第41話 北へ帰る道
北へ帰る道は、街道ではなかった。
街道は、もう使えなかった。
帝都から北へ伸びる大路には、革命派の検問が立ち始めているという。宿場には赤い腕章をつけた民兵が入り、古い帝国印の通行証を持つ者を捕らえている。貴族の馬車は止められ、兵の集団は解体され、灰青色の首布を見せた者はその場で縛られる。
噂は、雪より早く降ってくる。
皇帝は死んだ。
宮城は焼けた。
帝都に新政府が立った。
灰鷹隊は旧体制の犬として指名手配された。
どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、誰にもわからなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
街道を行けば、捕まる。
だから、ロビンたちは街道を捨てた。
森の中を進む。
凍りかけた農道を進む。
刈り終えた麦畑の畦を進む。
名も知らぬ村の裏を抜ける。
ときには川沿いの湿地を歩き、ときには雪に埋もれた獣道を馬の鼻先で探った。
隊列はもう、軍と呼べるものではなかった。
ヴァーレンハーフェンを出た時には、まだ二百近い影があった。
負傷者を乗せた荷車。
北部公爵軍の残兵。
帝国軍から離れ、ついてきた者。
灰鷹隊。
火薬と食料を積んだ馬。
だが、日を追うごとに、数は減っていった。
凍えた者がいる。
傷が悪化した者がいる。
夜のうちに姿を消した者がいる。
村に残してくれと泣いた者がいる。
荷車の揺れに耐えられず、朝には息をしていなかった者もいる。
ロビンは数を数えるのをやめた。
数えれば、減ったことがわかる。
減ったことがわかれば、誰がいなくなったかを思い出してしまう。
それでも、ローレンスは数えた。
負傷者の数。
包帯の残り。
薬草の束。
水筒。
乾いたパン。
馬の蹄鉄。
そして、死者。
彼だけは、最後まで帳面を閉じなかった。
◇
雪は、細かった。
吹雪ではない。
ただ、空から絶え間なく白いものが落ちてくる。
積もるほどではないが、服を濡らし、髪に絡み、首筋から体温を奪っていく。
ロビンは外套の襟を上げた。
その先で、灰鷹隊の隊旗が低く揺れている。
布は泥に汚れ、端が裂けていた。
それでも、まだ旗だった。
交差する二枚の灰鷹の羽と、雷槍。
正式な隊旗。
公爵家から賜った旗。
帝都の詰め所で、皆が見上げた旗。
その旗が、今は雪の中で濡れていた。
「止めるぞ」
レイバーの声が前から聞こえた。
彼は斥候から戻ってきたところだった。髪にも眉にも雪がつき、顔は土と煤で汚れている。馬には乗っていない。足音を消すため、途中から降りて歩いてきたのだろう。
「前の村は駄目だ」
「革命派か」
ロビンが尋ねる。
「半分はな。赤い腕章の連中がいる。残り半分は怯えた村人だ。こっちが近づいたら、どっちに転ぶかわからねえ」
「食料は」
「ある。倉も見えた」
「なら」
「奪う気か」
レイバーの声は低かった。
ロビンは答えられなかった。
食料は足りない。
このままでは、負傷者から死ぬ。
だが、村から奪えば、それは何になる。
灰鷹隊は、帝都で治安を守った。
行商人を守り、下町を守り、弱い者を守るために槍を振るった。
それが今、飢えた敗残兵として村の倉を破るのか。
ロビンの沈黙を、レイバーは責めなかった。
彼も同じことを考えていたのだろう。
「迂回する」
ロビンは言った。
「西の林を抜ける。食料は」
「さらに削るしかねえな」
「すまない」
「謝るな」
レイバーは吐き捨てるように言った。
「お前が謝ると、俺が悪役みてえになる」
「悪役ではない」
「知ってる」
彼は肩を回した。
「俺は嫌われる役だ。悪役とは違う」
そう言って、また前へ向かおうとする。
「少し休め」
「休んだら、足が固まる」
「レイバー」
ロビンが呼ぶと、彼は振り返った。
