席防御を組み立てた。旧式火薬筒に小石や釘を詰める近距離散弾的運用も、現場での彼の指揮下で広まったとされる。
レイバーは体系的な軍事教育を受けていない。
貴族でもなく、騎士学校出身でもなく、宮廷軍学を学んだ記録もない。
しかし、大工の息子として培った構造への理解、下町での実務経験、戦場での観察力、そして何より「泥臭い勝ち筋」を探す才覚によって、灰鷹隊を何度も救った。
そのため後世では、彼について「生まれる時代と立場が違えば、名将になりえた人物」と評されることがある。
ただし、レイバー本人がこの評価を聞けば、おそらく笑って否定しただろうとも言われる。
彼は自分を大工の倅であり、灰鷹隊の嫌われ役であり、ロビンの悪友であると考えていた。
レイバーの最期は、北部撤退戦の途上にあった橋落としであったとされる。
ヴァーレンハーフェン脱出後、北へ向かう灰鷹隊と北部公爵軍残党は、革命派民兵および敗残兵の混成部隊に追われていた。レイバーは古い谷橋を利用し、追手の先頭を橋上へ誘導した上で支柱を破壊し、橋ごと谷へ落とす作戦を立てた。
この作戦により、追撃は少なくとも一日以上遅れたと推測される。北部公爵軍残党がさらに北へ進む時間を得たことは確かである。
レイバー自身の遺体は発見されていない。
橋の崩落に巻き込まれたとする説が最も有力であるが、谷底の流れが速く、当時十分な捜索も行われなかったため、詳細は不明である。
灰鷹隊伝承において特に有名なのは、彼が橋落としの直前、少年時代の手書き旗の切れ端をロビンへ渡したという逸話である。
史料的な裏付けは十分ではない。
しかし、ローレンス・ミュラーの回想録には、次のような一節が残されている。
「レイバーは、最初にロビンへ旗を持たせた男だった。そして最後にも、彼に旗を持たせた。あいつはいつも乱暴で、口が悪くて、誰よりも先に嫌な役を選んだ。けれど、僕らの中で一番、あの手書きの旗を忘れなかったのは、たぶんレイバーだった」
レイバー・ツィンマーは、騎士ではなかった。
貴族でもなかった。
名将として軍制を改革する機会も、歴史の表舞台に立つ機会もなかった。
それでも彼は、灰鷹隊が灰鷹隊であるために必要な男だった。
橋を作ることを知っていた男は、最後に橋を落とした。
仲間を先へ進ませるために。
そして、少年の日の旗を、ロビンの手に戻すために。
最終話までの調整で今日は一話のみです。
明日、で最終話です。20時から次々投稿します