目の下に濃い隈がある。
ここ数日、彼がまともに眠っていないことをロビンは知っていた。
斥候の割り振り。
落伍者の確認。
火の使用制限。
偽の足跡を残す場所。
追手を避けるための迂回路。
それらを、レイバーは怒鳴りながらこなしていた。
「倒れるぞ」
「倒れたら蹴って起こせ」
「起きなかったら」
「置いていけ」
ロビンは眉を寄せた。
レイバーは笑った。
「冗談だ」
「冗談に聞こえない」
「聞こえねえくらいがちょうどいい」
彼は前へ歩いていった。
その背は、少年の頃より大きくなっていた。
グラウフェルトの秘密基地で、端材を集め、手書きの旗を立てていたガキ大将。
お前、旗持てよ、と言った少年。
今、その少年は敗残兵の列の先頭で、雪の中へ消えていく。
ロビンは、胸の奥が重くなるのを感じた。
◇
リッカは夕暮れ前に戻った。
彼女は馬で斥候に出ていたが、戻ってきた時には馬を引いていた。
馬の息が荒い。
蹄に泥と氷がこびりついている。
「後ろ」
リッカは短く言った。
「追手?」
「たぶん違う。敗残兵と民兵が混じってる。こっちを追ってるというより、北へ流れてる」
「数は」
「多い。まとまってない。でも、こっちを見つけたら襲うかもしれない」
「目的は」
「食べ物」
リッカはそう言い、馬の首を撫でた。
「皆、飢えてる」
ロビンは頷いた。
敵だけが敵ではない。
飢えた者。
怯えた者。
帰る場所を失った者。
命令を失った兵。
正義を叫ぶ暴徒。
家族を探す民。
そのすべてが、雪の北路に溢れ始めていた。
「リッカ」
「何」
「休め」
「いや」
「命令だ」
「隊長面」
「隊長だ」
リッカはロビンを見た。
しばらく黙っていた。
それから、少しだけ目を逸らす。
「じゃあ、少しだけ」
「ああ」
「でも、何かあったら起こして」
「わかった」
「絶対」
「わかった」
リッカはその場に座り込んだ。
槍を抱えたまま、背を木に預ける。
眠ったのは、ほんの数呼吸後だった。
彼女の顔はまだ若かった。
子供の頃、ロビンの後ろを走っていた小さな槍使いの面影が残っている。
だが、その手には血の固まった跡があり、頬には消えない疲労が刻まれていた。
ロビンは外套を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
すぐに寒さが体へ入ってきた。
それでも、かけた。
◇
夜営は、森の中の窪地で行われた。
火は小さく、数も少ない。
煙が上がれば見つかる。
だが、火がなければ凍える。
その中間を探すことが、これほど難しいとは思わなかった。
ローレンスは負傷者の間を歩いていた。
足を引きずる兵。
熱を出した隊士。
腹を押さえる騎士。
凍傷で指が白くなった馬丁。
彼は一人ずつ見て、包帯を替え、残り少ない薬を分け、水を飲ませた。
「これは、明日までもつ」
彼は言った。
「こちらは、荷車を替えて。揺れが少ない方へ」
「薬は?」
「半分だけ」
「半分で効くのか」
「効かせる」
ローレンスの声は穏やかだった。
だが、目は赤い。
彼もまた眠っていない。
ロビンが近づくと、ローレンスは顔を上げた。
「隊長」
「ロビンでいい」
「じゃあ、ロビン」
彼は少し笑った。
その笑みは、すぐに消えた。
「薬が足りない」
「どれくらい」
「足りないというより、もうないと言った方が早い」
ロビンは息を吐いた。
「水は」
「雪を溶かしている。でも、火を大きくできないから時間がかかる」
「食料は」
「明日から、さらに減らすしかない」
「負傷者は」
ローレンスは答えなかった。
答えられないのではない。
答えたくないのだ。
ロビンはそれを理解した。
「ローレンス」
「言わないで」
ローレンスは小さく言った。
「まだ、言わないで」
「……わかった」
「僕は、できることをする」
「ああ」
「でも、できないことが増えていく」
その声は震えていた。
ローレンスは泣いていなかった。
だが、泣くより苦しそうだった。
「置いていく判断を、僕にさせないで」
ロビンは何も言えなかった。
ローレンスは顔を伏せた。
「ごめん。わかってる。誰かが決めなきゃいけない。でも、僕は」
「決めるのは私だ」
ロビンは言った。
「お前ではない」
ローレンスは顔を上げた。
「だから、お前は最後まで助けろ。助けられる者を助けろ。できないことの責任は、私が持つ」
ローレンスの目が揺れた。
「そんなの、ロビンばかりが」
「隊長だからな」
ロビンは少しだけ笑った。
「隊長面だ」
ローレンスも、泣きそうな顔で笑った。
「リッカみたいなこと言うね」
「ああ」
少しだけ、昔に戻った気がした。
グラウフェルトの灰の野。
手書きの旗。
秘密基地。
あの頃、彼らは何も失っていなかった。
いや、失うものが何かも知らなかった。
今は、すべてを数えている。
食料。
薬。
火薬。
馬。
命。
そして、残された時間。
◇
翌日、また三人がいなくなった。
一人は夜明け前に息を引き取った。
一人は、村に残ると言った。
もう一人は、いつの間にか姿を消していた。
追わなかった。
追える余裕がなかった。
ロビンは名を帳面につけるローレンスの横に立っていた。
ローレンスの手は震えている。
それでも文字は崩れない。
「九十七」
彼は呟いた。
「今、動ける者と荷車の者を合わせて、九十七」
百を切った。
ロビンは空を見上げた。
雪が降っている。
南から逃げる者たちの足跡は、降る雪に少しずつ消されていく。
それは追手を惑わせるかもしれない。
同時に、彼ら自身の道も消していく。
グラウフェルトまで、まだ遠い。
北部要塞まで、まだ遠い。
シーベルト火山の影は見えない。
このままでは、たどり着けない。
ロビンはそれを、誰にも言わなかった。
だが、レイバーも、リッカも、ローレンスも、たぶんわかっている。
アルブレヒトもだ。
公爵は馬上で進んでいた。
背筋は伸びている。
しかし、顔色は日ごとに悪くなっていた。
弟として兄を失い、父として娘の安否を知らず、領主として兵を減らし続ける。
そのすべてを背負って、彼はまだ公爵でいようとしていた。
ロビンは、彼を支えたいと思った。
だが、自分も支えを必要としている。
その時、前方の林から短い鳥の鳴き声がした。
本物ではない。
灰鷹隊の合図だ。
リッカがすぐに目を開けた。
眠っていたはずなのに、槍を掴むのが早い。
レイバーも火薬筒を手に取った。
「前方に人影」
斥候が戻ってきた。
「数は?」
ロビンが聞く。
「十数名。いや、もう少し。避難民のようですが、武器を持つ者もいます」
「革命派か」
「わかりません」
レイバーが舌打ちした。
「避けるか」
「進路上だ」
リッカが言った。
「向こうもこっちに気づいてる」
ロビンは槍を握った。
「隊列を止めろ。負傷者を中央へ。火薬筒は見せるな。まず話す」
「話せる相手ならな」
レイバーが言う。
「その時は、お前が怒鳴れ」
「任せろ」
彼は少しだけ笑った。
ロビンは前へ出た。
雪の林道。
枯れた枝。
白く霞む空気。
その向こうから、人影が現れる。
避難民のように見えた。
荷を背負った者。
女。
老人。
子供。
その周囲を、数名の男たちが守っている。
彼らの動きに見覚えがあった。
下町の者ではない。
兵の動きだ。
そして、その首元に、汚れた灰青色が見えた。
ロビンの心臓が跳ねた。
「灰鷹か」
レイバーが低く言った。
前方の男がこちらに気づき、槍を下げた。
ヘルマンだった。
帝都残留組の年長隊士。
顔はこけ、外套は裂け、片腕に包帯を巻いている。
それでも彼は、ロビンを見るなり膝をつきかけた。
「隊長……」
「ヘルマン!」
ロビンは駆け寄った。
「帝都は。皆は」
聞きたいことが多すぎた。
だが、ヘルマンは答える前に、後ろを振り返った。
人影が一つ、ゆっくりと前へ出てくる。
灰色の外套だった。
雪の中で、その色はひどく静かに見えた。
深くかぶったフードの下から、白い頬が覗く。
その手は、腹の前で外套を握っていた。
ロビンは息を止めた。
世界の音が遠くなる。
雪の落ちる音すら聞こえなくなる。
灰色の外套の女が、顔を上げた。
目が合った。
帝都の屋台。
落ちたサンドイッチ。
マヨネーズ。
エリー。
婚礼の日の笑顔。
戦前の別れ。
すべてが一瞬で戻ってきた。
「……エリー」
ロビンの声は、かすれていた。
エレオノーラは笑おうとした。
だが、笑顔になる前に涙がこぼれた。
「ロビン」
彼女はそう言った。
その一言だけで、ロビンは駆け出していた。
槍を雪の上に落とし、外套も忘れ、ただ彼女へ向かった。
エレオノーラも一歩踏み出す。
ヘルマンが慌てて支えようとしたが、彼女は首を振った。
ロビンは彼女を抱きしめた。
強く。
だが、すぐに力を緩めた。
彼女の腹を思い出したからだ。
エレオノーラはその腕の中で震えていた。
寒さだけではない。
恐怖。
疲労。
安堵。
悲しみ。
すべてが一度にほどけた震えだった。
「生きていた」
ロビンは言った。
「生きていてくれた」
「あなたも」
エレオノーラは彼の胸に額を押しつけた。
「あなたも、生きていた」
ロビンは目を閉じた。
雪が二人の肩に降る。
周囲で、灰鷹隊の者たちが息を呑んでいる。
レイバーは顔を背けた。
リッカは槍を握ったまま、黙って見ていた。
ローレンスは両手で口元を押さえ、泣きそうな顔をしていた。
アルブレヒトは馬から降りていた。
彼はしばらく動かなかった。
娘を見ていた。
生きている娘を。
そして、ゆっくりと歩み寄った。
「エレオノーラ」
その声は、公爵のものではなかった。
父の声だった。
エレオノーラはロビンの腕から身を離し、父を見た。
「お父様」
アルブレヒトは、彼女を抱きしめた。
強く、短く。
それから、すぐに離した。
長く抱きしめていれば、崩れてしまうからだろう。
「よく生きていた」
「リオンが」
エレオノーラは言った。
「リオンが、助けてくれました」
その名を聞いた瞬間、空気が変わった。
レイバーが顔を上げる。
ローレンスが息を呑む。
リッカの目が揺れる。
ロビンは、ゆっくりとエレオノーラを見た。
「リオンが」
「ええ」
エレオノーラの声は震えていた。
「彼は帝都へ戻ってきました。貴族街から私たちを連れ出してくれました。下町へ抜ける通用口で追手に見つかって……扉を閉じて、残りました」
誰も言葉を発しなかった。
雪だけが降っている。
レイバーが、拳を握りしめた。
「馬鹿野郎」
低い声だった。
怒りではない。
いや、怒りもある。
だが、それ以上に、行き場のない何かだった。
「何で言わねえんだよ」
ローレンスは膝をついた。
雪の上に。
彼は両手で顔を覆った。
「理由があるはずだって、言ったのに」
声が震えている。
「言ったのに……」
ロビンは何も言えなかった。
リオン。
紋章を捨てた男。
帝都へ消えた男。
裏切ったと、心のどこかで思ってしまった男。
彼は、エレオノーラを逃がした。
ロビンの妻を。
ロビンの子を。
自分の名を捨てて。
ロビンは雪の上に落とした槍を見た。
拾うことができなかった。
胸の奥が痛い。
謝りたい。
怒りたい。
殴りたい。
抱きしめたい。
だが、リオンはここにいない。
言葉は、届かない。
エレオノーラが、ロビンの手を握った。
「彼は最後に、あなたに伝えてくれと言いました」
「何を」
「でも、すぐに言い直しました。伝えなくていい、きっと怒るだけだ、と」
ロビンは、笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
結局、どちらにもならなかった。
「怒るさ」
彼は言った。
「当然だ」
レイバーが乱暴に目元を拭った。
「あとで殴る」
「私も」
リッカが言った。
その声は小さかった。
「私も殴る」
ローレンスは顔を上げた。
涙で濡れた顔で、笑おうとした。
「僕は、謝る」
誰もそれを笑わなかった。
雪は、ただ静かに降り続けていた。
◇
再会の喜びは、長くは続かなかった。
続けることが許されなかった。
ヘルマンたち帝都脱出組は疲れ切っていた。
負傷者もいる。
下町の協力者に助けられ、幾つもの検問を避け、時には避難民に紛れ、時には墓地の横で夜を明かして、ようやくここまで来たのだという。
彼らが持ってきた情報は、どれも重かった。
帝都の宮城は落ちた。
皇族の多くが捕らえられた。
貴族街は封鎖され、屋敷ごとの捜索が始まっている。
灰鷹隊の本部は襲撃され、残留隊士の多くが戦死した。
下町では、灰鷹隊を匿う者もいれば、革命派に引き渡す者もいる。
新政府は北部公爵軍を旧体制の残党として追うだろう。
そして、チェシー軍も南から北へ圧力を強めている。
ロビンたちは、ますます狭い道へ追い込まれていた。
アルブレヒトは、雪の中で地図を広げた。
紙は濡れ、端が破れている。
レイバーが横から覗き込む。
リッカは周囲を警戒し、ヘルマンは部下を休ませていた。
ローレンスはエレオノーラの様子を見ている。
ロビンは、エレオノーラのそばを離れられなかった。
離れたくなかった。
だが、アルブレヒトの声が彼を現実へ戻した。
「ここから北部要塞へ向かうには、二つの道がある」
一つは、街道。
速い。
村も宿場もある。
だが、検問がある。
革命派の目がある。
軍として進めば見つかる。
もう一つは、今のように森と農道を抜ける道。
遅い。
食料がない。
負傷者が死ぬ。
そして、この遅さでは、包囲が完成する前にグラウフェルトへたどり着けない可能性が高い。
誰も、その最後の言葉を口にしなかった。
だが、皆わかっていた。
エレオノーラは、地図を見ていた。
そして、静かに言った。
「私は、あなたたちと行きます」
ロビンは顔を上げた。
「エリー」
「一緒に行きます」
彼女は、もう一度言った。
声は震えていなかった。
「ここまで来ました。あなたを見つけました。もう離れません」
ロビンは言葉を探した。
だが、見つからなかった。
彼も同じことを願っていた。
一緒にいたい。
守りたい。
もう二度と手を離したくない。
けれど、目の前の地図が、雪が、負傷者のうめきが、すべてそれを許さなかった。
「ならぬ」
アルブレヒトが言った。
声は冷たかった。
エレオノーラが父を見る。
「お父様」
「お前はここで本隊を離れろ」
「嫌です」
「命令だ」
「私はもう子供ではありません」
「子を宿している者が言う言葉ではない」
エレオノーラの顔が強張った。
ロビンも息を呑んだ。
アルブレヒトは娘を見ていた。
その目は冷たい。
いや、冷たく見せている。
「我らと進めば、遅れる。遅れれば包囲される。包囲されれば、女も子も関係なく死ぬ」
「それでも」
「それでもではない」
公爵の声が強くなった。
「お前は、ロビンの妻である前に、母になる者だ」
エレオノーラは唇を噛んだ。
「私だけ逃げろというのですか」
「そうだ」
「お父様を置いて」
「そうだ」
「ロビンを置いて」
アルブレヒトは一瞬だけ黙った。
だが、答えた。
「そうだ」
エレオノーラの目に涙が浮かんだ。
「ひどい」
「そうだ」
「お父様は、ひどい」
「そうだ」
アルブレヒトは、ただ同じように答えた。
その声は揺れていなかった。
だが、拳は震えていた。
ロビンはその拳を見た。
父として抱きしめたい。
公爵として突き放さなければならない。
その二つの間で、彼は自分の心を殺している。
「街道を、少数で行け」
アルブレヒトは言った。
「避難民に紛れれば、軍よりは目立たぬ。身分を隠せ。貴金属は捨てろ。名を名乗るな。ヴァルトハイムへ向かうな。まず北西の村々を抜け、グラウフェルトの近くへ出ろ」
「護衛は」
ロビンが尋ねた。
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
アルブレヒトは周囲を見た。
ヘルマンは負傷している。
灰鷹隊士は数が少ない。
レイバーとリッカは、残る隊を支えるために必要だ。
そして、ローレンスが顔を上げた。
彼は、すでに理解していた。
「私が行きます」
ローレンスは言った。
声は静かだった。
だが、顔は真っ白だった。
「ローレンス」
ロビンが言う。
ローレンスは首を振った。
「僕が行く。怪我人の世話もできる。奥様の体調も見られる。下町の人の変装よりは下手だけど、避難民のふりくらいならできる」
「お前は」
「行きたくないよ」
ローレンスは言った。
その一言で、周囲が静まり返った。
「行きたくない。最後まで一緒に行きたい。グラウフェルトまで。北部要塞まで。最後まで、みんなと」
彼の声が震えた。
「でも、ロビンの家族を守れるのが僕なら、行く」
ロビンは彼を見た。
少年時代からの兄貴分。
母一人、弟妹を支えるために仕送りを続けた男。
誰よりも優しく、誰よりも傷つきやすく、それでも最後まで人を見捨てられなかった男。
彼をここで本隊から離す。
それは助けることなのか。
命じることなのか。
逃がすことなのか。
追放することなのか。
ロビンにはわからなかった。
ただ一つだけ、言えることがあった。
「ローレンス」
「うん」
「お前には、守るべき家族がいる」
ローレンスは目を伏せた。
「母さんたちのこと?」
「ああ」
「ずるいよ、それを言うのは」
「わかっている」
「ずるい」
「それでも言う」
ロビンは、ローレンスの肩に手を置いた。
「そして今は、私の家族も守ってくれ」
ローレンスの顔が崩れた。
彼は泣いた。
今度は、隠さなかった。
「そんな命令、断れるわけないじゃないか」
「すまない」
「謝らないで」
「すまない」
「謝らないでってば」
ローレンスは泣きながら笑った。
「本当に、隊長は嫌な命令をする」
「そうだな」
レイバーが横から言った。
「こいつは昔からそうだ。自分が嫌な顔して、嫌な命令をする」
「お前ほどではない」
「俺は嫌な顔しねえ。怒鳴るだけだ」
リッカがローレンスの前に立った。
「泣きすぎ」
「ごめん」
「謝るな」
「ごめん」
リッカは少し困った顔をした。
それから、ローレンスの胸を軽く拳で叩いた。
「守って」
「うん」
「絶対」
「うん」
「あとで、怒るから」
「何を?」
「生きて帰ってこなかったら」
ローレンスは泣きながら頷いた。
「わかった」
◇
出発は、日が落ちる前に決まった。
夜になると検問は厳しくなる。
完全な暗闇では、エレオノーラの体に負担が大きい。
夕暮れの雪に紛れるのがよいと、レイバーが判断した。
エレオノーラは外套を替えた。
灰色の上等な外套ではなく、避難民から譲られた粗末な茶色の外套。
髪は布で隠し、手袋も古いものに替える。
侍女のミラも同じように身なりを落とした。
ミラは若いが、気丈な女だった。
エレオノーラのそばを離れず、荷の中から必要なものだけを選び、残りを雪の上に置いた。
貴金属は捨てた。
公爵家の印も隠した。
持っていくのは、水、少しの食料、包帯、替え布、そして小さな短剣。
ローレンスは自分の荷を半分以下にした。
帳面は持った。
薬袋も持った。
それから、少し迷って、灰青色の首布を外した。
手の中でしばらく見つめる。
ロビンは何も言わなかった。
ローレンスは首布を畳み、懐に入れた。
「捨てない」
「ああ」
「でも、見せない」
「ああ」
「リオンと同じだね」
ローレンスは小さく言った。
ロビンは胸が痛んだ。
「そうだな」
エレオノーラはロビンの前に立った。
雪が、二人の間に降る。
彼女は笑おうとしていた。
だが、うまく笑えなかった。
「また会えるわよね」
「ああ」
ロビンは即答した。
そう答える以外に、何ができる。
「必ず」
「約束よ」
「約束する」
「嘘をついたら許さない」
「つかない」
「ロビン」
「何だ」
「この子に、あなたの話をたくさんするわ」
ロビンは腹に目を落とした。
まだ見たことのない子。
まだ声も聞いていない子。
自分の子。
ロビンはそっと手を伸ばし、エレオノーラの腹に触れた。
手袋越しの温もり。
わずかな膨らみ。
そこに未来がある。
自分たちがたどり着けないかもしれない未来が。
「父親らしいことを、何もしていない」
ロビンは言った。
「今しているわ」
「何を」
「生きろと命じている」
エレオノーラは涙をこらえながら言った。
「私と、この子に」
ロビンは言葉を失った。
彼女はロビンの手に自分の手を重ねた。
「だから、あなたも生きて」
「ああ」
「グラウフェルトで会いましょう」
「ああ」
「シーベルト火山の見える場所で」
「ああ」
「手書きの旗の話を、聞かせて」
ロビンは少し笑った。
涙が出そうだった。
「あれは、ひどい絵だった」
「聞きたいわ」
「レイバーが描いた」
「なら、なおさら」
レイバーが遠くで「聞こえてるぞ」と怒鳴った。
少しだけ、皆が笑った。
雪の中で、ほんの一瞬だけ。
それは、灰鷹隊がまだ灰鷹隊であった頃の笑いに似ていた。
だが、すぐに風が吹いた。
笑いは消えた。
別れの時間だった。
アルブレヒトがエレオノーラの前に立った。
父と娘は、しばらく無言だった。
「お父様」
「行け」
「ひどい人」
「そうだ」
「でも、愛しています」
アルブレヒトの顔が歪んだ。
彼は娘を抱きしめなかった。
抱きしめれば、離せなくなるからだ。
代わりに、彼女の額に手を置いた。
「生きよ」
それだけだった。
エレオノーラは頷いた。
ローレンスが荷を背負う。
ミラがエレオノーラの腕を支える。
ヘルマンは本隊に残ることになった。負傷があり、長い街道歩きには耐えられない。彼はローレンスに深く頭を下げた。
「奥様を頼みます」
「うん」
「必ず」
「必ず」
ローレンスは頷いた。
三人、いや四人は、避難民の列へ紛れるように歩き出した。
茶色の外套。
粗末な荷。
俯いた女。
付き添う女中。
優しげな若い男。
どこにでもいる、戦から逃げる人々の姿。
それが、ロビンの妻と子を守る鎧だった。
ロビンは見送った。
足が動きそうになる。
追いかけたい。
呼び止めたい。
一緒に行きたい。
だが、レイバーが隣に立った。
何も言わなかった。
ただ立っていた。
リッカも反対側に立った。
ロビンの足が動かないようにするためのように。
ローレンスが一度だけ振り返った。
泣きはらした顔で、笑っていた。
ロビンは拳を上げた。
ローレンスも拳を上げた。
エレオノーラは振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまうとわかっていたのだろう。
ただ、片手を腹に添え、もう片方の手で外套を握りしめ、雪の街道へ歩いていった。
雪はしんしんと降っていた。
泣くことは許されなかった。
泣けば、足が止まる。
だから誰も泣かなかった。
泣かないまま、見送った。
やがて、四人の姿は、白い雪と避難民の影の中へ溶けていった。
ロビンは、ようやく槍を拾った。
冷えた柄が、手の中に戻る。
「行くぞ」
彼は言った。
声は、少しだけ低かった。
「北へ」
灰鷹隊は、再び歩き出した。
帰るために。
たどり着けるかどうかもわからない、故郷の火山と要塞へ向かって。




